[対談]マルセル・モースと贈与のモラル

この対談は、山田広昭さんの著書『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』の刊行を機に、執筆の狙い、そのアナキズム観などについて、マルセル・モース研究の第一人者である文化人類学の森山工さんを相手に、本では書かれていないことも含め、議論されたものです。2020年12月18日に書店B&B主催により行われたウェブセミナーでの話をもとに編集しています。

新たなアナキズム像を求めて

森山 山田広昭さんが2020年9月に『可能なるアナキズム』という本を出版されました。この本の副題がまさに「マルセル・モースと贈与のモラル」で、この副題を本日の対談のタイトルとしました。本日の主役は山田さんとその著書『可能なるアナキズム』ですので、私の方から簡単に山田さんの紹介をさせていただきます。山田広昭さんはフランス文学・フランス思想の研究者として出発され、特にヴァレリーの研究で知られている方でいらっしゃいます。もう20年近く前になりますが、2001年に『三点確保』という本を新曜社から出版されました。この本には「ロマン主義とナショナリズム」という副題がついていました。その中で、山田さんはヴァレリーの専門家として、ヴァレリーについて説き起こしながら、最終的にはドイツ・ロマン派、国学なども含む形で、文学・思想の風景を描き出しておられます。私は文化人類学が専門ですけれども、文化人類学では川田順造先生が、三角測量とおっしゃっておられます。文化の三角測量ということを言っておられて、文化を比較するときに、例えば日本とフランスを比較するというのではなくて、そこに例えばブラック・アフリカを介在させてみると、その比較がより多層性を持って現れてくるということですね。四角測量、五角測量という形にも発展していくものかと思いますが、山田さんがここで「三点確保」とおっしゃっておられるのも、そうした文化人類学の考え方にも通じるところがあるかと思います。

本日の主題は「可能なるアナキズム」についてですが、私自身はもちろんこれを読んで、高度な内容を持った専門書であると同時に、一般の人に向けても書かれたある種の教養書としての意味も持っているというふうに理解しているところです。

まず初めに山田さんにこの著書『可能なるアナキズム』について紹介していただき、何をこの中で論じたかったのか、何が論点なのか、というところを説明いただくところから始めたいと思います。なお私自身は文化人類学者で、アフリカの東のマダガスカルで、1980年代の末から現地調査をしてきた者です。最近はマルセル・モースやマルセル・モースが属していたフランス社会学派の動向などにも関心を持っているところです。

 

山田 どうもありがとうございます。森山さんにそんなに丁寧に紹介していただけるとは予想していなかったので、ちょっと困惑しています。むしろ私としては、マルセル・モースの『贈与論』そして『国民論』を翻訳なさっている森山さんに、モースのことや贈与の問題についていろいろ教えていただきたいと思って、非常に楽しみにして今日の対談にやってきました。

まずこの本のタイトルについて。これは以前に森山さんからも『可能なるアナキズム』というメインタイトルと、副題になっている「マルセル・モースと贈与のモラル」が、簡単には繋がらないというか、組み合わせとして意外な感じがするというふうに言われたと思うのですが、そういう印象を持たれるのは当然だと思います。実を言えば、メインタイトルを「可能なるアナキズム」にするかどうか最後まで迷っていましたので、自明の繋がりではないということは十分に分かっています。

そのことを踏まえた上で、本書の狙いを簡潔に述べたいと思います。まず、メインタイトルの「アナキズム」について言うと、「アナキズム」という言葉に、これまで抱かれていたと思われるイメージとは少し違うヴィジョンというものを提出したかった、ということがあります。これまで抱かれていたイメージと言いましたけれど、大きく言うと二つあって、一つは、その個人主義的なバージョンです。それは既成の秩序や規範というものに縛られることなく自由に生きることを追求するという、言うなればその人の人生に対する態度をあらわすような、「生き方アナキズム」とでも言うのでしょうか、そういったイメージが一つあると思います。もう一つは、19世紀末に、大きくヨーロッパと言ってもいいんですが、特にパリで頻発した、ダイナマイトによる爆弾テロですね、そこに淵源を持つと思われるアナキスト=テロリストというイメージです。アナキズムの暴力主義的バージョンといいますか、そういうイメージがあって、それはいまも消えてはいないのではないでしょうか。それらとは違うアナキズム像というものを出したいと思いました。ただ、もう一方でプルードンに始まるアナキズムにはアソシエーショニズムとも言うべき流れが強くあります。アナキズムとアソシエーションとの繋がりを理論的に再考してみたい、理論的基礎を与え直すことをやりたいと考えていました。

