©️Kasama Naoko

 土のあるところに引っ越そうと、行き先を探しはじめたとき、最初に眺めたのは電車の路線図だった。仕事で東京都心に通うから、電車での移動に時間と料金がかかりすぎず、車内で疲れすぎないことが大事で、それだけで選択肢はかなり絞られる。秩父は、西武鉄道の特急を使えば池袋まで八十分で着く。全席指定で楽に座っていられて、仕事も読書もでき、その分、特急料金がかかるけれど、毎回払ったとしても、通常「通勤圏」と見なされる地域に家をもつよりも、ずっと安くつく。そんなふうにいろんな要素を天秤にかけて、候補地を固めていった。

 一昨年来の感染症の蔓延で、電車に乗らない日がつづいた時期もあったが、最近は、大学の授業だけでなく、大学外で多くのひとが集まる行事や大会も「対面」に戻るものが増えて、先日、そのような催しのひとつに参加するため、日曜に特急に乗って都内へ向かった。終了後は、たまたま帰りが一緒になった同業者数人で、誰からともなく言い出して、ともに駅前繁華街の飲食店で打ち上げる、という、三年前までならわざわざこうして書き留めようとも思わなかったことを、ひさしぶりの体験として噛みしめたのち、西武秩父行きの最後の直通電車となる特急に乗るつもりで、走って改札に辿りついてみると、特急は運休で、普通列車も止まっていた。

 ホームに止まったままの普通列車に乗りこんで、運転再開を待つ。三十分ほどの待ち時間、発車後の時間調整のための停車をふくめ、三時間かかり、深夜に困憊して家に帰り着いた。そして翌朝、疲れを残した体で、大学へ通うべく西武秩父駅に着くと、またも同じように、特急は運休で、西武秩父駅から池袋駅まで、全線、各駅停車に乗るしかなく、やはり三時間かかった。二日連続で「人身事故」による運休・遅延に遭遇したのは、はじめてだった。

 人身事故、と聞くと、いつも、瀧波ユカリの漫画に登場する、江古田で居酒屋を営むイラン人、モッさんの台詞を思い出す。イランでのテロ発生のニュースに、よくあることだからと平然としているのを、こっちではそういう感覚はない、と主人公に言われた彼は「そお? 東京は東京ですごいじゃん/電車で「人身」があってもいちいち心痛めたりしないでしょ?」と言う(『臨死‼ 江古田ちゃん』第5巻、講談社、2010)。

 「人身事故」が、ほとんどの場合「飛びこみ自殺」を意味することは、誰でも知っている。知っているが、そうは言わない。そう言わないにもかかわらず、普段は常識的で温厚なひとが、目を輝かせるようにして、主に目撃者からの伝聞のかたちで「現場」の凄惨さを語る場面に、わたしは何度も遭遇したことがある。また、ホームや車内で「人身」のアナウンスにあからさまに苛立ち、迷惑だと吐き捨てるひとを見かけることも、珍しくない。誰かが自ら車輪に体を轢かせて命を絶った、という重みを、「人身事故」という言葉で覆い隠して、個別具体的な現実から乖離した「怖い話」「困った話」にすり替える。毎日、そうしている。

 自分が二日連続で影響を受けたから、その印象のせいもあるだろうけれど、他の路線もふくめ、このところ、多いような気がする。そして、全国の自殺者数が、新型コロナ感染症が拡大した二〇二〇年に増え、翌年もほぼ変わらないこと、また動機として「経済・生活問題」の割合が増えていることも考えれば、感染症蔓延に端を発した困窮と、飛びこみ自殺が増えている印象とを、結びつけないでいることは難しい。公式の行動制限がつづくあいだは気を張って耐えてきたのが、緊張がほどけかけたこの時期に、糸が切れたのではないか。

 仕事帰りに、たまたま一緒になって、夕食をともにする、という日常が、わたしには戻ってきたが、二度と戻ってこないひともいる。二度目の特急運休で、延々と電車に揺られてうとうとしながら、今日の日本で、都市における鉄道への飛びこみは、抗議や告発の意味をこめた焼身自殺のようなものではないかと、不意に思った。

 電車に殺されるのは、人間だけではない。

 夜、池袋から、帰りの特急に乗り、郊外の住宅地を過ぎ、入間基地を過ぎ、飯能に着く。スイッチバックで発車すると、電車はひと息に、奥武蔵の山のなかへ入っていく。いくつものトンネルをくぐりながら、暗い森を、二十分か三十分ほど走ったところで、急ブレーキがかかる。よくあることだ。

