©️Kasama Naoko

 武甲山のある方角が南、と教わったのは、この町に暮らしはじめてすぐだったと思う。たしかに、秩父の中心街から見ると、ほぼ真南に、単独で、町を見おろしているとしか言いようのない近さに、武甲山がある。わたしは中心街よりも北に住んでいるから、買い物をしたり、電車に乗ったりするときは、まず、市街地を南北に走る通りを、南に向かって、自転車で走る。自然と、武甲山を目がけて走っている感じになる。

 自転車を漕ぎながら、山を見あげるのだが、晴れていればいるほど、その山肌は、よく見えない。山が日光を遮って、光のなかに輪郭だけが影絵のように浮かぶから、逆光につつまれた巨大な黒っぽい塊が、目の前に立ちはだかる。

 武甲山の向こうは、南から西にかけて、奥秩父の二千メートル級の山々が連なり、その稜線もまた、背後からの光を受けて、墨色の帯をなす。盆地自体は、直射日光が遮られるわけではないから、晴れれば日の差すところは強烈に明るく、眩しいのだが、にもかかわらず、南側を山の影に占められているせいで、底に暗さが淀む。

 この感覚は、わたしだけのものではなく、むしろ広く共有されてきたもので、秩父の「暗さ」がかねてより語られてきた点、また街なかから見て南に位置する武甲山と奥秩父連邦の影が「暗さ」の印象をもたらす点については、秩父に生まれ育ち、当地を撮りつづけた清水武甲が、一九六九年に刊行した写真集『秩父』のあとがきで指摘しており、このくだりは秩父の風土を解説するのに引用されてきた。

 市街地を離れて、急斜面が襞をなす山間に入れば、陽の当たる面と当たらない面との光量のコントラストはさらに際立つ。まさに清水武甲の撮影した一点にあるとおり、フレームに収まったひとつの景色の、半分はうららかな光に満ちた春の耕地、もう半分は雪の積もった暗い冬の森、というような対照は、珍しくない。

 光量のコントラストは、気温のコントラストにつながる。春先や、梅雨時など、自転車に乗っていると、ぬるい風とひんやりした風、はっきりと温度の違う二種類の風が交互に吹いてくるときがある。日陰と日向で季節が違うような山々に囲まれているのだから、不思議はないだろう。

 山中の盆地である以上、年間の寒暖のコントラストもまた激しく、「寒さでは青森、暑さでは沖縄と同じだといわれている」(清水武甲・千嶋壽『秩父路50年』新潮社、1986年、35ページ)。冬はマイナス十度近くまで下がる寒冷地で、水道管は断熱しておかなければ破裂するのに、夏は最高気温全国一の熊谷と同じくらい暑い(本当は熊谷より暑いのではないか、と言う地元のひともいる)。寒い国から暑い国へと転換する春は、昼夜の気温差が二十度に及ぶ。

 こうした振れ幅の大きい風土は、たとえば無難な建前よりは直情径行を好んだり、祭に精力を傾けたりする気質とも結びついて、秩父の雰囲気を形づくっているように思う。写真で言うなら、フィルムで撮って、グレースケールの繊細さよりは白黒のインパクトを出すよう「かたく」焼いたモノクロ写真が、この町には似合う。

 清水武甲が示した秩父の「暗さ」は、地理的条件によるものだが、その後、武甲山が落とす影には、別の意味合いも加わった。

 古くから地域にとって大事な信仰の山であり、秩父の町を「見おろす」位置にありながら、この山には、見おろすための顔がない。ちょうど町の側を向いた北面が、セメントなどの原料となる石灰岩でできており、もう何十年も露天採掘で削られつづけて、のっぺらぼうになっている。清水は写真集『秩父』の時点で、すでに「ここ何年もなく白いアバタの山に変貌してしまうことだと思われる」と予告しているが、アバタどころか、一九八〇年前後には、山頂そのものを爆破して下へ下へと切り崩していく工法が採用され、以来、山の形そのものが大きく変わってしまった。清水武甲は固有種の植物もふくむ武甲山の自然環境保護を訴えつづけたが、現在も、毎日十二時半に発破がかけられ、山はどんどん減っていく。はじめて秩父を訪れたときは、山頂の積雪のために階段状の採石跡がなおさら目立ち、あの山はなぜ縞模様なのかと不思議に思った。

 そのわけを知ってからは、上半分が抉られた姿を見るたびに、オタール・イオセリアーニの『ジョージア、独りきり』にあった、顔のない死体の映像を思い出す。一九九四年にテレビ用ドキュメンタリーとして制作されたこの作品は、四時間にわたり、イオセリアーニの故郷、ジョージアの歴史をたどるもので(観たのはずいぶん前だから記憶違いがあるかもしれないけれど)、古来から独自の文化をもつジョージアが、次々と隣国に支配される苦難を描くのだが、終盤になって、近年、外からの侵略ではなく、国内の民族対立による紛争が起きたことに触れる。そのとき、わたしたちの国は何度も屈辱を受けてきたが、ここにいたってはじめて、恥ずべき戦争をした……といった内容の、自身によるナレーションとともに、普段は暴力的な映像を決して使わないイオセリアーニが、渾身の怒りと悲しみをこめて、市街戦で顔面をまるごと吹っ飛ばされ、後頭部だけが残った状態で仰向けに街路にたおれた死骸のカットを挿入する。