二点目は、副題にある「贈与のモラル」についてですが、普通「贈与」あるいは「贈与のモラル」という言葉には、いわば無条件に善きものというイメージがあるのではないかと思います。利他とか博愛とか、あるいは歓待、ホスピタリティとか、場合によってはそこに一種の自己犠牲さえ含意される。「贈与」という言葉を聞いたときに、最初に思い浮かぶであろうようなそうしたイメージを修正したい、それがもう一つの狙いです。もちろん森山さんはよくご存知だと思いますが、モースにおいては贈与あるいは贈与の体系というのは極めて両義的なもので、極論すれば、それは戦争の代理物である、というふうに言えるのではないかと思います。別の言い方をすると、それは利他的行動であるよりも前に、そしてまた多少なりとも功利的な、実利的な経済的行動であるよりも前に、まずは共同体間の、あるいは共同体内部の対立をエスカレートさせないための技術、技法として見なければならないのではないかということです。そしてそれが結果として、ある形での公正と平等をもたらすと考えているわけです。この点については、後で森山さんとの対話の中心的な話題の一つになると思いますので、そのときにもう少し詳しく話せたらと思っています。

そして三点目が、アナキズムと贈与のモラルというこの二項がどういうふうに結びつくのかということになります。これは、それを論じるために一冊本を書いているので、簡単にまとめてしまうことができないのですが、私は19世紀後半以降、アナキズムの政治的意味というのは常にマルクス主義、ロシア革命以降はマルクス=レーニン主義、あるいはボルシェヴィズムとの対抗関係のうちにあったと感じています。主要な係争点としては、もちろん集権的・権威主義的な運動論や組織論に対する批判があったわけですけれども、史的唯物論と呼ばれている考え方──唯物史観という言い方をする時もありますが──、それがマルクス主義の中心にあることを考えれば、唯物史観の批判というのが本来もう一つの係争点にならざるを得なかったはずです。史的唯物論──経済決定論という意味での史的唯物論ですが──、その中心をなしているのが生産様式論ですね。これは生産力と生産諸関係の統一として定義され、それが人間の社会と文化の様態を決定してゆく。これについて話し始めるとまた長くなってしまうので、一応そういうものとして理解していただくとして、それを前提とすると、マルクス主義に対する真に生産的な批判というのは、この生産様式論をめぐるものにならざるを得ない。これは思想史的な問題になりますが、デュルケム以降の社会学者・民族学者は、そのことをはっきりと意識していたと思います。マリノフスキーもそうですし、デュルケム自身もそうですが、モースもそうだったと思います。極端な言い方をすると、ちょっと語弊があるかもしれないけれども、社会学や民族学というのは、今述べたような史的唯物論を批判するために生まれたと言ってもいいのではないか。その時に見出されたのが、マルセル・モースが「アルカイックな社会」と呼ぶ社会における贈与システムであったのではないかということです。ポイントは、贈与というのは交換のシステムなのであって、生産のシステムではない、生産様式ではないという点にあります。そして生産様式からではなくて交換様式をもって世界を見直す、歴史を見直す。それが民族学や社会学が元々持っていた狙いではないかというふうに思えます。それが20世紀から21世紀にかけて、民族学者や文化人類学者が非常に刺激的に見え、さらにいまの時代においても彼らの仕事が非常に重要に見えることの一つの要因になっていると思うのです。従ってそこでモースの仕事と、マルクス主義への批判、そのいわば「左からの批判」として存在してきたアナキズムが接合するのではないかと。そういう見通しがもてたということです。