 ただいま動物と接触したため、急停車いたしました、これから車両点検をおこないます、と放送が流れ、乗客のあいだには、またか、という空気が漂う。あるときは、東京へ遊びに行ってきたのか、発泡酒を飲みながらのんびり話をしていた若い女性二人連れが、間延びした小声で、鹿だよお、鹿って言えよお、と言い合った。停車はおおむね十五分程度だろうか、それほど長くかからずに、運転は再開される。

 スイスに滞在していたとき、こうした野生動物の列車事故を防ぐため線路脇に電流柵を設け、ただし列車が通らないときは電流を切って、動物の生活圏が分断されないようにする、というような技術を紹介する新聞記事を読んだはずだが、と思い、フランス語で検索してみると、スイスでも、フランス、ベルギーでも、鉄道によって動物の命を奪わないためのさまざまな方策が採られている。

 日本でも、高周波音を流したり、動物がいやがる臭いを撒布するなど、鉄道各社が対策を講じているようだ。しかし、それにしては、よくぶつかる。実際、JR東日本管内での野生動物との衝突事故は年々増加していて、二〇二〇年度は千八百件、その八割ほどが鹿だという。一時期よりは個体数は減少しているのに、事故が増えつづける原因は、はっきりしないが、山林の荒廃で餌が不足し、人家近くの耕作放棄地に出入りするようになったのが一因らしい(「読売新聞オンライン」2022年2月15日)。これは、近年、熊が人家の周辺によく出てくることについて言われるのと同じ理由だ。大規模な植林をおこないながら、林業の衰退とともに山林を放置し、同時に農村の過疎化と離農を招いたのは、言うまでもなく、人間であり、この国の政治と社会であって、野生動物はあおりを食った末、電車にはねられていることになる。

 秩父の友人、Yさんと話していて、鹿の衝突事故が話題になったとき、彼は、いや、けっこう平気らしいよ、大きい鹿は頑丈で、ぶつかって倒れるんだけど、むくっと立ちあがって歩いていったって聞いたことがある、と言った。そのときは、思いがけずのどかな展開に、頬がゆるんだけれど、よく考えてみれば、そんなことばかりであるわけはない。死ぬつもりで線路に身を投げる人間と違って、轢かれるよりは跳ねとばされるのだろう、とは思うが、それでも、激突したり、巻きこまれたりして死ぬ個体も多いはずで、上記の新聞記事でも、「死骸の除去」についての記述がある。停車時間が短いのは、警察の現場検証や丁寧な清掃が入る人間の場合と違って、当座は死体をよけるだけで済むからだろう。にもかかわらず、ぶつかってもすぐに平気で立ちあがった、という、範例的とは思えない事例が、範例であるかのように伝播するのは、やはり、そうだと思いたいわたしたちの欲望が、そうさせているのではないだろうか。死の現実から目を逸らすための物語が、ここにもある。

 今日、人間の支配する世界は、動物の殺戮に満ちている。生田武志『いのちへの礼儀 国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房、2019)に論じられるとおり、食肉や油や毛皮や実験のために、わたしたちは大量の生命を奪う巨大なシステムを作りあげた。鉄道は、無論、殺すことが目的の産業ではないとはいえ、森を開発することで動物の生活環境を乱し、それが衝突事故につながっている、という意味では、やはり、動物の生命を脅かすシステムの側にあるものと考えることができるだろう。

 生田は、しかし、そのような制度化された動物殺害の諸相と、それに対する動物解放の言説を紹介するに留まらない。「前篇」でその作業をおこなったあと、「間奏」と題した断章で、オウムのルルと特別な関係を築く女中フェリシテを描いたフローベールの「純な心」に焦点を当てると、これを折り返し点として、「後篇」では、「国家・資本・家族」の制度に虐げられ、あるいは切り捨てられる人間と動物とが、連れだって現実を生き抜くさまを、多くの文学作品に託して分析していく。たとえば松浦理英子『犬身』と、木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』とは、まったくタイプの異なる作品だが、たしかに、どちらも、前者は家族と性をめぐる権力構造、後者はネオリベラリズムと管理社会の歯車に、獣とともにあることで、さらには、獣に成り代わることで、対峙する。

 それらは、現実を覆い隠すための物語ではなく、現実を読み解き、編み直す物語だ。大都市と山地とをつらぬく電車に乗るわたしは、車輪の下で死んだ人間たちと動物たちが、交じり合ってひとつの大群をなし、憤然とどこかへ進んでいく光景を夢想する。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。