©️Kasama Naoko

 筑豊で抗夫として働いた女性たちの声を、聞き書きのかたちで伝える森崎和江の『まっくら』(1961)を読んでいて、とりわけ印象深かったのは、「棄郷」と題した章だった。地下に潜り石炭を採掘して運ぶ、死と隣り合わせの重労働は、底辺の仕事、と見なされるもので、実際、厳しい生活を語る言葉が本書にもたくさん収められているのだが、にもかかわらず──と、つなぐこともできるし、であるがゆえに、と言うこともできる──その日その日を生きていく体の艶と力と矜持が、九州弁の語りからあふれて、なかでも「棄郷」の語り手は、章題どおり、里を去って炭坑を居場所と定めた意志の揺るぎなさが際立つ。

 別府出身の彼女は、湯布院の料理屋へ嫁入りしたが、義母にこき使われた上に、夫がはじめた床屋の収入では払いきれない月額の「講をかけさせられて」(収入の多寡にかかわらず、決まった額を月々、親に納めさせられた、ということだろう)、金が底をつき、泣く泣く夫婦で炭坑に出た。怖ろしいところと聞いていたから「地獄におちるような気持ち」だったけれど、入ってみると、違った。

[…]夫婦で中間(なかま)町のちかくの上津役(こうじゃく)という小さな炭鉱にいきましたと。さあ三十人もいたでしょうか、みんないい人ばっかりでねえ。わたしはもうびっくりしてねえ。朝鮮さんも多くて、いっしょに唄うとうて、石炭のせる函に乗ったりしていましたよ。(岩波文庫、105ページ)

 働き者の夫妻は、働いた分の稼ぎがあること、自分たちの家をもてた上に貯金もできること、快く助け合う仲間がいることを喜ぶ。その暮らしよさを、彼女は何度も、もといた「地方」と比べて語る。

炭坑の人のほうが地方の人よりいいですよ。地方の人間はきたないです。人間がうらめしくなりますよ。あそこはどうじゃ、あれは何じゃいうてですねえ。炭坑じゃ米借してくれ、金借してくれといっても利子とるじゃなし貸したり借りたりする。地方じゃそういうことはできやせん。うらめしい所じゃけん。[…]
 炭坑もんは気っぷがさらっとあっていい。わたしは好きですね。そんな人が多くて暮らしがいやらしくなくていいです。(同、108-109ページ)

 もちろん、ひとや炭坑や時代によって状況は異なるし、死亡事故、搾取、暴力の悲惨は本書にも述べられており、炭坑はいいところ、などと短絡するつもりは毛頭ない。けれども、この女性の語りからは、土地や財産や権力関係を抱えこんだ「家」からなる社会の束縛が骨身にしみた彼女にとって、守るものもない分、裏表のない平等な関係を築ける炭坑の生活文化が、どれほど解放を意味したかが、ひしひしと伝わってくる。

  さまざまな出自の人間が裸一貫で集まるような共同体に入って、彼女は「地方」のなにが辛かったのかを、対比を通じて理解し、そこで理解したことを、いまいる場所に腰を据えるよすがともしたのだろう。しがらみに満ちた出身地こそが、彼女にとっての「地獄」だった。

  わたしが秩父へ住まいを移したことに関して、何人かと交わした会話を思い出す。

  なぜ山あいの町に引っ越したのかを、東京に暮らす知り合いから尋ねられるとき、なかにはわたしの答えをろくに聞かず「田舎」を蔑む相手がいることは以前書いた(本連載第二十四回)。しかし、それとはまた別に、わたしの説明を聞いて、たまに、相手がなんとも微妙な表情を見せることがある。

  その場合、曖昧な顔つきになった相手は、大抵、少し間を置いてから、まあ、でも、田舎は閉鎖的だから、それはそれできついときありますよ、とか、都会出身だとかえって田舎のよさがわかるんですかね、とかいったことを、歯切れ悪く言う。それでこちらは、あ、このひとは、地方から東京に出てきて、戻りたくないのだ、とわかる。東京住まいで帰省中の秩父出身者と話す際も、ときに、こういう展開になる。