技法としての贈与

森山 ありがとうございます。本の内容をある意味で要約していただいたような感じですけれども、アナキズムに対して従来抱かれていたイメージとは違うヴィジョンを提示するということが、それこそまさに『可能なるアナキズム』というタイトルに込められていることだと思っています。日本語話者にとって不幸なことにアナキズムが「無政府主義」と訳されてきたということがあります。これは政府を不要とするとか、国家という組織、あるいは制度体自体を無効化するような動きとして捉えられてきて、そこからテロリズムとの繋がりといったイメージも出てきた。私自身はこの山田さんの本を通読しまして、私が論旨を追えた限りではほとんど説得されています。その立場で申し上げると、アナキズムに対して抱かれていたイメージ、例えばそれが今おっしゃった個人主義的なバージョン、生き方アナキズムであったり、あるいは暴力主義的バージョン、国家転覆のアナキズムであったりという、それらとは違うアナキズム像を出したいというところから、プルードン以来のアソシエーショニズムということを今おっしゃったと思います。

アナキズムとアソシエーショニズムの繋がりについてはあとでお聞きするとして、「贈与のモラル」について話をしたいと思います。これについては、贈与は無条件に善きものというイメージがあると言われた。自己犠牲や利他性、あるいは博愛主義、歓待=ホスピタリティなど。そういったイメージを修正したいということで、例えば戦争の代理物というふうに山田さんは言われましたが、この点についてもう少し説明願えますか。

 

山田 これは、森山さんが訳された岩波文庫版『贈与論』の訳者解説の中で、森山さん自身が書いておられることに関係していると思います。そこではモースの贈与論の問題として三点指摘されていて、二点目に置かれているのが、「贈与交換における平和性と暴力性との混ざり合い」という指摘でした。つまり贈与体系には、自己を他者に向かって開く、自己を閉じたものにしないという側面が一つありますね。ポジティブに言えば、それは繋がりを作り出していく、絆を作り出していくということですが、その場合、絆はいつでも「縛り」に転化するという側面をもっています。ほどけない絆と言えば鎖だから、全然善きものじゃない。贈与にはもちろんそういう側面があるわけです。しかし、それでもなぜか繋がりを作り出したいということの背景には、やっぱり集団同士、あるいはより根源的には一対一でも同じですが、制御できないような対立、攻撃性とか葛藤というものがあって、それをそのまま放っておいたら、それこそ力と力のぶつかり合いになるし、エスカレートすれば殺し合いになります。それをどうやって制御するかという根本的な問題があります。贈与システムというのはおそらく、繋がりを作り出すという面と同時に、対立を統御する、その統御の仕方として作り出された人間の営みではないかと思うのです。だからそこに不可避的に、ポトラッチのような、贈り物によって相手をどうやって倒すか、返せないぐらいの贈り物を相手に送ってしまって自分が優位に立とうとするような面がでてくる。それは贈与システム自体が持っている非常に強い働きの一つですね。それはそこだけ見たら極めて暴力的なものですけれども、実はそれは、よりひどいというか、本当に命をかけたような対立にならないために生み出された一つの技術ではないかと、私は思います。技法と言ってもいい。だからそれは戦争の代理物だと言ったのです。それによって対立を制御し、かつそれによって、理想的に進めば対立をその反対物に転化させる。元々ある葛藤を「絆」に、良い意味での絆に変える、そういう装置になっているのではないか。

 

森山 わかりました。『贈与論』を訳している時に、フランス語でリアンlien、関係とか結びつきといった意味ですが、そのlienという言葉がよく出てきて、それを僕は「繋がり」と訳した文脈と、あえて「縛り」と訳した文脈があります。そのことを思い出しました。「繋がり」というのは、もしそれを「絆」とすると、3・11以降の近年の日本の社会的な動向を見ていると、非常にポジティブなもの、望ましいもの、達成すべきものというふうに捉えられる面があるけれども、一旦出来てしまえばそれは縛りになるという側面がやっぱりあって、その場合にはそれは極めて否定的に働くことになるわけですね。そういう意味で、贈与というのが、ある肯定的な面と同時に否定的な面、つまり贈与は人との間に関係を作るということは確かなんだけれど、その関係が絆という形でポジティブに現れるか、それとも縛りという形でネガティブに現れるかというところに、モースの記述には非常に揺れがあるのです。たぶん両方の面を言っている。「人々が付き合うようになるためには、まず先に槍を置くことができればならない」ということを、モースは確か最終章で言っていたと思います。槍を置いて、自分のものを相手に与える、それによって初めて付き合うことが可能になる。つまり集団間とか個人間の平和的な関係を作るという意味での贈与の役割があると同時に、いま山田さんが言及されたように、北アメリカ北西部の太平洋沿岸地域の先住民たちが行っているポトラッチ、ある種の祭儀ですけれども、そこでは自分がそれまで苦労して貯めてきた富を、いっぺんに消費するんです。相手に与えたり、あるいは場合によってはそれを破壊して見せたりするという形で、長年苦労して貯めてきた財を一瞬にして消費する。それで贈与を受けた側は、今度はそれを凌ぐような贈与をしないと自分の面目を失うことになっている。だからここには贈与合戦というのがあって、まさにこれをモースは財の戦争とか富の合戦というふうに戦争のメタファーで語っています。ただ、それが実際の戦争と比べると、戦争を抑止するようなある種の代理物として働いているというのは、山田さんのご指摘の通りだと思うし、その意味で贈与には平和をもたらすという側面とそれから暴力的な対抗関係をもたらすという側面と、たぶん二つがあって、その二つをモースは二つながらに強調しているところがあると思います。

