©️Kasama Naoko

 思い立って、晩秋のある日、浦山ダムへ行った。秩父の市街から車で十五分ほど走れば、ダムの頂上部に着く。駐車場の近くに、管理棟と、資料館に食堂がついた見学施設があり、その先は、堤の上が広々とした敷石の遊歩道になっていて、歩行者専用の橋のように、対岸までまっすぐに伸びている。長さは三七二メートル。大きなダムだ。

 ずっと前、よそから遊びに来た友だちを連れていく場所はどこか、地元出身の友人に尋ねてみると、荒川河畔か、ダム、と返ってきた。別の秩父の友人も、学生のころはよく友だちとダムに遊びに行った、と言っていた。湛水がはじまった一九九七年は、わたしより一回り若い彼らにとって、中高生時代にあたる。地域の一大事業として、話題になっただろうし、学校単位での見学も企画されたに違いない。

 わたしが行った日も、遊歩道を散策するひとが、ちらほらいて、若い男女、子ども連れの一家、中高年の夫婦、自転車ツーリング中の男性などが、思い思いに、歩いたり、景色を眺めたりしていた。

 上流側は、青々とした広大なダム湖が、鬱蒼とした山襞に囲まれている。下流側は視界が開けて、遠くに秩父市街、さらにその背景には、城峰山から赤城山、日光連山まで見渡せる。

 高層ビルから景色を見るのと、似たところがある。ビルも、ダムも、床面の周囲は、ほぼ垂直に切り立ったコンクリートの崖になっていて、視界を遮る凹凸はない。エレベーターなり、車なりで、疲れることも、汚れることもなく、見晴らしのよい場所に到達できる。定番の外出先となるのは不思議ではない。

 その気持ちのよさには、また、一種の征服欲もふくまれているだろう。スイスを思い出す。自然観光が成立するのは、そこに自然があるからではなく、その自然を身の危険なく観賞するための人工的なプラットフォームが設置されているからで、観光を一大産業とするスイスは、そのような風景の有効活用を極限まで進める国だ。見渡すかぎりの氷河と険しい連峰を眺める者は、見ている対象に感嘆するとともに、よくぞここまで鉄道を敷き、散策路を整え、展望台を建設したものだ、という感慨を同時に覚えずにはいられない。

 不正確な記憶かもしれないけれど、二〇〇六年に東京アートミュージアムの「二つの山」展で展示された、畠山直哉撮影によるスイス・アルプスは、たしか、すべての写真に人間の姿、あるいは人間活動の痕跡が写りこんだものだったと思う。いかにも人跡未踏といった「崇高な」風景にもかかわらず、そこへ色とりどりのスポーツウェアを着こんだ登山者の列や、展望テラスに集う観光客の群れが入っていく。スイス的な風景とは、そうした人間の姿を組みこんでこそ完成する、という点を、正確に捉えた作品だった。

 スイスはまた、水力発電の国でもあって、山のなかの美麗な湖が、近づくと水力発電用の人工湖であることも珍しくない。ダムは、広範囲の土地を削り、川を大量のコンクリートで堰きとめることで、大きな湖を出現させて、水を蓄え、氾濫を防ぎ、電気をつくる。自然に人間が介入し、制御できなかったはずのものを制御し、利益を引き出す。その行為がもたらす、満足感。制御できないものが大きければ大きいほど、それを組み伏せるための巨大事業は、実現すべき「夢」として語られるだろう。

 スイスの場合は、他方で自然らしさを残すことが、必須の経済的価値となるから、征服の方法も巧妙になるが、そうした契機がない場合、「夢」は、単に環境破壊へと向かう。

 破壊されていく秩父の象徴、武甲山は、わたしにとって、無惨きわまりないけれど、信仰の山に発破をかけることには、集団的な欲望のレベルにおいて考えるなら、単に金になるからというだけではない、ある種の快楽があるものと想像できる。自分を凌駕するはずのものを、意に従わせる快楽。

 ただ、その快楽と比較にならないほど、失われるものは大きい。

 浦山ダムは、内部を一般開放しており、自由に見学できる。頂上の遊歩道から、小さな建物に入ると、ダム本体を降りていくエレベーターがある。途中階はなく、一三二メートルを一気に下って、ドアが開く。すると、そこはダムの内側、堤防の底辺に近いあたりで、全体に湿気が高く、ところどころ、壁に水の伝った錆色の跡がある。水圧が伝わるわけでもないのだろうが、気のせいか、少し息苦しい。

 そこから少し階段をのぼり、廊下を通って、下流の出口へ出るところまで、短い区間ながら、ダムのなかを歩くことができる。通路の壁には、見学者用の資料パネルが配されている。