  相手の台詞を聞きながら、「田舎」という言葉のふたつの意味を、混ぜて使っているのだな、とわたしは思う。故郷、という意味と、大都市圏以外、という意味。地方から都市へ移った者の言う「田舎はいやだ」には、親類や隣近所のしがらみがある、ということと、新しいものや情報や都会らしい風景がない、ということの、両方がふくまれている。おそらく多くのひとは、ふたつの意味合いを混在させていることに気づかぬまま、口にしているに違いない。

  けれども、たとえば、東京都心に代々の土地をもつ家の者は、山の手であれ、下町であれ、東京だからといって「自由」なのではなく、やはり、その家なりの束縛があるはずだ。東京が故郷なら、それゆえに離れたい、あるいは離れざるをえない人間が当然、いる。

  そしてまた、地方出身者が故郷のしがらみから逃れたいと思うとき、その行き先は、かならずしも大都市圏である必要はない。無論、物理的に大都市にしかないものを求めるなら、そこへ行くしかないが、主な目的が「家」の桎梏を逃れることであるなら、たとえば、農村地帯から別の農村地帯へ、でもいいはずだ。ただ、居ついた先の土地に根ざすしがらみに新たに絡めとられないためには、「棄郷」の語り手にとっての炭坑のように、ほうぼうからひとが寄り集まる、元々だれの故郷でもない場所へ流れたほうが、「自由」を得られる可能性は高いのだろう。

  ここまで考えて、そうだ、「新しき村」に行ってみよう、と思った。

  毛呂山に用事があるとき、秩父からは電車よりも車で行くほうがずっと早いので、いつも国道二九九号の峠道を越えてゆく。山の向こうの飯能まで出て、カワセミ街道に入ったあたりで、「新しき村美術館」の古い木製の案内板を通りすぎる。それで、この地域に武者小路実篤の設立した「新しき村」が現存することをはじめて知り、そのうち訪れようと思っていた。

 ある日、毛呂駅近くの喫茶店で休憩中に、ふと窓の外を見ると、真向かいにあるシャッターの閉まった店舗の看板が目に入った。半世紀ほど前のものとおぼしき、だれかの手書き文字から起こしたらしい切り文字看板に「皆さんの驛前本屋」とある。これが店名なのだろうか。不思議に思いつつよく見ると、右端に小さく「實篤」と署名があった。

 帰宅後に検索した店のウェブサイトによれば、開業時に武者小路実篤に命名と真筆を頂戴した、という。まったくの想像だが、何々屋、何々堂、といった屋号を予想していた創業者は、老作家から鷹揚に示された案に、内心、戸惑ったのではないだろうか。そう考えると、おかしくなってくる。

 けれども、あらためてこの店名を眺めてみれば、何々屋、と名づければ所有の主張となるところを、そうならない名前にしよう、という意図が明確だ。皆さまではなく皆さん、書店ではなく本屋、という言葉遣いは、店員と顧客とが互いにへりくだったり侮ったりしない、率直で平等な関係にふさわしい。名前らしい名前のない、ということはつまり、ほとんどだれのものでもない、ひとの集う駅や広場のような、共有財としての本屋を、実篤は思い浮かべたのではないか。まさに、彼が宮崎で拓き、この毛呂山の地へ拠点を移した「新しき村」の発想だ。

 三月末の暖かい日に、村へ出かけた。峠を越えて、カワセミ街道から県道三十号に出たあと、毛呂駅前に行くときは左折するところを、今日は直進し、少し先で右に曲がって、細い道に入る。八高線の踏切を越え、少し残してある雑木林を抜けると、白抜きで文字を記した細い木の柱が目に留まった。「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」。さらに行くと、きちんと手入れされた草地と茶畑が広がる開けた空間を、小さな平屋の家が点々と取り囲む、のどかな風景が現れる。入口に、先ほどと同じような木の柱が、今度は道の両脇にある。右と左をつづけて読めば、「この門に入るものは自己と他人の/生命を尊重しなければならない」。辺りに、ひとの姿はない。