 

山田 ある意味、対立を枠に入れる側面があるということですね。その枠の入れ方なのですが、その技法が優れているのは、言わばそのことによって、うまくいけば、水平的な、平等な関係が作り出される可能性が内包されている。もちろん常にうまくいくわけではないのですが。森山さんが言われたけれど、日本語で近年この絆という言葉が乱用されているというか、非常に多く使われている。そこにある種の気持ち悪さを感じている人も少なからずいると思います。この言葉の二重性には我々はみんな気づいている。贈与システムは絆に、絆そのものに関わっているので、それが二重で、両義的であるというのは、すでにはっきりしていると思うんです。それを評価するには、丸ごと受け入れた上で、その二重性を引き受け、そのポジティブな面をどのようにそこから引き出していくかという問題がある。だからそこにはテクニック、技法、技術が必要だと思うのです。贈与自体も技術ですが、それをうまくマネージしていく技術が必要だと思います。それがいわばアナキズムの可能性に関わっている、そういうふうに考えています。

交換の根源性について

森山 交換様式論というのが三点目の中でのポイントとして挙げられていました。マルクス主義、あるいはボリシェヴィズムとの対抗関係、集権的な運動論・組織論への対抗であるとか、それが一つの結節点になって、それに対抗するという立場から見た時に、マルセル・モースとアナキズムがある結び合いを見せるという論旨だというふうに私は理解したんです。その時に生産様式をめぐる批判というのが、マルクス主義批判としては真正な批判であるということ、それからデュルケム以降の社会学者・民族学者あるいは人類学者たちは、そのことを意識していて、そうしたマルクス主義的史的物論を批判するために議論を展開してきたというご指摘。これは人類学者として、よく噛みしめるべき指摘だというふうに思います。で、生産様式をめぐる批判が、真にマルクス主義の批判になると言う時のその生産様式についてもう少しご説明いただけないでしょうか。おそらく交換様式を考えることにも繋がっていくと思います。

 

山田 生産様式という言葉の中には、生産力と、生産関係、生産諸関係が含まれていますが、生産して生み出されたものがどういう形で人々のところに渡るのか。生産様式では、流通や消費はいわば副次的な位置に置かれます。

 

森山 ええ。

 

山田 生産様式論では生産が社会を決めていると考える。生産のあり方や生産力が社会の構造を決めていると。でももしその前提に立つと、資本主義以前の社会、まさに民族学者や人類学者が見ようとした社会を見る時に、その見方ではうまく見ることができません。文化人類学が専門の森山さんの意見をもちろんお聞きしないといけないんですが。その点があって、交換が注目されたのだと思います。人類の歴史はアルカイックな社会の方が、圧倒的に長かったわけです。そこに基本的な社会構造を生み出す基本的なメカニズムがあったはずなのに、それを生産様式というか、生産の場面だけを見て捉えようとしたら、抜け落ちるものがいっぱいあります。どちらがより根源的かというと、生産ではなくて、財が流通する仕方の方で、人間というのは、物を交換して生きている。それで社会を作っているので、物を作る前に、あるいは作らなくても交換はしています。そちらの方が基本になるというのが、民族学の一つの発見だったのではないか。質問に対する答えにはなっていないかもしれませんが。

 