 実は、エレベーターに乗る前に、頂上の資料館にも寄ったのだが、ダムの効用を繰り返し説明するパネルや、ダムの模型、ダム愛好者による写真展、といった内容で、ダム建設によって埋もれるもの、失われるものについての言及は一切なかった。

 けれども、ダム内部のパネル展示は違った。階段の壁には、ダムができる以前、一九七〇年代の浦山川周辺を撮った写真が並ぶ。最初は「湖底に沈んだ滝」、次は「湖底に沈んだ吊橋」。さらに、浦山の人びとの暮らしが偲ばれる写真。獅子舞行列、悪魔払い、製茶作業、民家の軒先。祭や仕事の写真には、「湖底に沈んだ」とは記されていないけれど、ダム建設によって村が消えれば、こうした日常も消えただろう。そう思うと、ダムの底に掲げられた写真のなかで、祓串と榊を両手にもって、車座になった村民たちに向かい悪魔を祓うひとの姿が、別の意味を帯びて見えてくる。彼らにとっての悪魔はなんだったのだろう、と考えてしまう。

 階段をのぼりきると、出口までの廊下には、浦山ダム完成までの歴史をたどる大型の写真パネルがつづく。一九六七年、予備調査開始、と題された、はじめの一枚を見ると、山に囲まれた谷、いまは湖底にあたる位置に、集落が見え、下部の年譜には、一九七九年、補償調査立入協定調印、とある。先へ進むと、川沿いの斜面がまだらに削られた写真の下は、一九八六年、損失補償基準提示、八七年、損失補償基準妥結調印。本体コンクリート打設が完了するのは一九九六年、水が入るのは翌年だから、調査開始から補償が決まるまで二十年、そこから完成までさらに十年かかったことになる。

 小林茂『秩父 山の生活文化』(言叢社、2009)は、浦山が、『新編武蔵風土記稿』や今和次郎『日本の民家』をはじめ、民俗学・民具研究の分野で長く注目されてきた、と説く。そして、小林は、昭和から平成へと移る過程で、浦山村の環境が変わった主な原因の一つとして「浦山ダムの出現」を挙げる。

水資源公団によって実施されたこのダム建設は、浦山川の出口、つまりは浦山地区の出口に巨大なダムを設けることで、水没によって離村するいくつもの集落の人々を生み出し、一方、ダムの建設中は工事労働者の居住などにより、一時のにぎわいをもちましたが、この地区の景観と生活を大きく変貌させてしまいました。(95)

 小林が資料として挙げる秩父市役所総務部ダム対策室編『思い出のアルバム』に、浦山ダム建設によって離村した集落として記録されているのは、道明、森河原、寄国土、大岩下、土性、下山摑。

 出口へ着いて、外へ出ると、ダムの大きな高い壁が間近に聳え、一帯は影に隠れてひどく暗く、空気が淀んで、アスファルトに苔が生えていた。外へ出たのに、息苦しさはあまり変わらなかった。

 二〇〇八年九月、わたしは高知県本山町にいた。四国のほぼ中央、嶺北と呼ばれる地域にある、山間の小さな町。大原富枝の生地で、大原は戦中にこの地を離れ、その後は東京に暮らしたけれど、遺産はすべて本山に託し、当地に大原富枝文学館を設立して、二〇〇〇年に八十七歳で世を去った。

 文学館を見学しおえて、ゆかりの地をめぐりたいと受付に話したところ、思いがけなく、大原本人と親しかった従弟のTさんを電話で呼び出してくれて、大原をめぐる貴重な話を聞きながら、車でまわってもらった。この経験については、かつて短い随筆に書いたが(『文學界』2011年4月号)、そのときに書かなかったことがある。ダムのことだ。

 墓所や生家跡、幼少時に遊んだ鎮守の森など、大原富枝にまつわる場所をひととおり見たあと、Tさんは、早明浦ダムへ案内しましょう、と言った。さめうら、と言えば、四国四県に水を供給する巨大ダムなのだが、わたしはそのことも知らず、正直なところ、あまり気が進まなかった。ただ、行くのが当然といったTさんの様子に、本山が誇る一大事業を旅行者に見せないわけにはいかないのだろうと思い、従った。

 吉野川を渡るとき、Tさんは、このあたりは最近、ラフティングをやる人たちのあいだで人気なんです、ダムのせいで水量が減って浅瀬になっているのが、かえっていいんだそうで、と、にこやかに話した。長く地元の企業(たしか製材会社だったと思う)に勤めた、穏やかな紳士だ。見ればたしかに、ゴツゴツした岩のあいだを、澄んだ水が、あちこち早瀬をなして流れていく。ふだん見ることのない清流に、きれいですね、とわたしは言った。Tさんは答えなかった。