 奥へ進むと、作業服の男性が歩いてきたので、呼びとめて、駐車できる場所を教えてもらった。一般に公開しているのは、一番奥の「新しき村美術館」だから、まずはそこを訪れることにして、入ったけれど、受付にだれもいない。ごめんください、と呼ぶと、奥の扉から、白い顎髭を長く生やした仙人のような風貌の男性が出てきた。びっくりしていると、意外と軽妙に、ああ、すみません、どうぞどうぞ、いやあ、あまりひとが来ないんで、と、展示室の電灯をつけてくれる。

 実篤の書画と、村の歴史にまつわる資料を並べた展示室をひとわたり見てから、関連図書を収めた隣の資料室も見学し、会誌『新しき村』の最新号と、武者小路実篤『新しき村について』、渡辺貫二編『年表形式による新しき村の八十年 自1918年〜至1998年』、そして玄関で売られている村の生産品のうち、有機栽培の玄米を買う。すると、いらっしゃったお礼にと、新しき村出版部で発行した関係者の文集をもらった。

 「自他共生」の共同体を目指して、実篤らは一九一八年、宮崎県児湯郡大河内に移り住んだ。二五年に実篤は家庭の事情などで村を離れるものの、その後も物心両面での支援を継続し、留まった仲間たちは苦労の末、田畑を整えた。ところが、土地はダムの建設地となり、一部が湖底に沈むことになったため、日向の村は残しつつ、補償金で埼玉県入間郡毛呂山町に新たに土地を買い求めて、新たな本拠地とした。一九三九年のことだ。

 「義務労働」を六時間程度おこなえば、あとは自分の好きに時間を使う生活が、実篤の掲げた理想だったが、現実にはそれでは立ちゆかず、長いあいだ、収入の柱は実篤の原稿料と、村外からの寄付だった。しかし、毛呂山の「新しき村」は戦後、飛躍を遂げる。養鶏業が成功して、経済的自活に達し、一時は年収が三億円あまり、村の人口は六十人を超えるまでになった。

 けれども一九八〇年代中盤あたりから、卵の価格が下落し、村民は減っていく。人手が足りなくなって収入が減少する一方で、新規の入村はなく、高齢化が進む。とうとう昨年、五人が去って、村民は三人となった。その一人が、美術館で迎えてくれた髭の男性、Yさんなのだった。

 存続が危ぶまれる状況ではあるのだが、現在、村は一般財団法人から公益財団法人へと資格を変えるための手続きを進めている。認可が下りて、寄付が増えれば、見学客の受け入れに向けた設備改修などをおこなう予定だという。資料を買う際、事務室で、Yさんと、ちょうど来ていた法人監事の方とも少し話したが、認可まであと一歩のようで、二人の話しぶりは明るかった(村の現状と、新理事長の下での改革構想については、朝日新聞2023年2月13日付夕刊の記事に詳しい。この記事は『新しい村』3月号に転載されている)。

 彼らの口調だけではない。春の陽気もあずかってはいたかもしれないが、全体として、わたしはこの場所に明るさを感じた。美術館の玄関でYさんと話していると、郵便局の配達員がやってきて、いかにも馴染みらしくYさんとやりとりし、わたしにも挨拶して出ていく。近所の女性が中を覗いて、タケノコはいつから売りますかと訊く。勝手に想像していたような村の内外の壁は感じられず、穏やかで、屈託がない。村のなかを散歩していいですか、と尋ねると、どうぞ、どこでも見ていってください、とのことなので、美術館を出て、ゆっくりと一周した。

 空き家が多いのだろう、しんとしている。けれども、家々は植栽に囲まれて、塀を設けず、間隔を空けて建っており、建築自体も概ね戦後すぐから昭和末期あたりにかけてのもので、それ以前の時代の痕跡はないから、過疎地域の「本物の」古い村とは景色が明らかに違う。とはいえ、八十年かけて育てただけの落ち着きがある。