森山 生産様式を前提にして、いかにして生産するか、ということに着目する視点と、生産されたものであれそうでないものであれ、自分の手元にあるものをどうやって交換するかというのとは、たぶん視点の置き方が全く逆で、だからこそ交換様式に着目することによって、生産様式論を批判できるという構図になるのだと思うんですね。どちらが根源的かというと、財の流通の仕方や交換される仕方、そちらがより根源にあったのではないか。それが、先ほどの言い方で言うと、繋がりをつくるということの方が根源にあったのではないかということと結びついてくると思うのですが、そういう理解でいいでしょうか。

 

山田 そういうつもりで私は話しました。それで、念頭にあるのは、マリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』の中で、これは単にマルクス主義への批判だけではなく、近代経済学の考え方そのものへの批判として出していることですが、クラという交換システムの記述をしたわけですね。どういう言い方だったか正確には思い出せませんが、例えば誰でも同じように手に入る、そこに行けば手に入る、つまり交換しなくても手に入る。それなら交換をする理由などないはずです。簡単に誰でも手に入るのであれば、お互いに交換によって得られる利益はないわけだから。そういう状態であっても人は交換すると、マリノフスキーは言うわけです。ゲイン(利得)が全くないのに、どっちにとっても儲けがないのに、それでもひとは交換する。人間の活動としてはそちらの方が根本的であると。そうして、功利主義的なホモ・エコノミクス、経済学が基礎に置いているような、自己の利益を最大化するために活動を行う合理的な人間観に立脚して経済活動を見ていく見方を、いわば否定するわけです。人はそんな理由で交換しているのではないと。その時にマリノフスキーは同時に、交換の持つさまざまな側面を、モースももちろんそうですが、見ていたと思います。

交換とはすごく多義的なもので、プラスにもなればマイナスにもなる。それぞれの社会にあって交換は様々な現れ方をする、どこを取り出してくるかによって、どの面が出てくるかが変わってくる。どんな交換にもポトラッチ的な部分はあり、闘技的な部分、競争的な部分がある。だけれども、それが前面に出ないような交換もありますね。モースが『贈与論』の中で取り上げているような交換の中にも、大きく三つの種類が考えられています。まず一つはギムワリという日常品の交換。もう一つはポトラッチ型の競争的な交換。三つ目はクラそのものというか、ある品物がどんどんどんどん水平的に循環している。同じ種類の物が循環していくわけです。その三つは全部交換ですが、それぞれ違っている。日常品の交換を律しているのは、むしろ等価交換で、お互いにとって同じ価値を持つもの同士を交換している。

そうした交換のあり方によって、それが生み出している人間の関係性がみんな違う。これは、交換と贈与の違いにも関係していると思いますが、これも森山さんが『贈与論』の解説の中で書いておられて、先ほど三点指摘されておられると言ったうちの一つ目ですが、贈与と交換との混ざり合い、モースの中では贈与の問題と交換の問題が混ざっているという点です。でもモース自身は、贈与を交換から区別しようという意志はなかったのではないかと思うのです。『贈与論』の副題は、「アルカイックな社会における交換の形態と理由」でした。だから彼はあくまでも贈与を交換として考えていたと思うんです。その交換の仕方、タイプの違いに応じて、それぞれ違う人間の関係性が対応している。いわゆる普通の交換というか等しい価値を持ったものと思われる物同士を交換する場合は、交換し終わったら、一応その関係は理屈上はチャラにできる。交換を続けてもいいし続けなくてもいい。するとこの関係性は一時的なもので、その縛りを解くことがいつでもできる。でも、ポトラッチ型の、「どっちがたくさん贈与するか」という形の交換だと、負けた方は下位・劣位に立ちます。それで勝った方が上になるという、垂直型の人間関係ができます。モースが期待したというか、現在に繋げようと考えたのは──これは本の中でも書いたんですけれども──、クラタイプの、つまり垂直的な関係が立ち上がってこないような形の贈与のシステムではないかと、私は考えます。もちろんマリノフスキーも書いていますが、クラ型の贈与、水平的に動いていく贈与でも競争意識はあるわけです。人より立派な首輪が欲しいとか、それをあげた方が偉く見えるとか。それが全く払拭されているわけではないのですが、でも少なくとも水平性の関係が基本だと思うんです。そちらにモースは贈与システムの可能性を見ていたのではないか。だから贈与一般とか交換一般ということを語るのは、実は難しいというよりも、むしろ誤りで、それがどういう人間の関係性とリンクしているかということが、大事ではないかと思います。

