©️Kasama Naoko

 ひとが集まると、ひとが死ぬかもしれない、という日々がはじまって、いろいろなことが変わったけれど、そのうちの小さなひとつとして、休日の朝に、大きな破裂音をあまり聞かなくなった。

 どこかで祭があると、朝、合図を鳴らす。号砲とか、音花火とかいうものだが、引っ越してきたころは正体がわからず、猟銃の音が町まで響くのだろうか、などと思っていた。

 年に数回、といった話ではない。秩父地域は、集落ごとの小さな祭から、全国有数の規模を誇る秩父夜祭(秩父神社例大祭)まで、きわめて祭が多い。一九八六年の時点では「秩父観光協議会のリストにのっているものだけで二百四十、その他を加えると四百を越える」祭があったという(『秩父路50年』)。その後、消えてしまったものも少なくはないだろうが、それでも、異様に多いのは間違いない。

 号砲の頻度でいえば、これはわたしの印象にすぎないけれど、真冬以外は毎週のように聞こえていた気がする。街なかにある自宅にいて合図が聞こえるのは、広い秩父地域で催される祭のごく一部だろう。音自体は、特に心地いいものというわけではないけれど、それなりに親しんでいたようだと、いまになって思いあたる。

 町を挙げての大きな祭は、七月十九日・二十日の川瀬祭と、十二月二日・三日の秩父夜祭。昨年はどちらも、山車にあたる屋台・笠鉾の曳きまわしは中止された。夜祭は、秩父神社での神事のみをおこなったほか、花火をあげた。ふだんの夜祭では、六台の屋台と笠鉾が市役所前広場の旅所に向かって坂を駆けのぼると同時に、花火があがるのだが、その時間帯は、有料観客席の予約がなければ広場に立ち入ることができない。けれども昨年は、その広場に、市民が思い思いに集まって、花火を眺めた。

 今年の川瀬祭は、屋台・笠鉾については、各町会の判断で、出さないか、飾り置きにする、という話だった。でも、実際には曳いたところもあったらしい。中止がつづくと、おおっぴらに狂う日がいつまでもやってこないから、町の人びとにとって苦しいと思う。

 朝の号砲がなくなった代わり、昨年からはじまったものとして、予告なしの打ち上げ花火がある。元々、花火の生産地で、祭だけではなく個人の祝い事に打ち上げを依頼することもある土地柄だ。夜祭の花火が知られているため、わざわざ冬に花火をあげるのは、冬のほうが空気が澄んできれいに見えるからだ、などと説明されることがあるけれど、実のところ、七月の川瀬祭でも、三月の山田の春祭でも、長々と花火をあげる。

 昨年六月に、全国の花火業者有志が一斉に花火を打ち上げる企画を実施したが、秩父ではこれが定着した感があり、この一年ほど、大きな祭の日にあげる奉納花火のほか、特定の団体や企業が出資して、あまり告知をせずに花火を打ち上げることが、珍しくなくなった。本来の祭と、そうでないものとの区別がつかないのは問題だとは思うものの、家にいて、夜、不意に花火の音がしはじめると、二階へあがって、打ち上げ場所を確かめ、しばらく窓辺で見ている。

 人混みが苦手で、祭自体、好きなほうではなかった。秩父夜祭のことも、全然知らなくて、不動産の宣伝文句に、夜祭の拠点に最適、とあるのに驚き、入居前の工事で建築士や大工と話していても、毎度、いつのまにか祭の話になるのには、ますます驚いた。大工のMさんは、実は夜祭の屋台のひとつをつくった棟梁だったので、無理はないのだが、そうでなくても、職人、なかでも鳶職は、祭の花形だ。Mさんにはその後もお世話になり、屋台・笠鉾を曳きまわすスケジュールや、屋台内部の仕組みについて教えてもらった。

