©️Kasama Naoko

 バラに取り憑かれた編集者がいた。二〇一一年の地震と原発事故のあと、鬱々としていた時期に育てはじめた、と言っていた。そのころ、わたしは文京区に住んでいた。M氏の家は歩いて行ける距離だった。

 日当たりのいい自宅の屋上には、さまざまな品種の大きな植木鉢がひしめいていた。色とりどりの、高価そうな、大輪のバラ。そうだ、と彼が言った。このあいだ、誘引してたら、枝が折れちゃってさ。ああーっ、て、なったんだけど、挿し木にしてみたら、成功したの。あげるよ。ちょっと変わった色の花、薄いベージュみたいな、なんともいえない、渋い色。合うと思う。

 バタースコッチ、という、その品種の苗を、重いからといって、夫妻でわたしを送りがてら、家まで運んでくれた。わたし自身は、花の美しさを競う新種の開発を一大産業として展開し、その分、管理に手のかかるバラというものを、進んで育てるほうではない。でも、そんなふうにもらった苗だから、特別扱い、ということにして、ベランダに置いた。

 四季咲きつる性、と種類を調べ、バラ好きの親戚に助言をもらったりもして、いい加減ながら、冬の植え替えと剪定、施肥、誘引、芽が出たら虫取り、咲いたら花柄摘み、とひととおりはつづけた。毎年、つぼみは白っぽいなかに刷いたようなピンク色、開くと淡い黄とピンクとオレンジを帯びたクリーム色から、色味がさらに淡くなるとともにベージュ色へ近づく、という、バラと聞いて思い浮かぶ華やかさとは対極にある色の花を咲かせた。バタースコッチという名から考えれば、キャラメル色ということになるのだろうけれど、実際のところは、たしかになんともいえない、そして、たしかにわたし好みの色だった。

 普段はしないけれども、これも特別扱いの一環で、名前をつけてみた。といっても、子どものころから、凝った名前はつけない傾向があり、もっともよく遊んだぬいぐるみはパンダとゾウだったが、それぞれ、パンちゃんと、エレちゃん、と呼んでいた。バタースコッチは、バタコさん、ということにした。

 秩父に連れてきたときは、いずれ外構が整えば、地植えにしようと思っていた。やはり手のかけようが足りないのか、枝が細く、だんだん元気がなくなっているのが、気にはなっていた。外構の工事に着手できないうちに、一年間、大学の研究期間でスイスへ行くことになり、留守にした猛暑の夏、預けたバタコは枯れてしまった。

 M氏に、なかなか言えずにいるうちに、共通の友人のライブ会場でばったり会ったので、実は、と切り出した。彼がどう思ったかは、わからない。一瞬だけ、残念そうな目をしたように見え、そして少し間を置いてから、いや、いいよ、別のをあげる、と言った。それが最後で、三か月後、彼は五十二歳で急逝した。代わりのバラは宙に浮いた。

 彼の育てていたバラのどれかを、形見に一鉢もらえないか、と思ったりもしたけれど、白いバラや赤いバラが家の庭にある光景は、うまく像を結ばない。亡くなって一年が過ぎたころ、そうだ、同じ品種のバラを自分で買えばいいのだと、ようやく思いついた。運よく、苗が見つかって、植えつけたのが去年の初夏。いま、二代目バタコさんは、驚くほどたくさんのつぼみをつけている。今日、最初の一輪が開いた。

 しかし、バタコさんと名づけた、とはいっても、かつてぬいぐるみにしたように、そしていまでは知り合いのイヌやネコやヤギに対してするように、面と向かってそう呼びかけるのかというと、そうでもない。理由は、はっきりしている。

 花を咲かせた草を、人間に似せて絵に描くなら、まず、花を頭部に見立てるだろう。手足が必要なら、葉や枝に代役を務めてもらう。サン=テグジュペリによる『星の王子さま』の挿画では、王子の星のバラは、一本の主枝に一輪のバラが咲いていて、顔が描かれていなくても、人間の立ち姿のように見える。

