©️Kasama Naoko

 五年前の正月に、売家をひとつ見に来て、そのときに、まったく縁のない秩父の町を、はじめて歩いた。特急に乗るまで間があるから、どこかで時間をつぶさなくてはいけない。ずっと外で過ごすには寒く、脚も疲れてきて、といっても、まだ三が日で大抵の店は休みだろうし、知らない町をひたすら歩きつづけてしまうのは昔からの癖なので、座れそうな場所がなければ歩いていようと思いつつ、商店の並ぶ参道から脇道のほうを何気なく見やると、喫茶店らしき看板が目に留まった。

 ガラス張りのきれいな喫茶店だが、入ってみると明るすぎることもなく、コーヒーも、カレーも、鳴っている音楽も、調度や食器類も、意外に硬派な海外文学のある書棚も、驚くほどの隙のなさで、しかも夜十時まで開いているという。家で仕事をしていて、気分を変えたくなったときに、夜でもこういうところに来られるなら、ずいぶん楽だ、と思った。

 市内の若いひとたちがつくったらしい散策マップをもらって、眺めてみると、狭い範囲にいくつも喫茶店がある。その後は家探しに来るたび、違う喫茶店に入ってみたが、店主が自分の好きにやっている、といった雰囲気は、最初に行った店にかぎらず、あちこちに見られた。この十年ほどのあいだに営業をはじめた喫茶店が多いようで、それは大都市集中から地域振興へ、という全国的な流れを反映しているのだろうけれど、ただ、小さな町にこれだけ独自性の強い店がそろうのには、秩父なりの脈絡がありそうな気がする。

 のちに、店主たちと話すようになってから、秩父のひとの性格を、地元出身のMさんに聞いてみると、謙遜しないのよ、と、困ることもあるといった調子で答えた。やはりこの地域で生まれ育った別の喫茶店主、Hさんは、秩父のひとはくよくよしない、と言う。

 こうした一般化は、いずれにせよ乱暴なものには違いないけれども、率直な物言いのひとが多いこと、自分を晒すのを怖れない傾向があることは、何度か町を訪ねて、感じた。南木佳士が小説やエッセイに描く信州の人々を思い出させるところがあって、山の人間の感じなのだろうか、と思った。佐久の病院に長く勤めた南木は、年老いた患者たちが、医者の前で萎縮するどころか、むしろ若造をさとすかのようにはきはきと意見を述べる様子を書き留めている。

 これは、たぶん、そう突飛な連想でもない。秩父と佐久のあいだには昔から道が通じていて、ひとの行き来が盛んだったことは、秩父事件の成りゆきを見てもわかる。奥秩父連峰のこちらと向こうで、一定の気質を共有しているのは、ありうることではないだろうか。

 それぞれの店主が好きなように仕立てた喫茶店の空間があり、地元の者でも通りすがりの者でも、一人で気兼ねなく過ごせる、というのは、つまり、横並びに周囲に合わせることを要求する圧力が、そう強くない土地柄なのかもしれない。住んでみようか、と思うようになった。

 引っ越して、しばらく経ったころ、深沢七郎の墓が近くにあることを知った。彼が農業をして暮らしていたのは久喜のほうだから、同じ埼玉とはいえ、秩父とは東西の両端で、かなり遠いのだが、なぜか、秩父市内の聖地公園墓地に、本人が生前に墓を立て、そこに埋葬されているという。

 作家などの墓を訪ねることはほとんどないけれど、深沢なら、と思った。しかも、地図でたしかめたところ、家から歩ける距離だ。初夏の一日、シャガの咲く坂道をのぼって、高台の広大な墓地へ向かうと、二十分ほどで墓前に着いた。

 深澤家、と彫られた墓石の背景には、武甲山が、石灰石採掘で階段状に抉られた山肌を見せて、そびえている。墓石の側面には「昭和四十六年七月/深沢七郎建之」とある。亡くなったのは一九八七年、昭和六十二年だから、建てて十六年後に入ったことになる。

 横長の洋型墓石だけが置かれた、すっきりした墓で、周囲の墓と違い、墓誌も塔婆立てもない。誰が担っているのか、掃除が行き届いていて、その分、がらんとして見える。墓誌がないのはなぜなのか。自分のためだけに建てた墓なのだろうか。潔いというか、投げやりというか、なんとはなしに深沢らしく、めんどくせえ、と寝転ぶ姿が思い浮かんだりした。

