机に向かう仕事がひと段落ついて、歩きたい、と思う。もう午後なので、遠くには行けない。日が落ちるまでに戻ってこられるところ、あるいはもっと短く、三十分だけ、一時間だけ、歩けるところ。空気が通って、草木の匂いがして、起伏のある道がいい。
そういうときに行く先の候補が、いくつかある。一番近いのは、市内の丘陵を切り拓いて大規模な公園にしたミューズパークのなかの、昆虫の森、と名づけられた散策路だ。ミューズパークには、野外舞台や、テニスコートなど、さまざまな施設があるが、昆虫の森は、かつてゴルフ場として整備した敷地に手を加え、昆虫観察ができる散歩コースとして開放している。
舗装をしない、土を踏み固めた小径は、ゆっくり一周して一時間程度。元ゴルフ場らしく、なだらかな丘が連なり、明るく開けた野原もあれば、植えこみも、落葉樹の谷も池もある。出口付近には、両神山を正面に望む丸太のベンチが据えられている。
虫にとって住みやすいことを基準にしているため、草刈りはきちんとおこないつつも、必要以上の手入れはしていない。ところどころ、伐った木材を地面に積んで朽ちるにまかせているのは、虫の住みかということだろう。除草剤や殺虫剤も、当然、使用を控えているはずだ。
木の多くは、元々この丘陵に生えていたものと思われる雑木で、初夏にはエゴノキの白い花が眩しく、秋には山栗が足許に散る。木陰にサンショウの苗がたくさん芽吹いていたり、アケビの実が木の枝に巻きついていたりもする。丘の上り下りにつれ、刻々と変わっていく景色を眺めながら歩くうちに、呼吸が深まり、元の位置に戻るころには、体の空気が入れ替わっている。
もっと山深い、水気のある風景に触れたいときは、車を十五分ほど走らせて、橋立に駐め、札所二十八番・橋立堂の脇から、武甲山へ向かう道を歩いていく。登山道のとば口ではあるけれど、しばらくは橋立川と平行した、ほぼ平坦な道だ。左は高い崖、右は眼下に岩間を流れる透明な沢と、対岸の山林。三十分ほど歩いたあたりで、二段構えの小さな滝の見える橋を渡り、そこから上り坂になる。さらに少し行くと、もうひとつ、滝がある。この辺で、引き返す。
この道を知ったのは、通い慣れたSくんやIさんの先導による、はじめての武甲山登頂の帰路だった。武甲山に登る場合、通常は山頂から見て橋立の反対側にある「一の鳥居」から登っていく。杉林のなかを登る道は、傾斜が急で、体はきついが、その分、まっすぐ山頂に着く。
山頂に着くと、片側に柵がめぐらされている。石灰岩採掘によって山の姿を留めていない面が遮断され、立ち入れないようになっているのだ。高い木々に守られた幽遠な山のありさまを体感しながら登ってくるだけに、頂上で確認せざるをえない武甲山の惨状には、あらためて言葉を失う。
帰りも、一の鳥居へ戻るコースが一般的なのだが、わたしたちは橋立へ向かった。ゆるい下りで、時間はかかるけれど、菖蒲の咲く日だまりがあり、橋立川のせせらぎもあり、谷を眺めてイワナを見つけたり、川辺で休憩したりと、暗い杉林の急坂に息を切らした往路とは対照的に、のんびりと歩いた。
登山に身を入れる時間も体力もないけれど、山のなかに立ちたい、と感じていたとき、ふと、あの帰路を思い出した。なにも、山頂まで登る必要はない。三十分でも、一時間でも、空き時間次第で、行けるところまで行って、戻ってくればいいのだ。
それからは、折に触れて行くようになった。自宅での仕事の切れ目に、車を出す。十五分で登山口に着き、十五分歩いて、引き返せば、家を出てから一時間で帰ってこられる。もちろん、もう少し余裕があれば、その分、遠くまで歩く。
同じコースを繰り返し歩くと、季節ごとの風景の移り変わりがよくわかる。特に春から夏にかけては、日の当たる川沿いの崖に咲く花の入れ替わりがめまぐるしい。フジとマタタビ、スイカズラとマルバウツギ、キイチゴの類、タマアジサイ。年ごとの植物の育ち方や花つきの違いもあり、日ごとの天気の違いもあるから、目にするものは、行くたびに新しい。
上り坂になって、森へ入っていくと、一歩ごとに川は谷底へ遠のく。三月初旬に、留学時代からの友人であるLくんと訪れた際は、まだ木々の芽吹きには早かったけれど、眼下に小さな滝が見えてくるところまで登って、流れを見おろすと、褐色の木々と落ち葉と枯れ草のなか、沢に濡れた苔の瑞々しさが際立っていた。
