©️Kasama Naoko

 朝はまだ冷えるとはいえ日があたれば暖かくなり、オオイヌノフグリやヒメオドリコソウが咲き出す三月半ば、コリアンダーの種を撒いたところに水をやっていたら、草の上にチョウがとまった。ずいぶん早いと思ったけれど、あとから調べるとキタテハという種で、成虫になってから冬越しするので、気温があがるとすぐに出てくる。食草のカナムグラが、家の裏にたくさん生えているから、その辺りに潜んでいたのだろう。

 花が咲き出せば、かならず虫もやってくる。虫が増えると、虫を食べに小鳥が来る。庭にはウメの大木があって、ケムシがつくし、ユズにはアゲハチョウが卵を産みつけるから、昆虫を大量に食べるシジュウカラのような鳥にとって、ここは餌を見つけやすいに違いない。アゲハは、夏になるとクサギやヤブガラシの花を好んで吸うが、これらも裏に群生している。

 虫が得意、とまでは言わない。室内で出会えば、飛びすさったり、思わず声が出たり、外へ出そうとして手が震えたりすることもある。そのような反応をもって「生理的」ないし「本能的」と呼び、断固たる拒否の根拠とするのが、こと虫に関しては、通例なわけだけれど、わたし自身は実のところ、生まれながらに虫の類いが苦手だったわけではない。

 越谷に住んでいた幼稚園児のころは、チョウを捕まえて指を鱗粉で汚したりしていたし、狭い庭で、石塀の地際にくっついているジグモの巣の端をはがして、くもさん、くもさん、出てきなんせ、と唱えながら、細長い巣が途中で切れないようゆっくり引っ張り出すという遊びも、母親に教わって、やっていた。それに、市民農園も借りていたから、畑でさまざまな虫に出会っていたはずだ。「生理的」であるかのように虫の出現に対し反射的に体が動くのは、いつの間にか習い覚えたしぐさにすぎない。生理的ではなく、文化的なものだ。

 生理や本能と思われているものは、しばしば文化的なものである、あるいは少なくとも文化的な要素に左右される。とりわけジェンダー論を通じて、こうした考えは一般論としてそれなりに共有されるようになってきている、とは思うのだが、とはいえ、個別の現象については、指摘されてはじめて気づくことも多い。

 たとえば以前、フランスとイタリアに長く暮らした文学研究の友人Nに日本の女性は総じて声が高い、これは文化的なものだと思う、と言われて、すぐには納得できなかった。声の高さなど、元々の体の問題でしょう、と。でも、意識してみると、自分の出せる声のレンジのなかで、どの辺を発話に使うかは、ある程度調節できて、思い返せばわたし自身、女子同士で「はしゃぐ」感じで話すときや、電話で未知の相手に形式的な台詞で応答するときは、かなり高めに発声を設定している。また、フランス留学中、韓国人の友人と一緒にいるときは、お互い低めの地声で話していて、それがとても楽だった、ということも、思い出した。日本社会において女性がどのようなものと規定されてきたかに、声の高さは関わっているのだろう。

 どんなときに涙を流すか。どんなときに吐き気を催し、あるいは実際に吐くか。鳥肌が立つ、叫ぶ、尿意を催す。身体のレベルで生じることは、身体のレベルだからといって、あらゆる人間において同じように生じるとはかぎらない。人間の「本能」は、自分を取り巻く社会との関係において、調えられていく。(少し視点は違うけれど、わたしがこうしたことを考える契機のひとつとなったのは、ピエール・パシェの『日々の営み』[未邦訳]における、吐き気は感情の一種かどうかをめぐる記述だった。)

 あれはなんの雑誌だったか、特に著名人というわけではない数人が、かつて自分の住んでいた家について、間取りを示しつつ語るという記事があり、そのなかで、養蚕家出身のひとが、蚕に影響が出るので蚊取り線香は厳禁でした、と述べていた。言われてみれば当たり前なのだが、目の醒める思いがした。秩父をふくむ養蚕地域では、お蚕さまが、つまりは虫が、もっとも大事にすべき稼ぎ頭であって、蚊を殺そうとすれば、彼らも弱ってしまうのだった。

 虫を見れば震えあがり、ほとんどのものは無害なばかりか、なかには土を豊かにしたり植物の受粉を助けたりするものもいるのに、大騒ぎをして殺すまでは気が済まない、という「本能」がつくられたのは、そこまで遠い昔の話ではない。内山昭一『昆虫食入門』に、明治以降、つまり蚕の活躍とまさに同時期、「害虫駆除」の実践が国家主導で推進され、さらに戦後の「衛生」観念が、虫嫌いの一般化に拍車をかけた経緯が簡潔に示されている。ただ、印象としては、その後の半世紀で、日常的に接する虫の種類と数がきわめて少ない都市の住環境が広がるにつれ、虫に対する「生理的嫌悪」は、極端化している気がする。

 秩父に住んでいる、と話すと、わたしは虫が駄目だから無理、と即座に遮断されることが、思った以上に多くて、戸惑う。絶滅してほしい、といった攻撃性を見せるひともいれば、自然が好きなのに残念、とまるで宿命であるかのように悄然とするひともいる。アレルギー反応のような器質的な障害がある場合も、もちろんあるのだが、大抵は、体質の問題ではなく、しかしそうであるかのようにふるまうのが共通了解となっている、というより、本人にとっては実際そのように認識されているため、こちらから何かを言うことは難しい(言えば、嫌がらせになりかねない)。それにしても、土のある場所に暮らすことには、よい点にせよ悪い点にせよ、無数の要素がふくまれるはずなのに、「虫」の一点をもってすべてが否定されてしまうのは、個々人というよりは、そうした言説が流通する社会に、なにか歪みがあるように思われてならない。

 裏庭の土の上を、ムカデがするすると通っていく。やはり一瞬、どきりとするのだが、その滑らかな移動を眺めてみると、家のなかに「出た」ときの不気味な印象とは違って、色合いも質感も動き方も、周囲になじんで、活き活きとしている。こちらが本来の姿なのだな、と思う。そうした姿を見慣れてくると、特に仲良くなりたい相手ではないにしても、だからといって、死んでしまえばいい、とは思えない。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。