 引っ越してきて、はじめて夜祭を体験し、凄まじい、と思った。通りひとつではなく中心街の全体に無数の夜店が出るという規模の大きさもさることながら、屋台・笠鉾の曳行自体が見ものだ。すべて分厚い木材の木組みでできた、重さ十トン以上の、車輪つき芝居小屋といった建造物に、前面でかけ声をかけつづける囃し手が四人、舞台上に棟梁ら数人、屋根の上には鳶職が六人ばかり、と、これは外から見える人数。加えて、舞台の裏手か床下の空間に隠れた十五人から二十人ほどの囃子方が、腹に響く太鼓中心のお囃子を途切れなく、交替で演奏しているので、合わせると、三十人ほど乗っていることになる。

 周囲にめぐらせた多数のぼんぼりは蠟燭の明かりで、乗っている者が時々点検しては、消えたのをつけ直す。以前、植木屋のOさんが、よその祭で照明に電球を使っていることに憤慨して、それじゃ祭じゃねえんだよ、と言っていた。電力などは使わない、便利な動力をすべて排して人力だけでやるのが祭、という意識が、染みわたっているようだ。

 三十人乗せた木造建築を、町ごとに衣装を揃えた曳き手の大群が、車輪を軋らせて曳くのだが、特に注目が集まるのは方向転換するときで、山車の下に太い柱を差し入れて、梃子の原理で浮かせ、車の底に逆さのコマのような部品をかませると、それを軸に、半分浮きあがった状態で車を回転させる。大勢の人間を乗せたまま、車体がぐっと傾いで、木材の軋む音がギシギシと響き、太鼓はペースの速い演奏になる。向きを変えるだけで五分はかかる。このような条件で、進む、角を曲がる、決まった場所で止まって舞子が踊る、舞台を広げて歌舞伎を演じる、そして坂をあがり、くだる、といったことを、丸二日、つづける。

 巨大な、きわめて重いものを、人間の腕力で動かす。極限まで単純なことが目の前でおこなわれていて、単純であるがゆえに、生々しい。目いっぱいきらびやかに飾り立てながら、そのすべてを脱ぎ捨てるようにして、物そのもの、体そのものが、立ち現れる感じがする。

 祭は、実際、比喩ではなく、裸体と結びついている。

 川瀬祭の前夜に、お水取りという神事がある。山車を出す町会ごとに、若い衆が小さな行列をつくり、楽を奏しながら家々をまわって、一升瓶の酒を奉納してもらう。酒が集まると、荒川へ向かい、川原で見学者ふくめ全員に酒をふるまって、一升瓶を空にする。すると、あらかじめ選ばれた四人の若い衆が全裸になり、一升瓶を携え川へ入って、水を汲む。帰りの行列では、道々その水を撒いて、町を浄める。

 夜の川は、真っ黒で、流れは速い。しかも、入っていく青年たちは、酒を飲んでいるから、足許の覚束ない者もいる。見守られてはいるけれど、それでも、危険には違いない。無防備な肌をさらした若者が、澄んだ水を汲めるだけの深さのあるところまで、水流や水底の石に足を取られながら、闇のなかを、白い亡霊のように進んでいき、戻ってくる。

 褌を締めているか、いないかで、光景としてはまったく違う。闇のなかを動く体は、なにかの野生動物のようにも見える。見たことのないものを見た感覚があって、しばし、呆然とした。

 どの地方の祭でも、力を誇示するようなものなら、ある程度は肌を脱ぐ。神事に先だち、着物を脱いで禊をおこなうのも、珍しくはない。けれども、祭の場で完全な裸体が人目にさらされる機会があるのは、秩父らしい、と言えるのではないか。なんとなく、そんな気がしていたところへ、金子兜太の逸話を知った。

 兜太は秩父・皆野出身の俳人だが、父親の金子元春は開業医であるとともに、やはり俳人で、俳号は伊昔紅。秩父音頭を詞から曲、振付まで、今日の形に整えた人物でもある。一九四三年、兜太の出征前夜に俳句仲間が秩父に集い、強石の旅館で壮行会を開いた。このとき、元春と兜太の父子は、一同が静まりかえって見守るなか、一糸まとわぬ姿で秩父音頭を踊ったという。

