©️Kasama Naoko

 冬のあいだ、枯れ草のなかに、あまり鋭くない鋸歯状のふちどりがついた円形の葉が、鮮やかな緑色を見せているのを、見覚えはあるけれども、なんだったか、と思いながら放っておくと、気温があがるにつれ花茎がのびて、梅の花の終わるころに、馴染みのある紫の花を咲かせ、そうだ、これだった、と気づく。

 背丈の低いうちに開花するのだが、その後、咲いたままどんどん背が高くなり、庭の一角を占拠する感じになってくる。二、三年かけて、多すぎるところをこまめに抜いていったので、いまは食堂の窓から見える範囲で、小さめの群生が二箇所ほどと、ちょうどよい量に落ち着いた。

 子どものころから知っているこの花が、秩父で住みはじめた家の庭に咲くとわかった五年前、あらためて名前を調べて、どう調べたのだったか、そのときは、ハナダイコン、という答えを得て、以来そう呼んでいた。ところが、つい先日、気になってもう一度調べてみると、ハナダイコンというのは本来、五月から六月に咲く別の植物の名で(Hesperis matronalis)、うちに咲くほうは、ムラサキハナナ、またはオオアラセイトウ、またはショカツサイ(諸葛菜)(Orychophragmus violaceus)なのだという。ただ、こちらも「しばしばハナダイコンの名でよばれ、混乱がみられる」(「日本大百科全書」)とあるので、そう呼ぶひとが一定数いることもたしかなようだ。

 実は、子どものころは、ずっと、ムラサキダイコンと呼んでいた。それで通じていた気がするが、手許の図鑑にこの別名の記載はない。ムラサキハナナとハナダイコンを勝手に混ぜてしまっていたのだろうか、と思いきや、インターネットで検索してみると、個人ブログのたぐいで使用例がそれなりに出てくる。誤りだとしても、ある程度は共有された誤りであるらしい。

 ムラサキダイコンは、子どものわたしにとって、千鳥ヶ淵のソメイヨシノと結びついていた。東西線沿線に住んでいたから、花見といえば、九段下のお濠で、当時も人出は多かったけれど、押し合いになるほどではなかったように思う。だれもが、サクラだけを見にいくかのように語るのだが、着いてみればいつでも、満開なのはサクラばかりではなく、淡いピンクの雲の下は、一面、薄紫の斜面だった。

 小学校の高学年から中学にかけては、毎年のように行っていたはずで、その時々のことは、あまり記憶にないけれど、ただ、北の丸公園は、同級生とずいぶん遊びまわった覚えがある。奥のほうの、壕の石垣沿いに、ひとのあまり来ない、好きな一隅があった。サクラの木にのぼったこともあったような気がする。

 高校生になると、東西線の東の端から、西の端に通うようになったので、真ん中にある九段下は、定期券で自由に乗り降りできた。そして、わたしは学校に行きたくなかった。ある朝、登校すべく地下鉄に乗って、北の丸公園に花が咲いているな、と思い、すると、足が動いて、九段下駅のホームにいた。制服の肩に鞄を引っかけた姿で、淡いピンクと薄紫の千鳥ヶ淵を眺め、公園をゆっくり歩いて、ハクモクレンの大木を見あげた。このころには、もう、サクラよりモクレンがいい、と思っていた。

 このあたりのことを思い返すとき、わたしはやはり、ハナダイコンでも、ムラサキハナナでも、オオアラセイトウでもなく、ムラサキダイコンと、当時いつもそう呼んでいた名で呼びたくなる。正確な名称を学び、使いたいと思う一方で、かつて使っていた名称は、たとえ誤用であっても、それを使っていた時間と切り離すことが難しい。とはいえ、誤解や混乱を広めてはいけないから、今後は、ムラサキハナナか、いっそ牧野富太郎の命名だというオオアラセイトウと、人前では呼ぶこととして、ムラサキダイコンは喉の奥に留めておこう、と思う。

 ただ、そんなふうに思うのは、現在の「正しい」名を、恒常的なものと見なしているためで、実際は、草木の名は揺らぎが大きい。誤った名も、広く通じるようになれば、もはや誤っていないことになる。現に、わたしがしばらくのあいだ、ハナダイコン、を採用していたのは、調べ方に問題があったとはいえ、そう呼んでおけばいいとうっかり判断するほどには、この名の使用が広がりを見せていたせいで、先に挙げた事典の記述が、この別称に抵抗するのは、まったく異なる別の種を指す名だから、というのが、主な、あるいは唯一の理由ではないかと思われ、もしそうでなければ、数ある別名のひとつとして、何事もなく受け容れられているのかもしれない。