 その後も何度か訪れては、なぜ秩父で、なぜこういう墓なのか、不思議に思っていたが、最近「思想濃老日記」を読んでいたら、「きのえとらの日 晴」の項に、言及があった。深沢は「父の叔母さんの家の墓だけの跡つぎ」になっていて、その墓は甲府の菩提寺にあったのだが、戦後に再建した本堂が立派すぎて墓が日陰になったので、「埼玉に越してから秩父の市役所で経営している公園墓地に」移った。「私も一緒にはいるのですから、行きましょう」と言って、大叔母の骨壺を堀りあげ、ほかの者は土葬なので「土だけ一にぎり持って」墓を引っ越した、という。

 聖地公園墓地は、市営ながら、市外在住者も利用を申し込むことができる。寺と関わることなく、公営ならではの価格で県内に新しい墓地を用意できる、そう思えば、ここに決めたのは納得がいく。墓だけ大叔母の跡を継ぐのは、家が絶えて墓の面倒を見る者がおらず、他方、深沢の実家は兄がいて墓の心配はないから、四男の七郎が入ることで、分家の墓が見捨てられないようにしたのだろう。

 深沢の死後は、養子となった元同居人が墓を守っていたはずだが、彼も十年ほど前に亡くなって、この墓に入ったようだ。無縁の土地に、と考えると、墓を建てたのは、身内思いのようでいて、自らの漂泊の道連れにしたようにも思えてくる。

 佐久に住んで、土地の人間を多く描いている南木佳士は、当地の出身というわけではない。群馬の山村に生まれ育ち、東京や秋田住まいを経て、佐久に職を得たのだが、佐久は、群馬とは「浅間山をはさんで」反対側の位置にある、と彼は書いている。

 他方、深沢七郎は、山梨に生まれ育ち、東京に住み、放浪の日々を送り、関東平野の平たい風景が広がる埼玉・久喜に暮らした。そして遺骨は、山梨とは奥秩父連峰を挟んで反対側の秩父に納まっている。生地の石和との位置関係を見ると、ちょうど、雲取山が間に入るようだ。

 山を挟んで出身地の反対側に移った作家たち。そんなことを、ぼんやり考えながら、『猫の領分 南木佳士自選エッセイ集』を開いてみれば、読んだはずがすっかり忘れていたけれど、南木と深沢には交流があるのだった(「人間・深沢七郎──信州佐久にて──」)。若い医師にして作家志望の南木は、深沢が偶然、勤め先の佐久総合病院に入院したことを知り、白衣を脱いで、会いに行く。深沢はいつもの調子で南木の必死の問いをはぐらかすものの、以後は折に触れて励ましの言葉を投げかけ、南木が念願の文學界新人賞を受賞すると、ペリカンの万年筆を贈ってくれた。

 深沢がなぜ佐久の病院に来るようになったのかは、はっきりしない、と南木は言いつつ、いくつかの理由を挙げているが、そのなかに、「八ヶ岳をはさんで山向こうの山梨で生まれた深沢さんにとっては、故郷に似た信州の農村風景が気に入ったのかもしれない」とある。たしかに深沢は、佐久がたいそう気に入って、「信濃の野の友たち」という短文に、現地で出会ったひとや野菜やイワナのことを綴っており、その冒頭では、姥捨の小説を書いた自分が、「姥捨山のこちら側、S病院」で命を救われた、妙なめぐりあわせだ、と述べている。

 故郷に似ている、というのは、故郷そのものではない、という意味でもある。故郷のようで、でも故郷ではない場所。故郷とのあいだに、八ヶ岳が、あるいは「姥捨山」が、挟まっている。だからこそ、深沢は穏やかに過ごせたのではないか。

 先に挙げた、墓を秩父に移したことを記す深沢の文章は、実はそれが本題ではない。自分の墓は秩父に移したのだが、本来の家族や先祖の墓は甲府にあるから、甲府へ墓参りに行った、と話はつづき、帰郷の折に起きた事柄が語られる。

 理解し合っているつもりだった同郷の親しい住職に、七郎さんが死んだら文学碑を建てて、太宰治の桜桃忌のようなことを毎年やる、と言われた。深沢は衝撃を受け、「故郷へ帰ってくると、こんな怖ろしいことを考えている人があるのか」と、久喜へ戻る車中で困惑し、涙が出てくる。そして、生まれて六十六年もたてば「故郷なんてもうない」と言い、車の窓を開けて、「故郷は私を受けつけない、故郷は私を受けつけない」と「詩を朗読するように、そとの暗やみに向って話しかけ」る。

 縁のない山間の町に棲みついたわたしも、故郷を離れてここに骨を埋めた作家にならい、暗闇に向かって、同じように、なにかを話しかけてみたくなる。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。