 村から少し下ると、広々とした田んぼがあった。手前の用水路には澄んだ水が流れ、遠くに耕耘機を押すひとがいる。米作り担当の村民だろうか。田んぼの向こうの雑木は、うっすらと若葉が出はじめて、ところどころにサクラが咲いている。やはり、ここは明るい。

 自分も他人も生かすのだから、出入りは自由、他人に強制しない、自分を犠牲にしない。そういうことを、実篤は繰り返し述べた。既存の宗教・思想には依拠せず、また、労働以外の時間を確保するため、文明の利器は積極的に使い、外部からの支援を歓迎する。こうした考えは、柔軟とも、無定見とも言えるし、この「素朴さ」は、太平洋戦争開戦時の彼の無邪気な戦争讃美とも、無縁ではないだろう。

 けれども「新しき村」の来し方を眺めるにつけ、この柔軟/無定見を通したからこそ村は存続したのだとも、思わざるをえないところがある。高度経済成長期に村の経済的自立の基盤となった養鶏とは、バタリーケージによる鶏卵生産だった。雌鶏を狭いケージに詰めこんで収益を最大化するこの飼育法の導入には、当時から「村の精神に反する」との反対意見が多かったのを、自活のためにと、長年、村の中心人物だった渡辺貫二が押し切ったという(前田速夫『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』新潮新書、137ページ)。まさに、自分の時間をもつために「文明の利器」を使ったわけで、いまも村の歴史においては英断と見なされるようだが、バタリー廃止が世界の趨勢となりつつある今日の視点から見れば、経済優先の世を憂い「正しき生活」を願う村の精神とは、たしかに矛盾するように思えてしまう。

 養鶏のあとは、村の敷地に太陽光発電パネルを設置して売電で稼ぎ、しばらくすると売電価格の下落でふたたび苦境に陥った。そしていまは、公益財団法人認可と観光地化といった方向に希望を託そうとしている。変わらないようでいて、実は村は要所で、経済的に自滅しないための手を打っているのだ。

 それらの方策のいくつかは、「村の精神」から見れば、微妙なものをふくむ。しかし、武者小路実篤自身が、思想的矛盾を突き詰めない、ぽかんとした明るさをもって行動する存在だったことを思えば、彼に惹きつけられた人々の、このような行き方は、ある意味では「村の精神」に適っているのかもしれない。

 微妙であればこそ、紆余曲折を経ながら村は延々とありつづけ、多種多様な出自をもつ人びとを迎え入れた。拍子抜けするほど平明で率直な言葉に共鳴した者が、自分の里を離れて、共同生活に入る。文学者や芸術家も、職人や百姓も、家出少年も。

 だれの故郷でもないから、自由と平等を夢みることができる。曖昧な場所だからこそ、縛られずに居つづけることができる。あるひとにとって炭坑がそうだったように、「新しき村」は、少なくとも一部のひとにとっては、「地方」からの避難所でありえただろう。

 詩人のAさん、Nさんと歓談の折に、「新しき村」を訪れた話をしたところ、Aさんが、阪田寛夫の『武者小路房子の場合』(1991)が面白かった、と教えてくれた。実は、村の関連資料を読んでいて、一番引っかかったのが、武者小路房子のことだったから、すぐに手に取った。取材の過程を交えて房子の生涯を再構成していく、ドキュメンタリー的な伝記小説だ。

 房子は、実篤の最初の妻で、一緒に日向の村に移住した。ところが、房子も、実篤も、村内の別の相手と恋仲になった。二人は離婚し、それぞれ新たに所帯をもって、しばらくは両者とも村に住みつづけたが、その後、実篤は二人目の妻・安子と、彼女とのあいだにできた二人の子どもを連れて、村を出た。