 秩父から小川町に移転して畑の世話をしながら食堂を営んでいるOさんは、一貫して、ショカツサイ、と呼んでいる。ほかの名では呼ばないので、最初はなにを指しているのかわからず、聞き返すと、そのころのわたしがハナダイコンと呼んでいたもののことだった。ショカツサイ、の名を選んだ理由を聞いたことはないけれど、諸葛孔明が野菜として広めたという伝説が、気に入っているのではないかと思う。

 そのように、話している相手におおむね通じるかぎりは、巷に流れる呼び名のうち、好きなものを選べばいいのだ、と考えると、時々は、ムラサキダイコン、を口に出してみようか、という気にもなってきて、わたしにとっての、この草の名は、またも、ふらついてくる。

 黒田夏子「タミエの花」は、そういった植物の名のあり方を、正面から主題にした短篇小説だ。同人誌に発表されたのは一九六八年だが、早稲田文学新人賞受賞の翌年、二〇一三年に刊行された単行本『abさんご』に収められたので、書いてから四十年以上経って、広く世に出たことになる。

 タミエという少女は、ときに学校へ行く代わりに、近くの裏山へ吸いこまれるように入ってしまい、「上機嫌で花や草の一つ一つに構いながら、五時間六時間歩きまわる」。構う、というのは、さわったり、むしったり、顔をうずめて匂いを嗅いだり、食べたりすることで、彼女はこうして、名を聞き知ったものから、名は知らないが五感を基準に同定できるものまで、山に生えるおよそすべての植物を知っている。知っている、という自負がある。

 ある日、山を歩いていると、植物学者らしき初老の男に出会う。自分のほうが近しいはずの植物を、自分のあずかり知らぬ名で勝手に呼ぶ男に、気分を害して、タミエは思いつきの、しかしその植物の特徴を採り入れている点ではいかにも俗称としてありそうな名前をでっちあげる。ハハコグサを、カタクリマブシ、という具合に。学者は気づかず、感心して、メモを取る。

 正しい名前と偽の名前、知っていることと知っているふりとのあいだで、密かな駆け引きをつづけながら、タミエは植物学者の調査に付き合い、この山の真の主としての面目を自分なりに保つ。ところが、一度出会ったきりでまだ名前を知らない、とりわけ美しい花のことを、テンニンゴロモと呼んでみた彼女が、その形状や花期を男に説明して、それはシャガではないか、と言われたとき、おそらく男が正解を述べたのだろうと直感して、であればこそなおさら、逆上した彼女は、シャガなら知っているがそんなものではないと、シャガとの比較におけるテンニンゴロモのありもしない特徴を言い立てて、名前ではなく、今度は植物そのものをでっちあげ、そうしている自分に、打ちのめされる。

 植物とその名を軸に、感覚と知識について、名づけることの権力について、あるいは、言葉をもたない者から言葉をもつ者への復讐の可能性について綴った、忘れがたい佳品だと思う。ただ、終盤で、名のなかった特別な花を、シャガ、と名指したことで、シャガが実在の花であることを知る読み手にとって、またタミエ自身にとっても、彼女の敗北が示されてしまった。

 いまの黒田夏子なら、おそらく、名指さないだろう。「abさんご」でも、最新作『組曲 わすれこうじ』でも、通常なら一言で呼んですませるものの名を、そうしないのが、彼女の作品の目立った特徴だが、たとえば「知らなければ気づけないほどくすんだ五弁花を冬うちに咲かせて翌年のわすれたころになってたわわな食用果をともす木」と書いたりするのは、なにも衒って迂言法を用い、ビワ、と答えられる読み手かどうかをうかがっているわけではなくて、むしろ、名指さずに長々と描写することで、その木肌や葉や花や実を撫でまわしたり嗅いだりするのと似たことをしているのではないだろうか。一語で言い換えれば、そのような時間は消えてしまう。だから、語り手は、名を言わない。読み手も、知っている必要はない。

 名づけないことによって、少女の時間は保たれる。横組みでの出版を求めたり、漢字と平仮名の独特な組み合わせをあくまで崩さなかったりするのも、描かれる子どもの、自分の世界を守ろうとする頑固さにふさわしい。子どもの視線——いや、視覚というよりは、嗅覚や、触覚や、それらをもって完全に認識された事物のありさまが、そこには、たしかに書かれている。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。