©️Kasama Naoko

 ハヤトウリの季節がはじまった。越してきて初めて知った野菜で、名前のとおり国内では鹿児島から広まったそうだが、なぜか秩父では盛んに栽培され、主に漬物として食べられる。洋梨型で、大きさも洋梨くらい。白い品種と、緑の品種があり、味は冬瓜にやや近いが、甘みがずっと強く、肉質がしっかりしている。十月から十一月にかけての短い期間しか出回らない。

 原産は中米で、現在もメキシコやブラジルで親しまれる食材らしく、フランス語関係の友人知人に聞いてみると、マルティニークやグアドループなどカリブ海の島々に縁のある面々から、懐かしい、という声があがる。ニューカレドニア在住の知人も、よく食べると言う。これらの地域では、シチューや、グラタンにする。炒めものにもよく、生でサラダにもできる。

 高崎を舞台とする絲山秋子の『薄情』にも、ハヤトウリが出てくる。やはり漬物にするのが普通らしい(そして、漬物以外の食べ方を地元民に聞かれたよそ者は、本稿同様、サラダとグラタンを挙げる)。秩父と高崎は、地理的にも、文化的にも近いから、不思議はない。おそらく、全国のほうぼうに生産地域があって、しかし大都市向けの大量生産はされないまま、地元で消費されているのだろう。

 農協の直売所で苗が売られていたので、春に買って庭に植えたところ、夏のあいだ、ぐんぐん蔓を伸ばした。日が短くならないうちは、花をつけない。つい先日、ようやく咲き出したので、うちで収穫できるのはまだしばらく先になる。まずは、店頭で見かけた初物を買い、スープにした。

 さて、剥いた皮と、芯の部分は、密閉容器に入れる。この容器には、玉ねぎやりんごの皮、茶殻、卵の殻、少しなら魚の骨や肉の屑も入る。いっぱいになると、勝手口から外へ持ち出し、シャベルで土に穴を掘り、容器の中身を放りこんで、薄く土をかぶせる。大きめの穴を掘っておけば、数回分は同じ穴に入れられる。夏場なら、二週間もすれば、埋めたものはあとかたもなく消えてしまう。

 住みはじめて最初の数年は、生ゴミ堆肥専用の箱を庭に置かなければ、と思っていた。けれども、市販のものは意外と値が張り、かといって自作は手間がかかる。後回しにしていたところ、友人の母親が庭に野菜屑を埋めていて、とてもいい土になる、という話を耳にした。詳しく聞いてみると、特定の容れ物に入れるわけでもなく、捨てる前に刻むわけでもない、ただそのまま土に埋めているだけ、とのことなので、それならと、真似してみた。

 畑作に力を入れていて、質の一定した堆肥を作りたいなら、専用の箱を使うなどして周囲との境界をはっきりさせた上で管理したほうがよいのだろうけれど、生ゴミの処分が主眼なら、穴を掘って埋めるだけでも用は足りる。外構を整えたときに庭に敷いた赤っぽい粘土質の土は、穴を掘っては生ゴミを埋めていった一画だけ、黒く柔らかな、空気と養分をふくんだ土になってきた。

 野菜屑を戸外へ出すことで、台所も変わった。水分の多い腐るゴミが家のなかにないのは、想像を超えて快い。肉の包装に使われたラップフィルムのような、洗うことも土に埋めることもできないゴミだけは密閉して捨てるけれど、その量はごく少ないので、ゴミ箱はなかなかあふれず、腐敗臭も発さない。朝早くゴミを出す頻度は大幅に減った。

 野菜の皮や芯が土になるのを、日々見ていると、生ゴミ、と呼ぶのも、どこか変な気がしてくる。生きた土のなかに入れて、生きものの餌にしているのであって、捨ててはいない。それに、生きものが食べて土になれば、その土から、いずれまた別のなにかが育つのだ。

 有機物が分解されて土になり、その土の養分が植物に吸収される仕組みを知るには、微生物の働きに焦点を当てたデイビッド・モンゴメリ、アン・ビクレー『土と内臓』がわかりやすい。

 土に置かれた有機物は、まずミミズや昆虫が食べ、次にダニやトビムシが食べて排泄することで、細かく砕かれ、土壌の栄養分となる。さらに今度は、これを菌類や細菌が取りこみ、植物にとって吸収可能な物質に変換する。植物のほうは根から浸出液を分泌して、自分に必要な物質をあたえてくれる微生物を引き寄せる。

