©️Kasama Naoko

 昨年末で外構が完成して、土のある場所が定まったので、元からウメやユズなどいくつかの木が植わっていた一画以外にも木を植えていこうと、この春はいろいろと調べたり、見に行ったり、買ったりした。四年も仮植えしていたアンズとコブシはようやく定植して、アンズは実をひとつつけた。友人から贈られた常緑エゴノキも鉢から出して、無事に地面に根づいた。アーモンド、ネムノキ、シナノキは、苗を買って、植えた。

 自然に生えてくる草を排除して思いどおりの空間をつくる気はなく、たまたま生えてきたものと、植えたものとが、同居してくれればよい、と考えている。そうなると、植えるものも、輸入物の園芸種よりは、付近の野山に自生しているような植物のほうが合うだろう。川口にある「草木屋」のウェブサイトは、雑草・雑木として見過ごされがちな植物の苗を取り扱う上、同じ埼玉で植生が近く、参考になる。

 その草木屋(横山隆・晶子)が、ちょうど今春、『庭にほしい木と草の本』を刊行した。普段よく見かける草木の特徴や活用法が示されているのだが、活用できる、というのは、この本の場合、食べられる、薬になる、染められる、のほか、子どもが遊びの材料にできることもふくんでいて、要するに、親しむことが、役立つこと、という、外遊び中心の保育室を長く運営してきたからこその認識がうかがえる。

 「ノイバラ」の項を読んでいたら、昔読んだ物語がよみがえった。

 ノイバラは、在来のバラの野生種で、通常は一重咲きの白いバラ……と、花についての記述があり、最後に、実のことが書かれている。甘酸っぱくておいしいこと、小梅の飴を思わせること、そして「昔は利尿剤や便秘の薬として使われた」らしいこと。そこで、そうか、宮沢賢治のあの童話に出てくるバラは、ノイバラだったのか、と思ったのだ。

 九歳か十歳のころ、岩崎書店の『宮沢賢治童話全集』全十二巻に夢中になった。当時はスイスに住んでいて、手に入る日本語の本は少なかったが、現地の学校の教室を夕方に借りて開いていた「チューリッヒ日本語学校」は、図書室代わりに、段ボール箱二箱分の児童書を保管して、貸出をおこなっており、そのなかにこの全集があった。藤色の背景に、家の入口を描いた表紙。順繰りに借りて、読み切った。

 特に好きだった童話のひとつが、「よく利く薬とえらい薬」という短い話だった。清夫という男の子が、病気の母親のためにバラの実を摘んでいると、一粒の透きとおった実を見つけ、帰宅して母親に飲ませたところ、たちまち病気が治る。それを聞いたわがままな贋金作りが透明なバラの実を探しに行き、見つからないので、贋金をつくる装置を使い、バラの実を透きとおったものに加工して飲んだ途端、「アプッと云って死んでしま」う。できたものは猛毒の昇汞(塩化水銀)だった。

 バラの実を食べさせるというけれど、通常のバラの実では、大きすぎるし、固そうに見える。あれを生で食べたり、まして呑みこんだりできるだろうかと、変な気がした。ところが、草木屋の解説するノイバラの実は、生食でき、薬効がある。しかも、小梅の飴みたい、というたとえが、書き手としては口にふくんだ感触から何気なく書いたのだろうけれど、こちらは、透きとおった実になりそうな質感を伝えてくれる貴重な指摘、と受け取った。

 『新校本宮沢賢治全集』で「よく利く薬とえらい薬」を確認してみると、なんのことはない、一箇所、「ばら」ではなく「野ばら」と書いてあった。そもそも、清夫は「森の中のあき地」に実を摘みに行くのだから、自生するノイバラに決まっている。小学生のときは、八重咲きのいわゆるバラの花の形を想像しながら読んでいたのを、一重咲きの白いノイバラの花に訂正しながら読み返した。

 秩父に来て、野鳥や野草、空模様や畑仕事がずっと身近になった現在の目で、賢治の童話のいくつかを読み直してみると、昔は気づかなかった自然描写の鋭さ、動植物の存在のたしかさに打たれる。鳥はそれぞれの鳴き方や振る舞いに見合った口調で喋るし、クロモジのいい匂いがした、などと書かれているとき、それがどういう匂いで、なぜクロモジなのか、以前は気に留めなかったが、いまはその部分も、読む。科学への参照や、宗教への傾き、といった印象も強い賢治だが、著作のあちこちをめくるにつけ、ただ野に出て気持ちがいい、という場面の多さに気づく。

 草野心平は、四歳年上の宮沢賢治に早くから惚れこみ、死後は全集出版に奔走したが、彼が賢治の詩のあり方について詳しく語ろうとしたときに取り組んだのは、『春と修羅』第一集から第四集までに現れる雲の描写を、ひたすら書き出すことだった(「「春と修羅」に於ける雲」)。また、賢治の「農民芸術概論」の重要性を説いたこともある(「「農民芸術概論」の現代的意義」)。戸外での作業の合間に空を見あげる賢治の姿が、心平には見えていたのだと思う。

 ところで、宮沢賢治は、秩父にゆかりがある——と、話をつづけるつもりでいたのだが、筆がなかなか進まない。

 彼が秩父地方を訪れたのは一度きり。一九一六年九月上旬、盛岡高等農林学校に在学していた二十歳のとき、学校の地質調査旅行で、二十五人ほどの団体の一員として数日間滞在した。