しばらくたたずんで、水音や風に鳴る葉叢の音を聞いたり、息を深く吸って木や土や花の匂いをたしかめてみたりする。カメラがあれば、写真を撮る。そして、今日はここまでと、踵を返す。
登頂しなくていい、ただ歩ける分だけ歩けばいい、と気づいたのには、脈絡がある。
二〇一八年の春から一年間、ローザンヌに暮らした。当地生まれの作家、C・F・ラミュについて研究するのが目的だが、この地域の地勢と深く結びついた彼の文学作品を考えるには、資料を読むだけでなく、実際に山を知ることが欠かせないから、滞在中にできるだけ訪ねてみようと決めていた。
スイスは、山行以前に、自然のなかを歩くことが日常、という土地柄だ。ローザンヌの中心から三キロほど北の団地に借りた住まいは、すぐ裏が森になっていて、ソヴァブラン自然公園につながり、そのまま中心街のほうへ歩いて下ることができる。家から五キロほど北にある、ル・シャレ=ア=ゴベの丘陵へ向かって歩いてみたときも、麦畑の脇から牧草地へ、森へと、土の小径が途切れなくつづいていた。
地元の人びとも、習慣として、そういう道を散歩する。徒歩での移動のための標識があちこちにあり、それでも道に迷った場合は、すれ違う歩行者に尋ねれば、あちらのほうへ三十分も歩けば着きますよ、といった具合に、事もなげに教えてくれる。日本の山村を旅行中、似たような距離の目的地に行こうと地元のひとに道を訊いては、車じゃないと無理だよ、歩いたことがないから徒歩でどのくらいかかるかもわからない、と戸惑われる経験を重ねてきた身には、新鮮だった。
暖かい季節になってからは、列車に乗って、山へ出かけた。青年期のラミュが通ったペイダンオー地方のプレアルプからはじめることとして、シャトー=デーから崖の上のシュカ山荘まで登り、急傾斜の野原を下りていくコース、そして、モス峠からエメラルドブルーのリオゾン湖へまわるコースを歩いた。長篇小説『デルボランス』の舞台である同名の歴史的な山崩れの跡地には、登山鉄道とロープウェイを乗り継いで、ソラレから、ときに放牧中の牛に囲まれつつ向かった。ミュンヘンから来てくれた大学時代の友人、Cくんたちとは、ツェルマットから、マッターホルン周辺のトレイルへ。ヴァルザー研究の泰斗Pさんと、司書のUさん夫妻には、アルプスよりも穏やかな風情のジュラ山地へ連れていってもらった。
歩きまわっているうちに、ここでは、少なくとも初級・中級程度のハイキングに関しては、ひとつの山を頂まで登って下りる、という考え方を、あまりしないのだな、と意識するようになった。
日本の登山ガイドブックを見ていると、ハイキング・コースの多くは山の名を冠したコース名で、その山の天辺まで登って下るのが、基本のスタイルとなっている。長丁場に耐えられるなら、そこから縦走に入る。なんとなく、そういうものだと思いこんでいた。
けれども、スイスでは、そうではない。スイスモビル協会が連邦観光局や各自治体と連携して整備している山歩きのモデルコースは、バスや登山鉄道やロープウェイなどを使って、ある程度の標高まで移動した地点から歩き出し、いくつかの峠を伝っていくものが多い。なかには、起点・終点ともかなり標高が高く、高山地帯ながら、散策路は高低差が少ないコースもある。だから、幼児も、乳児を背負った親も、杖をついた年配者も、それぞれの身体能力に応じた道を選んで、山の景色のなかを歩いていた。
そもそも、スイスの場合は山地の規模が巨大で、単独峰が少なく、登山家が相手にするような突出した高峰でないかぎり、峠がずっと連なっているから、縦走が基本になるのは自然なことかもしれない。しかし、地理的条件の違いだけではないような気もする。
武甲山の通常の登山口である一の鳥居は、山頂にある御嶽神社の鳥居だ。杉林のなかの登山道は、文字どおり、表参道と呼ばれる。もちろん、武甲山にかぎらず、山の上には神社がある。もしくは、麓に建てられた神社の奥の院がある。山頂はまた、仏教と結びついた「ご来光」を拝む場でもある。こう考えると、山歩きといえば麓から頂までの「登山」になりがちなのは、参拝の文化が背景にあるのではないかと思えてくる。
それはそれで、無論、いいのだけれど、気になるのは、登頂を目標として、そこにいたる苦難に意味を見出したり、達成感やカタルシスを求めたりすることが、山歩き自体の条件であるかのように語られる傾向があるのではないか、ということだ。きつい登攀の末に、見事な眺望の開けた山頂に到達する、その快さに得難いものがあるのは間違いないし、困難な登頂に命を賭ける登山家たちには憧れる。けれども、それが誰にとっても至上の目的、ということになると、体力において劣る者を排除する構えにつながってしまう。日本の山を歩いていて、スイスで見かけたような幅広い属性の登山者を見ることはない。