 削られる以前の完全な武甲山の姿は、清水武甲の作品が市内のいくつかの店に飾ってあり、わたしもいただきもののプリントを自宅に掛けているので、写真集を開くまでもなく、折に触れて眺める。襞が多く、ごつごつしているけれども、全体はなだらかに弧を描いた、兜のような、分厚くどっしりとした塊で、鎮座している、という表現がよく当てはまる。この写真と、現在の無惨な見た目を比べると、顔を抉り取られた死体の連想は、それほど大袈裟とも思えない。

 採掘された石灰石は、養蚕に代わって戦後の秩父経済を支え、またその石灰石からなるセメントは、高度経済成長期の東京の都市開発を支えた、というが、最近は、十年前に津波で大きな被害を受けた東北へ運ばれ、巨大防潮堤の建設に使われているとも聞く。町を見守る名峰を崩して得た石を、遙か遠くの海辺に運び、本当に住民を守るためというよりは災害便乗型ビジネスの一種と考えたほうがよほど腑に落ちる人工の山を建てて、二重に風景を破壊していることになる。

 昨年二月、風間サチコの個展「セメントセメタリー」を観に、東京・墨田区のギャラリー、無人島プロダクションへ足を運んだ。中に入ると、武甲山があった。

 風間は、近現代の強引な国土開発や拝金主義を、諧謔とともに問うてきた美術家で、主に大判の木版画による作品を制作している。少し前のブログに、秩父を訪ねたことが書いてあったので、きっとそうだろうと思ったが、やはり、新作の一点は、武甲山がモチーフだった。

 個展のタイトルと同様、《セメントセメタリー》と題された作品は、九点のパネルを、下から五枚、三枚、一枚と、山型に積みあがるように並べてあり、一見、ドローイングのようにも見えるが、固形墨によるフロッタージュ(乾拓)とあるから、彫った版木に和紙を置いて上から墨で摺る、木版画の一技法だ。

 墨でこすられて、紙の上に灰色に浮かびあがるのは、武甲山らしき山の、過去・現在・未来の姿。削られる前の武甲山の輪郭だけがぼんやりと現れる左下の一枚目から、右へ、さらに上へ進むにつれ、山は山頂から階段状に削られていき、有機的な形態は直線による構造に入れ替わって、いつしかティオティワカン遺跡の太陽のピラミッドへと変容してしまう。

 これら九枚の版画は、すべて一枚の版木によるもので、摺っては版木を削り、また摺る、を繰り返しているのだという。武甲山のように、版木自体が、削られて形を変えているのだ。版画は、取り返しのつかない操作の痕跡としてそこにある。

 そうして最後のパネルに、セメントのための、壮大な墳墓が幻視される。太陽のピラミッドと化した山のパネルが、背後に高層ビルの亡霊群をしたがえ、堂々たる完成形、とでもいった風貌で、九枚のパネルの頂点に立ってすましているのを見ると、笑えないのだが、笑いたくなってしまう。そのせめぎ合いが、見る者の心身を圧迫するところに、風間の本領がある。

 さらに、今年の六月には、東京都現代美術館で、TCAA受賞記念展として、最新作と旧作を合わせた展覧会が開かれ、そこでふたたび《セメントセメタリー》と対面した。ここには、二〇一八年発表の巨大な木版画作品《ディスリンピック2680》も、展示されていた。優生学に支配された未来の全体主義体制下で催されるオリンピック開会式の様子を、横六メートルを超える画面に緻密に彫りあげ、墨一色で刷る。制作当時は予見できなかった感染症蔓延の状況のもと、だが同時に本作の提示する予言をどこかしら反映するようにして、現実のオリンピックが開幕しようとする時期に、新たに開帳されたこの大作は、たぶん完成当初よりも一層不穏な空気を、会場に漂わせていた。

 言うまでもないことだけれど、武甲山の石灰石採掘は、一九六四年の東京オリンピックを契機とする都市化によって加速したのだし、今回のオリンピック開催が決まってから増加に転じた建設投資とも、無論、連動している。巨大国家事業と、痩せ細る信仰の山と、過去の繁栄、そして、それらを写し取るモノクロームの表現。そのすべての残像が、くっきりと相対する光と影に重なって、この盆地に降り積もっていく。

  • 写真は、『秩父路50年』より、清水武甲が撮影した一九四五年ごろの秩父市街地から見た武甲山。秩父を去る知人から譲り受けた足踏みミシンは、最初は三菱製が珍しいと思ったけれど、その後、市内の古物屋でも三菱のミシンが出ているのを見かけた。三菱電機は戦前にミシン製造をはじめた企業のひとつ。国産家庭用ミシンの生産は太平洋戦争開戦とともに禁止されたが、戦後になると「平和産業」として急成長を遂げた。写真のミシンはこの時代のものだ。では、なぜ秩父に三菱製が出回るのかというと、秩父で操業するセメント会社のひとつは三菱系で、現在も武甲山のふもとに工場がある。社員や関係者が、三菱ミシンを所有していたと考えられる。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。