©️Kasama Naoko

 庭にフキノトウがふたつ、顔を出した。これから、どんどん増える。去年、向かいの家の華道の先生、Tさんと話していて、フキノトウが好物と知ったので、今年は少し分けようと思っている。

 Tさんは、昨春、タケノコをくれた。昨年はタケノコが豊作だったらしく、わたしは三人からもらったのだが、互いに示し合わせたかのごとく、ちょうどひとつ食べ終わるころに、次のが届いた。最初は、喫茶店の店主Iさんで、別の用でうちへ寄ったついでに、自分で水煮にしたのをくれた。次が先のTさんで、これも下拵えの済んだものを、たしか、付き合いのあるお寺でもらったからと言い添えて、くれた。最後は、隣家のMさんで、ちくわと一緒に煮つけたのを届けてくれた。

 Mさんは、フキノトウは苦手だが、フキは好きなので、茎が伸びてきたら収穫して、玄関先に置く。フキのあとは、ミョウガタケも分ける。フキもミョウガも、うちには生えているが、隣にはない。他方、隣の家には柿やキウイがあって、あまり食べないからと、くれる。貸している農地の借り手がたくさん持ってきたからと、タラの芽を分けてくれたこともある。

 こうやって、ものをあげたり、もらったりする例は、書き出せばきりがない。野菜も来るし、まんじゅうや豚肉の味噌漬けのような商品も来る。猟をする親戚が獲ったというシカとイノシシの肉も、もらったことがある。まだこの土地に数年しか住まず、たいして知り合いもいない自分ですらこうなのだから、地元に生まれ育った人々のあいだでは、もっとたくさんのものが飛び交っているだろう。喫茶店主のOさんは、贅沢を言わなければ、もらったものだけでなんとか生きていけるんじゃないか、と言っていたが、それだけで、というのは大袈裟だとしても、そう言ってみたくなる環境があるのは間違いない。

 茶農家である宮崎の母方の本家からは、毎年、暮れに必ず贈答用のポンカンが届く。また、こちらは必ずではないけれども、夏にはマンゴー、冬にはキンカンが送られてくる。もちろん、お茶はすべて伯父のつくったお茶を飲む。さらに、東京に住んでいたころは、時々、家庭菜園の野菜や地場産の加工品を、伯母が詰め合わせて、送ってくれていた。

 箱詰めも体を使うから、相当な歳になった伯母は大変なようだ、と母から聞く。苦労とお金をかけて送ってもらうばかりでは悪いから、一定の謝礼を払って定期便にすればいいのではないか、などと考えたこともあったが、いま思えばなんと浅はかな「都会者」の考えだろう。

 はっきりと、そう気づいたのは、あるとき、一週間ほど伯母のところに滞在したときだった。大人になってからは滅多に行くこともなく、帰省というよりは旅行の気分でいるこちらは、「地方」に来ているのだから、なるべく現地の利益になるように、ものを買おうと思っている。ところが、伯母は、わざわざ無駄なお金を使うことはないからね、と言って、出かけるときのお茶まで用意してくれる。

 いわゆる「お金を落とす」ということを、気持ちのよいこととは受け止めていない感じが、伝わってきた。観光客が来て金を遣っていくことを、あえて否定はしないし、県の宣伝としてつくられたものについては、東京のひとなどは喜ぶのだろうと先回りして入手してくれることもあるが、それはあくまで、外向きのものであって、自分たちの日々の生活とは切り離されている。経済的には関係があっても、心情的には関係がない。

 だから、わたしが道の駅で売っているようなものを買うときには、ふうん、と興味なさげな伯母だったが、他方、わたしが誰かにものを贈ることと、死者に挨拶することについては、喜んだ。仏壇に手を合わせる、墓参りをする。当時施設にいた祖母に会いに行くときは、祖母への差し入れだけでなく、職員一同あての手土産も持参するようにと勧めた。わたしがもっていって、祖母がお世話になっていますと言って渡すことに、意味がある。

 旧弊だろうか? しかし、小学校教員を長くつとめた、ざっくばらんな伯母は、形式を求めているのではない。たしかなのは、金を払うよりも、墓に水をかけたり、手土産を第三者にあげたりするほうがずっと、ポンカンやマンゴーやサツマイモに対する返礼になる、ということだ。

 等価交換は、その場で交換を完了させることで、交換する両者の関係性を即座に断ち切る。これに対し、贈与のさまざまな形態は、贈り物とお返しのあいだに時間差を設けたり、贈り物を多数の人間のあいだに循環させたりすることで、関係性を長引かせ、社会の成員間の結びつきを保証する重要な要素となりうる。山田広昭の『可能なるアナキズム』で議論の前提として示される交換と贈与の基本を、ごく単純にまとめれば、おおむねこういうことになるかと思うが、このような、等価交換に対立するものとしてある贈与の仕組みは、都市部以外に暮らしていれば、まったくの日常として実感される。

 秩父の若い農家Aさんが、たくあんが漬かった、というので、分けてもらいに行く。ここのたくあんはおいしいから今年もぜひと、あらかじめこちらから頼んであった以上、買うつもりで行くのだが、金を受け取ろうとはしない。「そういうんで作ってるんじゃないから」と言う。本音だろうと思うので、いただいておく。

 保存食を仕込むにも、祭事の準備をするにも、こうした家では、自分の分だけ、家族の人数分だけ、ということはありえない。かつては年に一度、近所で道具を貸し合って醤油をつくったもので、その時期になると集落じゅうにいい匂いが漂ったと、Aさんのおじいさんが話してくれたことがあるけれど、たぶん、その感覚は、完全には消えていない。このくらいは仕込むものだと体が覚えている分量を仕込むのであって、その場合の分量は、共同体が基準となっている。現代だから、関係のない者には価格をつけて売ることもあるが、共同体の側にある者に対してそうするのは、落ち着かないのだろう。

 無論、昔の村落共同体の厳しいしがらみを復活させようとは露ほども思わない。しかし、フキノトウが出れば、あのひとにあげよう、と連想するような日常を送っていると、互いに声をかけ合い、ものを贈り合うことでまわる社会には、それなりの可能性があるはずだ、とは思う。ものを買わなくてもなんとか食べていけるかもしれないと思ってしまうほど、生産物も、人間関係の網目も豊かなのに、全国規模のチェーン店のような消費喚起装置が揃わないからといって「田舎だから、何もない」と言わせ/言わされつづける、そのような物事の見方に、付き合う必要はない。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。