 土に住み植物の健康を保つ微生物は無数にいて、役割も多種多様、まだ解明されていないことも多いようだが、ともかく、植物と微生物とがこうした共生関係にあることは、近年の研究からたしかめられているという。このことは、十九世紀以来、農学を支配してきた化学中心のアプローチを疑問に付す。

 今日もなお、園芸の世界に足を踏み入れる者は、まず、窒素・リン酸・カリウムという三つの成分が、植物の生長に欠かせないことを学ぶ。これはドイツの化学者、ユストゥス・フォン・リービッヒが特定したものだ。これらの成分をあたえさえすれば作物の収量は伸びるとの考えから、十九世紀半ば以降、それぞれを工場生産する方法が開発され、二十世紀には、このようにして作られた化学肥料を用いる近代農法が定着した。

 しかし、この農法は、劇的な効果があるものの、土地を痩せさせ、植物を弱らせるため、病害虫を避けて収量を維持するには、大量の化学肥料と農薬を投入しつづけねばならない。これは植物が健康に育つ本来の環境に反するのではないかと、二十世紀初頭に、イギリス人農学者、サー・アルバート・ハワードは疑問を抱いた。彼は研究の結果、化学肥料ではなく、生きた微生物をふくむ有機堆肥を用いることで、植物と土壌が長期間にわたり健康に保たれることを証明した。有機農法の礎を築いた農学者として、ハワードの名は記憶されることになる。

 ヨーロッパ側から見た農学の成りゆきを、このようにまとめると、土壌肥沃度を向上させるものとしての堆肥への着目と、それにより農学研究の重心が化学から生物学へ移ったことは、新発見のように記述されるのだが、実のところ、ハワードが参照したのは、インドや中国で地元の農家が実践してきた伝統的農法だった。言うまでもなく、日本にもまた、堆肥を用いた農業の長い歴史がある。

 ハワードが伝統的農法の研究に基づいて有機農法の効用を主張した二十世紀前半の間も、その後も、化学肥料の使用は増えつづけた。そこには、化学肥料が弾薬の原料になりうるという事情があったことも、モンゴメリとビクレーは指摘している。第二次世界大戦中のイギリスは、弾薬製造への転換を見据えて化学肥料を増産することを目的に、化学肥料の使用を農家に強いた。そして戦争が終わると、各国の弾薬工場は肥料工場に転じた。軍需産業への切り替えがいつでも可能であるからこそ、化学肥料の推進は国策となったわけだ。

 いまの日本では、化学肥料・農薬・大型機械を用いて大量生産をおこなう近代農法のことを、慣行農法、と呼ぶ。この「慣行」に対立するのが、有機農法、ということになるのだが、おかしな呼称だと思う。近代農法が日本に広まったのは戦後だから、たかだか半世紀強の「慣行」にすぎない。他方、有機堆肥を利用する「慣行」は、それよりも遙か前からつづいてきた。

 当然だ。本来、養分を循環させないことには、つづけることはできないはずなのだから。農業を営むひとは、昔から、意識しようとしまいと、そのようなものとして、世界を受けとめていただろう。

 緑鮮やかな山を描いた水彩画が、壁に並んでいた。勢いのある筆で、瑞々しく色を塗られた山は、ほのかに発光しているように見える。秩父の山襞を眺めるときの印象に、驚くほど近い。

 惜しまれながら二〇一九年に閉店した東京・馬喰町のギャラリー・カフェ、馬喰町ART+EATは、飯野和好の絵本原画展を定期的に開催していた。わたしが行ったのは、二〇一六年、『おせんとおこま』刊行記念の催しだった。茶店の娘おせんと、山渡りの娘おこま、二人の女児が出会い、山で遊ぶ物語。おこまは、竹のかんざしをおせんにあたえ、小鳥のように歌うことを教えて、去る。山渡りのひととは、つまり、サンカだろう。

 飯野和好は、秩父地域、長瀞の生まれだ。戦後間もない時代、山間の三軒しかない集落に育った。酪農と田畑と炭焼きからなる、完全な自給自足の暮らし。仕事はきつかったはずだけれど、「毎日、開墾した段々畑や田んぼで働く両親や祖父母は、囲炉裏端でよく話をし、歌を唄い、ほんとうに朗らかで楽しそうでした」(『みずくみに』あとがき)と飯野は回想し、山を駆けまわった子ども時代の愉楽が画面にあふれるような絵本を作る。