 兜太周辺では有名な話で、本人も繰り返し言及しており、これについては岡崎万寿が「俳人兜太にとって秩父とは何か」に詳しくまとめている(『海原』21号、2020年9月、同誌ウェブサイトにも掲載)。宴に参加した兜太の師、加藤楸邨が、二十年あまりのちに、雑誌『俳句』に寄せたエッセー「金子兜太といふ男」で、この踊りのことを書き、「こんなにふくらみのあるそれでゐてかなしさの浸透した壮行は前にも後にもまつたく経験したことがない」と感銘を述べたことが、とりわけよく知られているようだ。

 金子兜太はこの逸話に関して、小沢昭一との対談で、秩父という山国が「そもそも裸暮らしが中心」なのだと語っている。父親は、いつも素裸で寝る習慣があり、自分もある時期まで真似していた、と(『悩むことはない』文春文庫版)。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 秩父を詠みこんだこの句にも、同じ認識が現れていると言えるだろう。兜太にとって、素肌を露わにすることは、なによりも山国の日常だった。

 とはいえ、俳人の集う出征前夜の宴席は、無論、日常ではない。禊に通じるかたちで、すべてを脱いで儀式に臨む文化と、全裸になることで山の人間としての自分たちの足場を確認する必要が相俟っての行い、とでも考えればよいだろうか。

 これも岡崎が示していることだが、兜太はこのとき、郷土のために死ぬ気でいた。今生の別れのしるしに親子が全裸で盆踊りとは、滑稽にも思えるが、まさに滑稽と紙一重だからこそ、楸邨の語るような、一種の崇高さが醸し出される。

 ただ、気になるのは、これが祭ではなく戦争である点だ。

 兜太が後年、この「裸踊り」の思い出に触れる際は、出征の昂揚感に酔わされていた証として、自嘲気味に語る。神の代わりに国家を戴き、聖性を付すべきでないところに付す愚。滑稽が、別の意味で回帰する。

 南洋で戦ってその愚が身に沁みた兜太と違い、師の楸邨には、そのような転回はなかったようだ。上に挙げたエッセーとは別に、兜太の壮行会のすぐあと、楸邨は会の様子を「秩父の夜」と題して自分の俳句誌に発表しているのだが、そこでは父子の踊りが裸であったことを伏せつつ、踊りを通じた二人の絆を美化し、しかも踊りには全員が加わり、なおかつ、唱和する歌はいつしか秩父音頭から古い軍歌に変わった、と書く。どこまでが事実で、どこからが時局に合わせた脚色なのかわからないが、二十年後に、二人が裸だったという情報を加えた上で、やはり感動を強調しているところからすると、楸邨の場合、若者を死に送り出す陶酔を戦中に描いたのは、おそらく本心であり、戦後も特に考えをあらためはしなかったものと見える。

 この逸話には、もうひとつ、気にかかる点がある。楸邨が報告している壮行会の出席者は、全員が男性の俳人である。そもそもこのような宴会は、男同士、のものであるだろう。楸邨の書き方は、そこのところに力点を置く。彼は金子兜太「といふ男」を書きたいのであって、男としての兜太像を考えたときに浮上するのが、男たちに囲まれて全裸で踊る父と子なのだ。壮行会は、明日から兜太が入る軍隊の世界を先取りする。

 祭に見られるマチズモは、同じものだろうか? 夜祭の曳行で屋台・笠鉾に乗る者は、ほとんどが男性であり、夜とはいえ公衆の面前で素裸になるお水取りは、男の仕事だ。屋台の曳き手は男女混合だが、本来は男だけが曳くものだったのに……などと「本音」を洩らす者も、いることはいる。

 けれども、秩父の祭の基層には、むしろ、農村の小さな集落ごとの文化がある。男女の別なく、力仕事に一生を送る人びとの文化。兜太が育ってきたのも、そのような意味での「山国」だろう。祭の場で、生身の体が立ちあがる感触は、元をたどれば、そういう場所から来ていると思う。

 又聞きしただけで、文字に定着してよいと思えるほどの確証がないから、ここには詳しく書かないけれど、かつて、ある集落では、正月に夫妻がともに全裸になる儀礼があったとも、わたしは聞いたことがある。女の体だけがむやみに性的なものとして対象化される以前の世界、性差以前に生身の体がただそこにあるような世界が、垣間見える。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。