贈与のモラルがアナキズム的なものの鍵になると思ったのは、それが複合的なシステムだからであって、そこには等価交換の持っている開放性が残されてないといけないと思うんです。だから、商品経済は大事だと思います。等価交換だから鎖を切ることができる。お金が媒介することによって嫌だったらやめられる。金銭づくの関係をすべてやめるということは等価交換をやめるということですから、切れない関係性になる可能性の方が高い。しかしそれだけだったら、自由かもしれないけれど、人間の社会性自体が破壊されてしまいます。そこをどう調停するかが基本的な問題であって、それをモースは、贈与のシステムという形に求めたのではないか。

交換か贈与か

森山 難しい議論ですね。マリノフスキーが近代経済学そのものの批判として、あの『西太平洋の遠洋航海者』を書いたというのはその通りで、いわゆる近代経済学的な発想に対する批判は、あの本の随所に埋め込まれているわけです。そこでマリノフスキーはクラという交換のシステムを記述した。この図はマリノフスキーの本からそのままスキャンしてきた地図ですが、左の方にニューギニアと書いてある。ニューギニア島です。そのニューギニア島の東の端を含んで、そこから沖合の諸島をあたかも円を描くかのように、財物が流通していくんですね。循環していくんです。一方にソウラヴァと書いてありますが、これは首飾りです。貝で作った首飾り。他方に、下の方にもムワリとありますが、やはり貝で作った、こちらは腕輪なんです。ソウラヴァの方は、時計回りに循環してムワリの方は反時計回りに循環する。そういうシステムになっているわけです、少なくともマリノフスキーが記述している範囲では。どこでもいいのですが、例えばこの地図のどこかのある一点に自分の目を置いてみる。例えば北西に島があります。これがトロブリアンド諸島で、マリノフスキーが調査をしたところなのですが、この地図の北西部にあるトロブリアンド諸島から見ると、トロブリアンド諸島の人は、その南の島の人からソウラヴァを受け取る。で、受け取ったソウラヴァを一定期間自分の手元に留めておいて、今度は自分たちの東にいる島の人たちにそれを送ります。腕輪のムワリの方は逆向きの動きをするので、トロブリアンド諸島の人は東の、そこにマーシャル・ベネット・アイランドとありますが、そこから腕輪であるムワリを受け取って、一定期間自分のところに保持しておいた後、今度は南にいる島の人たちにそのムワリを与える、というふうに、首飾りと腕輪がそれぞれ逆向きに循環する。そういうタイプの交換がクラと呼ばれるもので、マリノフスキーの記述は人類学の古典になっています。

Bronislaw Malinowski, Argonauts of the Western Pacific: An Account of Native Enterprise and Adventure in the Archipelagoes of Melanesian New Guinea. New York: E. P. Dutton, 1961 [1922], p. 82.

これは山田さんがこの本の中でも強調されているように、水平的な、コミュニティ間の繋がりを作る、あるいはコミュニティ内部でもクラは行われているので、コミュニティ内部の繋がりを作る、という形になっていて、かつそれは双方向的です。私が腕輪をあげればあなたは私に首飾りをくれるということになる。かつ二者で完結しないで、それは第三者、第四者へと伝えられていくという形になっているので、広域的なネットワークを作って、そこに一種の平和的な、まさに水平的な連帯の関係を作り出す。先ほど交換と贈与との関係にも関連しているとおっしゃったんですが、このクラというのは、贈与なのかどうか、僕はずっと疑問に思っています。交換ではあるが、果たして贈与なのか。

山田 それに関して私はちょっと考えていることがあって、贈与と交換の違いというのは、先ほどの関係性の問題と絡んでいて、そこに等価性の原理が存在していたら交換だと。贈与もじつは交換なのですが、等価ではない部分があり、不等価性があって、等価性が成立していない交換だと思うのです。だから贈与は交換という大きな集合の中の部分集合で、その全体集合としての交換の中で、小さい部分である贈与が、等価性がそこに成立するかしないかということによって交換とは区別される。そうすると、クラは実に微妙だと思うんです。