 たとえば『みずくみに』は、小さな女の子、ちよちゃんが、祖父に作ってもらった竹の水筒を握りしめ、畑仕事に勤しむ両親と祖父に「さわのみず くんでくるね」と告げると、子犬のくろと一緒に山道をどんどん登って、沢に着き、水を汲み、自分も飲んでから、山をおり、水筒の水を両親と祖父に飲んでもらう、それだけを描いた絵本だ。それだけなのだが、手をついてあがるほどの急な坂の横にサワガニのいる渓流が音を立て、葉叢の生い茂る影でカブトムシやアリが樹液に群がる、といった具合に、光景に確固たる具体性があり、ちよちゃんが「すうーっ すうーっ うーん やまのにおい いいにおい」と言うとおり、山の芳香が全篇から立ちのぼる。

 本作の主人公は、ちよちゃんだけではない。冒頭はメジロの群れの絵が占め、中盤にも、メジロの集団を大きく描いた見開きが連続する。ちよちゃんは、途中で「あっ メジロだ」と気づくが、それ以上のことはない。メジロにはメジロの生活がある、という描き方だ。チョウも、カエルも、ただそこにいて、里山の一部をなす。沢のおいしい水をごくごく飲む人間も、同じように、山の一部分を構成する。

 飯野は、山の風物を擬人化したかたちで表現する作品も多く制作している。代表作である「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズは、ねぎぼうずが主人公の股旅もので、お伴はニンニク、悪役はヤツガシラやキュウリ、娘役は椎の実。どれも、記号的な野菜ではなく、秩父あたりで採れる作物や木の実だ。あさたろうの必殺技は、ピリピリと辛い「ねぎじる」を飛ばすことで、ここにも、においや味、手触りを前面に出す飯野の手つきが表れる。

 ART+EATで、店主のTさんに教えられながら、飯野の絵本をいろいろと手に取ったとき、わたしが一番驚いたのは、彼が、腐葉土と、泥団子をも、絵本の主人公にしていることだった。

『ふようどのふよこちゃん』は、腐葉土の大家族に生まれた女の子。ほかほかとよく発酵して、いい香りがする。いつもの日だまりでまどろむ彼女は、母親から聞いた、この集落にまつわる話を思い出す。

 いまは空き家である三軒の家は、かつてたくさんのひとが住み、田んぼも畑も家畜もそろって、「ぴかぴか するような くらしが」あった。腐葉土の家族は彼らを手伝い、畑に撒いてもらうことで働いた。ところが、「あるとき しろいくさい みずを はたけや たんぼに まきはじめたの」。絵には、水田に農薬を撒布するひとと、畑の土に化学肥料を撒くひとの姿。つまり「近代農法=慣行農法」がはじまったのだ。ホタルはいなくなり、若者は村を出て、「わたしたちを たいせつに あつめてくれる ひとも いなくなって しまったの」。

 腐葉土が、農業の変化と、環境破壊と、農村の過疎化を、一人称複数で語る。おそらく、世界を見渡しても、稀な試みだと思うのだが、この着想を迷いなく形にできるのは、やはり、著者自身の実感に基づいているからだろう。「慣行農法」に席巻される以前の山の暮らしを全身に記憶する創作者は、彼が最後の世代かもしれない。

『ふようどのふよこちゃん』が、土の視点から、農業をめぐる構造的な問題を説く作品だとすれば、『どろだんごとたごとのつきまつり』は、ひととともに生きる土の美しさに目を向けるよう、読者に促す。

 今年も無事に稲刈りが済んだことに感謝して、ますきちじいさんは田んぼの泥で「むんず むんず つるん」と、大きなどろだんごをこしらえ、路傍に置いて帰る。何日か雨が降ったあと、満月がのぼった夜に、どろだんごは目を覚まし、手足を生やして、踊り出す。コオロギやタニシ、ドジョウ、カエル、ミミズといった田んぼの仲間たちも加わる。今夜は「田毎の月」を祝う日なのだ。

 田んぼに住む威張り屋の泥男「どろたぼう」が祭りを独り占めしようとすると、お月さまは諫めて言う。「あのますきちじいさんや むらのひとたち そして このなかまたちが たんぼをいきいきとして くれるから あなたは きもちよく ここに すんでいられるのでは ありませんか」。すなわち、米を作る人間と、田んぼの生きものと、土壌は、平等な協力関係を結んでいると、月は言うのだ。

 降参したどろたぼうに安心し、あらためて月は空にのぼる。すると、雨水を湛えた水田の区画のひとつひとつに、月光が差して、田んぼは光りはじめる。青い闇に、月を浴びた田んぼが、白々と照り映えてどこまでも広がる、夢の景色。生きた土は美しい、そう伝えようとする気迫が、ユーモアの底にみなぎっている。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房) 他。