©️Kasama Naoko

 秩父へ越してくる前は、東京の北寄り、文京区と豊島区の境あたりに住んでいた。もともとその界隈に縁があったわけではなく、自分で決めて、部屋を借り、一度ごく近い距離に引っ越し、あわせて十年ほど暮らした。とても気に入っていたのだが、ひとつだけ、なにかが足りない、という気持ちがあって、考えてみると、それは、川を渡らないことだった。

 最寄りの巣鴨駅まで十数分歩くあいだ、川がない。橋らしきものは駅の手前、地面より低い位置を走る山手線をまたぐ陸橋だけで、ここを渡りながら、下を通るのが電車ではなく水ならいいのに、と思ったこともある。勤務先の植栽にしつらえられた偽の小川すらありがたく感じるほど、水の景色がほしかった。

 たぶん、十代から二十代前半までを荒川の河口近くですごしたのが、主な原因なのだろう。東京湾に突き出した広大な埋立地の団地群に住み、中学校は荒川と中川の合流点あたりの堤防に接していた。都心方面へ行くときは、かならず川を渡っていく。帰りは、地下鉄が地上に出て、橋に差しかかり、走行音が変わるとともに、なみなみを水を湛えた大河が目に入れば、帰ってきた、と感じる。大学生になると、ときには終電を逃して、真っ黒な水面を視界の隅にとらえつつ、深夜の葛西橋を延々と歩いて渡った。

 東京湾の浅瀬を、ゴミで埋め立ててつくった人工の町なのだから、ここには、なんの歴史も由緒もない。そう思っていた。永井荷風がどこかで、葛西だか、浦安だかの浜辺から沖合を眺めた、といったことを書いているのを読んで、この沖合にあたるのが、うちの辺りなのだけど、これをもって、荷風にわが町への言及があるとは言えないだろうな、と考えたりした。

 ある日、『風の旅人』をめくっていて、神谷俊美の「東京想」(あるいは「東京神話」)シリーズのなかに、一九八七年に撮影した、荒川と中川の合流点に浮かぶ建設途中の首都高湾岸線、という、まさに中学時代のわたしが日々眺めていた景色が収められているのを知ったときの衝撃は、忘れがたい。自分の長く暮らした土地が、語るに値するものとして示されるのを、はじめて見たのだった。

 神谷のこのシリーズにおいて、荒川河口と湾岸線の図像は、ほかの東京のさまざまな川辺の図像と結ばれることで、ひとつの都市の面影を浮上させる。思えば当たり前のことだが、川は時代を貫き、土地を貫いて流れるのだから、埋立地が固有の歴史を欠くとしても、代わりにそこを流れる川が、別の場所、別の時代を参照せよとうながす。記憶の血管が伸びていく。

 荒川の上流へ越そうと考えて秩父を選んだわけでは、もちろん、ない。けれども、いろいろな条件や機会が重なって、秩父に住むことになったとき、市内を流れる川の名にあまりに馴染みがあることに一種の感慨を覚えたのはたしかで、この川をずっとくだっていけば、あの川になるのか、と思った。

 秩父の町は河岸段丘からなり、荒川は中心街よりずっと低いところを流れているため、町なかからも、家からも、川は見えない。とはいえ、家の窓の外は、遠くに対岸の段丘が、一定の高さに雑木林の帯を伸ばしていて、その下に川があることがわかる。歩いて十分あまりで、川岸におりることができ、大小の石の上を透明な水が轟々と流れて、アオサギや、セグロセキレイのような、水辺の鳥がいる。

 四年前には、たまたま誘われて、秩父の友人たちと甲武信岳に登った。この山は、荒川、千曲川、笛吹川と、三つの川の水源を擁する。登山コースの途中にあたる千曲川の水源には立ち寄ったものの、甲武信小屋からさらに二十分ほどかかる荒川の水源は、登頂に疲れ小屋に着くなり休んだわたしは、行きそびれてしまった。それでも、荒川の源の、かなり近くまで行ったことにはなる。

 甲武信岳に発する荒川は、奥秩父の谷をくだり、秩父市のあたりで一度、小石の川原が広がる開けた流れになってから、長瀞で両岸を岩盤に挟まれて、深々とした翡翠色の水面へと変化する。その後、埼玉をぐるりと回って東京に入り、河口付近で中川と合流して、東京湾へ出る。

 寄居にある埼玉県立・川の博物館へ、週末に車で向かった。ここには、荒川の源流から河口までの水流と周辺地形を表現した、千分の一縮尺の巨大な野外模型がある。起点の甲武信岳から出発して、川の流れを目で追いながら、秩父へ、熊谷へ、そして葛西の河口まで、ゆっくりと歩いてみると、複数の土地の記憶が重なって、川をくだると同時に、時間を遡っているような感覚があった。

 秩父と、葛西に加え、わたしにとって、川がつなぐ土地がもうひとつある、と気づいたのは、ごく最近のことだ。

 四歳から五歳にかけて住んだ越谷の借家が、まだ取り壊されずに残っている。年明けに親と雑談していて、不意にそう聞かされたときは、心底驚いた。

 当時、わたしたちが住んでいた家は、父の勤める会社が一軒だけ借りあげた、一応社宅ということにはなるが、六畳と四畳半があるきりの狭い木造平屋だった。敷地内には同型の家屋が向かい合わせに六棟。いまから考えると、長屋のようなところがあり、六軒の関係は近かった。あるときは、怒った母親に家を閉め出されて泣いていると、向かいの小母さんからしばらくうちにいなさいと声をかけられ、すっかり機嫌を直してその家の家事を手伝う真似事などしているところへ、母が迎えにきた。

 もう誰も住んではおらず、解体間近と思しいというので、正月休みのうちに、出かけた。本当に、覚えていたとおり、左右に三軒ずつの空き家が並び、向かって左奥の、わたしの家だった一軒の前だけ、廃棄予定と見られる家具や荷物が雑然と積みあがっていた。左右の家のあいだは、なにもない砂利敷きの空間で、幼稚園児のわたしは、朝五時に目が醒めてしまうので、勝手に外へ出て、ここで自転車や、縄跳びの練習をした。

 砂利敷きだから、自転車はガタついて、よく転んで膝を擦りむいたが、それでも毎朝試して、乗れるようになった。ここで、と、ほぼ半世紀経ったその地面を眺めながら思い出すと、途端になぜかひどく寂しくなり、わたしは駅へ引き返すべく、裏道を通って、元荒川の河畔へ出た。

 そう、幼児のわたしの暮らしは、元荒川とともにあった。川向こうのヤマハ音楽教室へ橋を渡っていくのに、いつも橋が揺れて怖かった(その音楽教室も、ちゃんと残っている)。草の土手を、段ボールのそりで滑って遊ぶのが楽しかった。宮崎の祖母と別居して東京西郊に一人で住みつつ、ときどき孫の様子を見にくる祖父が、土手に腰かけて器用に草笛を吹くのを、どうすればそんな音が出るのか見当もつかず、熱心に見つめた。

 元荒川は、かつて荒川の本流だったが、十七世紀の河川工事により本流ではなくなったことから、元荒川と呼ばれ、下流で中川に流れこむ。その中川は、河口付近で荒川に合流する。そこには、十代のわたしが、所在なげに立っている。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。