 代わりに彼は、長いこと雨が降らず渇水が心配になってくると、他県から早明浦ダムの水位を見にくるので、この道が混むのだ、といった話をして、そうするうちに、ダムに着いた。はるか遠くまでつづくダム湖を前に、Tさんは喜んで解説してくれるかと思いきや、そうでもない。なんとなく、沈んだ目になって、湖を眺めている。わたしも一緒に、黙って眺めた。

 つくったときには、二百年もつと言われましてね、とTさんは言った。ところが、もう老朽化してきているというんです。まだ五十年も経たないのに。それしかつづかないもののために、こんなに山を削ってしまった。山は、元には戻らない。

 あそこに見えるのが、わたしの勤めた会社です。川辺にあるけれど、放水になっても浸水はしない、大丈夫だと言われた。ところが、いざ放水となったら、建物の五、六階まで水に浸かった。嘘っぱちだった。

 やはり穏やかな、柔らかい口ぶりで、しかし自嘲のようなものを覗かせながら、Tさんはそんなことを語った。

 ふたたび車に乗りこんで、山道を下る途中、眼下に別の川が見えた。Tさんの表情がぱっと明るくなった。あそこは、ダムの影響を受けていない川です。子どもたちが泳ぎに来ます。きれいですよ。見おろすと、真っ青な水を深々と湛えた淵が、木々に囲まれている。遠目に、一瞬見ただけでも、本山市街付近の吉野川とは、はっきりと違った。いま、書きながら地図をたしかめると、汗見川だったようだ。

 本山の町に入り、行きと同じ橋を使って吉野川を渡ったとき、Tさんは、前を見たまま、小さな声で、絞り出すように、こんなんは、ドブ川じゃ、と、つぶやいた。文学館へ戻ったあとは、大原富枝に関する話をさらにたくさん、楽しく聞いて、別れたのだが、Tさんのつぶやきは胸に残った。

 翌日、夕方に吉野川のほとりに行ってみた。水は透明なのだけれど、岩場はうっすらと土砂をかぶったような色合いで、かすかに泥くさい。おそらく、これがダムによる変化なのだろう。もちろん、だからといって、ドブ川には見えないのだが、そのような言葉を口にすることで、いかに現在の吉野川が、かつての、本来の吉野川と違うか、ということを、彼は示したかったに違いない。それほどの喪失感を、毎日この川に向き合うほかないTさんは味わっている。

 帰宅して、『大原富枝全集』をめくると、「ふるさとの川」と題した一九六六年発表の随筆に、彼女はこう書いていた。

 高知は県としては大きな方だが大部分は山脈で覆われている。私の生れたのも四国山脈の中の村で、私の自慢できるのはたった一つ風景だけであった。

 吉野川の上流で水の清らかなこと、山々の美しいことは、名だたる天下の名勝の地にも負けはしない。いまごろはちょうど麦秋の季節で村中が穀物の熟した香ばしいような芳醇さにみたされる。たそがれになると岩つつじの咲き乱れる岩の多い瀬に白鮠(しろはや)がピチッと音たてて銀色の体を水面高くひるがえす。[…]

 初夏になると河鹿の声とひぐらしの声が村をすっぽりと覆ってしまって、一種夢幻な世界になってしまう。ものういような静寂が一層それらの声によって深まるのである。

 そのころは鮎もたくさんいたものであるが、いまはダムができたのでどうなっているのだろう。ダムはずっと上流にできたが、今度はまた私の村に新しいダムができるという。[…]

 むかしの村の風情をいつまでもそのままに保っていて欲しいと願うのは、ふるさとをよそにしてしまっている都会人の勝手な希望と夢でしかない。それはよくわかっていながら、私は子供のときおっかなびっくりで渡った、ほそい板橋や吊り橋などが堂々たる鉄の橋になっているのを眺めることはやはり淋しいと思う。 (『大原富枝全集』小沢書店、第8巻、1996、255-256)

 大原富枝は生涯、本山に帰って暮らすことはなかった。従弟のTさんは、悲嘆を抱えながら本山に暮らしつづける。これが吉野川にかぎった話ではなく、全国津々浦々、無数の山村で、人びとがダム建設によって、生活の場を、あるいは故郷と呼ぶべき風景を永遠に失ったこと、そして、それが「高度経済成長」を構成する重要なピースのひとつであることを、本山を訪ねた当時のわたしは、まだ知らずにいた。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。