 ダムにより土地の一部が水没し、毛呂山に新たな村ができてからも、房子は夫の杉山正雄とともに日向の村に残る。安子と実篤は一九七六年に世を去り、杉山は八三年に亡くなったが、房子は八九年、昭和が終わる年に九十七歳で息をひきとるまで、日向の村に生きていた。

 ここまでの概要を知った時点で、わたしは、実直に日向の田畑を耕しつづけた杉山夫妻を思い描いていた。しかし、阪田の描く房子は、まったく違った。

 房子の父は、福井の名家に婿入りして県会議長から国会議員にまでなった竹尾茂で、彼女は妾の子だった。母方の伯母の家に籍を入れられて、伯母宅と母宅とを行き来して育ち、ときに父の実家に連れていかれる、という生活で、思春期までに三度、名字を変えている。父の本妻と、妾である母、さらに父のほかの妾たちのあいだの確執を目の当たりにしながら「天と地の真中にぶら下つて生きてゐる」ような気持ちで暮らす彼女は、嘘とはったりで立ち回ることを覚え、家出を繰り返したりしたのち、東京に出て、次々と恋人を変えながら文壇界隈に出入りするうちに、実篤と出会う。すでに有名作家である実篤は、相手のあからさまな虚言と押しの強さに不安を覚えつつも、この強烈な個性に惹かれて、結婚した。

 「新しき村」をはじめるとき、我孫子の立派な家を売って、日向の村へ夫妻で移住することに、房子は抵抗しなかった。だが、着いた先では一切働かず、村民たちが貧窮に喘ぎながら開拓に勤しむなか、派手な生活をつづけて、反感を買った。

 村の仲間には、実篤を慕ってきた若い男性が多い。実篤が疑ってかかるのが、かえって房子に火をつけた面もあったのではないかと阪田は推測しているけれど、ともかく、彼女は村内の劇団で相手役を務めた三人と浮気をする。他方、実篤は新たに入村した安子を気に入り、自分の世話係にして、じきに関係をもった。

 房子の二人目の相手は逃げたが、三人目の杉山は、実篤に向かって、房子は自分が引き受けた、不幸にはさせない、と確約したという。杉山は、父を知らず、再婚した母にも置いていかれて、萩で祖母に育てられたというひとで、大連にいる叔父の家のもとで中学を出て、山口高校に入ったところで、家出同然に村に来た。阪田によれば、房子の前の愛人と違い「逃げて帰る郷里が地図の上にも心の中にも無い杉山は[…]たぶんよんどころなく、「村」で武者小路房子の夫としての生活を始めた」。

 二人は一時期、鎌倉に暮らしたあと、結局、日向の村に戻ってくるのだが、その前に、竹尾の姓に戻っていた房子は実篤に要求して、強引とも言える方法で、武者小路の姓を取り戻している。杉山をいったん実篤の養子にさせた上で、武者小路正雄となった杉山と結婚することで、彼女はふたたび、武者小路房子となったのだ。

 房子も、杉山も、居場所のない環境で、十代までの日々を過ごした。また房子は、家が変わるごとに名字も変わった。由緒ある武者小路の姓を戴き、武者小路実篤の拓いた村に生涯、居つくことで、彼女は一種の復讐を果たして、心の安寧を得たのかもしれない。杉山はといえば、田づくりの相棒である牛と心が通じるほどに、働くことがただ楽しくて仕方ない、という境地に達した。実篤の言う労働と自分の時間とを、一体化させてしまったらしい。

 いわば、実篤の構想を凌駕するかたちで、武者小路房子・正雄は、新天地としての「新しき村」を、使いつくした、と言ってみることができるのではないか。よんどころない事情が、自らの望む選択と区別できなくなったとき、いま居る場所は、居るべくして居る場所になる。阪田が相対した「御本尊」たる最晩年の房子は、もはや日向の村の土地そのものの霊が、大蛇に化けてとぐろを巻いている趣だ。圧巻の「移住」ではないか、と感じ入りつつ、なにか胸を締めつけられるような気もする。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。