 団体で実習に来ただけ、のようにも思われそうだが、そうとばかりも言えないのは、道中、折々に詠んだ短歌が残っているからで、つまり、若書きかつ、彼の名を知らしめることになるのとは違う表現形式とはいえ、秩父の山や川、小鹿野、長瀞、三峰に取材した作品が、たしかに存在するのだ。三十年ほど前に、賢治と秩父地方との「縁」が知られるようになって以来、いくつかの短歌は歌碑となり、長瀞の岩畳や、古秩父湾の地層が露出した小鹿野の「ようばけ」など、彼が立ち寄った場所に建てられている。

 けれども、こうした顕彰に、もうひとつ釈然としないのは、それが書き手としての彼自身とは異なる価値づけによっておこなわれていると見えてしまうためだ。「雨ニモマケズ」が、修身の教科書の一種のように扱われる現状において、その清く正しい作者であり、しかも地質学・古生物学と文学的権威とをじかに結びつけてくれる宮沢賢治という名は、「日本地質学発祥の地」を標榜する地域の観光政策にとって、あまりに都合がよい。

 のちの詩や童話が放つ鮮烈さとは遠い、定型的に見える短歌を彫った歌碑は、無論、善意と熱意の賜物ではあるし、まずもって彼がここに来たのだと知らせてくれる点で感謝の念を抱くけれども、賢治を読むというよりは、使わせてもらおうとする力のありかを感じさせて、落ち着かない気分になる。

 梅雨の明けた週末、上長瀞へ行った。埼玉県立自然の博物館で、各種岩石や、古生物の骨格標本、埼玉の森林ジオラマなどを見学したのち、歌碑の脇を通って、川岸へおりる。岩盤が段をなして翡翠色の荒川までつづき、今年はじめての夏の陽気だから、川遊びの家族連れがそこここの岩陰に見え隠れする。虎岩と呼ばれる縞模様をした結晶片岩があり、長瀞駅方面へ川沿いを歩いていけば、さまざまな種類の片岩が目に入る。対岸は絶壁。崖の上に生えた木々の、さらに上を見あげると、空が青い。

 翌日は、小鹿野のようばけを訪れた。隣接するおがの化石館には、地元で発掘された化石がたくさん展示されていて、自分も化石を探したくなるが、崖崩れが起きやすいため、ハケ(崖)の真下へ行くことは禁じられている。木立のなかを少し下ると、砂礫の川岸に出て、赤平川の浅瀬の向こうに、露出した地層がやや傾いた横縞を描く高さ百メートルの崖がそびえる。ようばけの「よう」は、陽が当たるのが由来というが、実際、やや暗く湿った川岸の上で、午後の崖は西日に照らされ、光るように明るい。どんどん見あげていくと、やはり、天辺に並んだ木の上に、青空が見えた。

 なんとなく、賢治は見あげただろうという感覚があって、見あげるのだが、さて、しかし、二十歳の彼がここに立っていたことと、その後の彼の文学が、相変わらず、わたしのなかでうまく結びつかない。それで、新校本ではなく、同じ筑摩書房の『宮沢賢治コレクション』をめくっていたところ、ここが結び目、と思える一連の文章に行きあたった。

 一九二二年ごろ、つまり秩父行きの六年後、彼は稗貫農学校(のちの花巻農学校)教員としての日々に材を取った散文をいくつか残している。そのうち「台川」と「イギリス海岸」は、まさに生徒たちを引率して川岸で過ごした体験を記すもので、どちらも場所は花巻近辺だけれども、いろいろな岩石が観察できたり、化石があったりするのは、岩畳やようばけと共通しており、語り手は生徒らに岩や地層の様子を説明し、生徒からの質問に答え、標本の採取を指導する。

 ことに「台川」は、引率中の教員の意識の流れを叙述するという、賢治には珍しい書き方がされていて、面白い。地質の説明をしながら、余計な情報を加えてしまったのを反省したり、目の前にいる生徒の名前が思い出せなかったり、壺穴(ポットホール)のちょうどよい見本を探し、完全なのが見つからないので、まあこれで仕方ないと妥協して説明したあとに、生徒がもっといいのを見つけて喜んだりと、教師が生徒たちの相手をしつつ、顔に出さずに頭に思い浮かべることが、逐一つづられていく。生徒の名前は実名で、かなり現実に即した文章のようだ。

 北上川や、荒川や、その他の実習先で、彼がかつて学ぶ側として参加していた集団の姿が、ここで教える側の視点から丹念に描かれているのを読んで、そうか、こんなふうにして長瀞や小鹿野にいたのかと、ようやく「秩父にいる賢治」の像の置きどころが見つかった感じがした。

 彼の描く野外実習中の教師は、個々の生徒たちの動きに気を配る。せっかちな者、心配性の者。そして、なかには、空を見あげる者もいる。

阿部君、だまってそらを見ながらあるいていて一体何を見ているの。そうそう、青ぞらのあんな高いとこ、巻雲さえ浮かびそうに見えるとこを、三羽の鷹かなにかの鳥が、それとも鶴かスワンでしょうか、三またの槍の穂のようにはねをのばして白く光ってとんで行きます。(「イーハトーボ農学校の春」)

 ぼんやりと空を見あげる生徒に気づき、彼が何を見ているかもすぐにわかるのは、教師のほうも多少、似た気質をもっているのだろう。結局、彼らはそろって空を眺めている。教師と生徒が入れ替わる構図のうちに、花巻と秩父の景色が重なった。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。