だが、山は、当然ながら、頂上を目指して登ることのできる者だけのためにあるのではない。気に入った場所で立ち止まって、ずっと耳を澄ませていてもいいのだし、種類ごとに違う木肌を撫でて、そのまま帰ってもかまわないはずだ。
そんなことを考えていたので、帰国してしばらく経ったころ、あの橋立川沿いの道へ行ってみよう、と思ったのだった。
ナン・シェパードは、山で立ち止まる。たたずんで、極限まで、山を自らのうちに迎え入れる。『いきている山』(芦部美和子・佐藤泰人訳、みすず書房)で彼女がつづるのは、そのような山との関わり方だ。
一八九三年、スコットランドに生まれたシェパードは、生地に近いケアンゴーム山群に通いつづけた。険しい岩山を標高約千二百メートルまで登りきると、山頂のレベルに深い亀裂を刻んだ花崗岩の高原(プラトー)が広がり、透明な湖が点在している——という書き方で合っているかどうか、少し心許ないけれど、正確に記述するのが難しい特異な地形こそ、彼女が取り憑かれたこの山塊の魅力なのだと思う。その変化に富んだ隅々を歩いた経験が記されるのだが、その経験の仕方は、一定の距離を置いて景色を眺める、というよりも、色や空気や手触りを通じて、山がわたしを変容させるにまかせる、といったものだ。
たとえば、山が雪に覆われ、流れる水が凍る寒さの冬の夜、彼女はこんなふうに、目を凝らす。
私たちはその日の午後、モローン山に登り、日が沈むと同時に満月が昇るのを見た。真っ黒なモミの木立を除けば、そこは真っ白い世界だった。[…]厳しい冷え込みに雲ひとつない空。白い世界。沈む太陽と昇る月。モローンの斜面からじっと見つめていると、それらはプリズムを通して放射された、青、若紫、藤色、そしてバラ色の光に溶けていく。満月は緑色の光の中へと浮かび上がった。バラ色と菫色が雪原と空とに広がる。色が自身の生を生き、肉体と復元力(レジリエンス)を持っているかのように。私たちが色を見ているのではなく、まるで色がその実体の内部(原文傍点二字)に私たちを取り込んでいるかのようだった。(49ページ)
山に親しむ者らしく、彼女はときに相当な早足で歩くけれど、それは特定の目標に早く着こうとする登山者の歩みとはほど遠い。五感を山に晒して「犬みたいに」歩きまわる様子は、彷徨とも、さらには夢遊病に近い状態とも見える。そして、このような山との交歓の、もっとも澄んだかたちとして、彼女は山で眠る。
山で眠ったことのない人は、山を完全には知らない。人は眠りに滑り込むと、精神が凪いでいく。肉体は溶け、知覚のみが残る。思考もしなければ欲望もせず、記憶もしない。ただ、触知できる世界との純粋な触れ合いの中にある。(125ページ)
『いきている山』は、主に一九四四年から翌年にかけて執筆されたが、出版を断られ、シェパードは原稿をしまいこんだ。一九七七年、彼女が八十四歳のときに、ようやく刊行されたものの、流通は限定的で、シェパードは四年後に亡くなっている。細々と読み継がれていた本書は、今世紀に入ってから、ノンフィクション作家、ロバート・マクファーレンによる紹介を通じて、はじめて広く知られるようになった。今日では、ネイチャーライティングの世界的な古典と見なされている。
「もちろん、記録破りたちが山を愛していないと考えるのはまったくもって愚かなことだ。山を愛していない人が山に登るわけもないし、山を愛している人がもう十分に登ったと満足することも決してない」(17ページ)——シェパード自身がこう述べるとおり、誰よりも先に、より高いところへ、より難しいルートで到達することを望む冒険家たちを、彼女は否定するわけではない。山への愛情と登山の技術を共有する彼らに心からの敬意を表しつつ、しかし彼女は、別のものを見ている。
よそ見をしては、面白いものを見つけて駆け寄り、立ち止まって見つめ、触れ、嗅いでみることで、彼女はわたしたちに、別の価値基準を手渡そうとする。八十年前に準備されたその言葉を、受けとるときが来ているのだと思う。
笠間直穂子(Naoko Kasama)
フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。