 他方、地上に降りた王子が、たくさんのバラが咲く庭を見て、それがありふれた花であることを知って衝撃を受けるとき、バラは、わたしたち、と言う。つまり、花の一輪が一人の人間に擬せられていて、同じ幹から枝分かれして咲いたバラたちは、集団、ということになる。するとこの場合、株元の部分は、動物で言えばなににあたると考えればいいのだろうか。

 庭のバタースコッチには、いま、八十個ほどのつぼみがある。仮にすべて開いたとして、花を顔と見なすなら、バタコさんには八十の顔があることになる。そうすると、花が終われば、顔がなく手だけが無数にある生物になるのか。人体、ないし動物の身体のモデルに重ねようとすればするほど、植物は不気味な存在に見えてしまう。中心となるひとつの顔をもたないから、面と向かって名を呼ぼうにも、相対すべき対象がない。目の合わせようがないのだ。

 フロランス・ビュルガの『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社)は、このように人間や動物とまったく異なる存在としての植物のあり方を確認する上で、役に立つ。動物という存在を規定する個体の概念、そして生と死の概念は、植物においては成り立たない。完全に伐り倒しても、伐り株から新たな枝が伸びる。干からびて何年も経った種子が、水分をあたえられて芽を出す。同じ木を延々と増やしていく挿し木、二種類の木を接ぎ合わせる接ぎ木。個体としての中心も、限界もない。ひとつの生命が生きて死ぬ、という存在の仕方とは別のところに、植物はいる。

 したがって、植物を、人間や動物に擬して考えるべきではない。環境に対して反応はしても、主体的な意志も、感覚ももたない植物というものは、わたしたちからとても遠い。その遠さを直視しないかぎり、植物を正確に理解することはできないだろう。

 ここまでは、バラに固有名をつけてみたときにわたし自身の覚えたためらいに応えるもので、一定の説得力がある、と思う。ただ、ビュルガの物言いには、植物をことさらに動物と対立させ、動物に備わった性質を軒並み欠いた存在として切り捨てる傾向がある。

 ビュルガは哲学者だが、専門は植物ではなく、動物だ。近年、植物には意志も感覚もある、との主張が広がりを見せ、これが植物の権利を訴える根拠として用いられている。さらに、この主張が、菜食主義への批判ないし揶揄と結びつくことがある。動物がかわいそうというなら、植物はどうなんだ、というふうに。動物の権利の専門家であり、ヴィーガンであるビュルガは、こうした言説の全体を仮想敵と定めて、本書を執筆した。

 だから、植物は人間や動物とまったく異なる、というテーゼは、はじめから彼女にとって揺るぎのないものであり、かつ、はじめから動物の側に立った上でそのような対立を設定しているのだから、どれほど客観的な記述を心がけたとしても、植物および植物を好む人間を侮る視線は、行間から滲まずにいない。

 ニンジンがかわいそう、と言ってヴィーガンを攻撃する層の抱える問題を指摘する必要があるのは、わかる。しかし、だからといって、植物を動物の生命になぞらえて語ることを、ひとしなみにくだらない幻想として否定するのは、どうだろうか。

 初代バタコさんは、M氏が挿し木で増やした苗だ。元の株も、挿し木や接ぎ木を繰り返しているだろう。たしかに、その意味では、どこかに生きつづけている。けれども、わたしにとっては、特定の経緯のもとに、特定のひとから託された、ひとつの鉢だけがあり、その株は完全に枯れたことを確認し、土から出して廃棄したのだから、バタコさんは死んだ、と言っていいはずだ。そう認識して、悔やみ、M氏が亡くなってさらに悔やんで、ある日、新しい苗を二代目として迎えた、そのことは、存在の様態が動物とは大きく違うために、名前で呼びかけづらかったことと、矛盾しない。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。