マリノフスキーは、クラの根底的な原理は二つあると言っています1二つの重要な原理、すなわち、クラはある時間的間隔をおいてお返しのくる贈り物であって物々交換ではないこと、および、等価物の選択は与える側にあり、これを強要することはできず、また値を争ったり、交換を取り消すこともできないことの二つが、あらゆる取引の根底にある。
(寺田和夫・増田義郎訳「西太平洋の遠洋航海者」〈世界の名著〉59『マリノフスキー、レヴィ=ストロース』中央公論社、1967、163頁より。一部修正)
。一つは、ある時間的な間隔を置いてお返しの来る贈り物がクラであると。だから、クラでカヌーに乗って別の島に行く人は、贈り物になるものを持って行ってはいけないんです。彼らは与えるのではなくてもらいに行くんですね。そしてその場ですぐ何かを返してはいけない。最終的には返すわけだけれども、そこに必ず時間が存在している、時間の経過がなければならない。それが一つです。もう一つは、その際、お返しはもらったものと等価なものでなされなければならないという言い方を、マリノフスキーはしている。 « equivalent counter-gift » だったか、そういう言い方をしています。だから、その部分を取り出すと、等価性が成り立っていなくてはならないというふうに言っているように見えるのですが、この次が重要で、お返しとしての品物が等価であるかどうかの見積もりは、それを返す人、それをくれる人に任されていて、いかなる強制もしてはならないと言っています。つまり、等価物の選択は、お返しをする側に選択権があって、返された方がたとえそれに不満でも、もっと返せなどと言ってはいけない、あるいは最初にあげたものを返せと言ってはいけない、というふうに書いています。もちろんクラの贈り物を受けた人は公正に同等な価値のあるものを返すことを期待されているんだけれども、そうでなかったとしたとしても最初に贈与した側を救済する方法はない。だから繰り返しになりますが、「もう取引はやめた!」などとは言えないということです。

その限りにおいて、これは贈与システムだと思います。しかもそれは贈与体系を開放するような力があって、私はそこに贈与体系が人を縛りつけるものにならないための、あるいは個人の自由を奪うものにしないための、鍵になる考え方の一つがあると思っています。つまり、返す人の方が何を返すかを選べる。そうでなければ、最初にもらった人は縛られ、縛りつけられたままになってしまう。もちろん関係は完全にチャラになるのではなく、縛りは残ります。そのギリギリのところというか、それがクラというシステムを描いた際の──それが本当に正確な解釈なのかどうかは、私は判断しようがないんですけれど──、マリノフスキーにとっての重要な点ではないかと思っています。だから先ほどの森山さんの質問に対する答えとしては、クラは贈与の一つのタイプだということになります。その理由は、それが等価交換には還元できないからです。

等価性をめぐって

森山 ただ、等価性で判断するとなると、等価性はどう担保できるのかというう問題が次に出てきます。

 

山田 等価を考えるときに、二つのものがあって、それらが客観的に見て等しい価値を持っていると考えようとすると、その尺度はどうやって決まるのか。これとこれは等価であるということを誰が決めるのかという問題がでてくる。それを決める決め手になるのは、交換した者同士が、その後別れてから、お互いに縛られない関係になれたら、その二つのものは等価だと考えたらどうか。等価性を物に付属する性質として捉えてしまえば、交換価値の根拠は何かという話になりますが、等価性の問題はむしろ人と人との関係性の問題として考えることができて、それはその後の関係を自由につないだり切ったりできるというか、その縛りを一旦外すことができるというとき、それが等価性だと思うのです。先ほど言ったことの繰り返しになりますが、等価性だけを重んじたら、先ほど言われたようにリアン(lien)の部分ですね、英語だとタイ(tie)かな、つまり人を縛る部分の根拠がない。したがって、そこに贈与の問題が残る。しかしクラは、そこを非常に微妙に処理しているシステムなのではないかと、マリノフスキーの記述を読むと感じられるのです。

 

森山 ただ一方でマリノフスキーは──正確に憶えているわけではないけれども──、クラにおいては等価性という概念は厳密に追求されると言っているところもあります。

 

山田 そうですか。私が読んだ限りでは見つけられなかったです。

 

森山 その関係のあり方によって等価であることが決まるというのは、つまり、交換が行われて、私が山田さんに何かを出して山田さんが僕に何かを出してくれて、それで僕と山田さんの関係が断ち切れるということですね。例えばコンビニとかスーパーで物を買う時はそうですね。買えば関係は断ち切れる。それが等価の交換だと、そういう形で等価性を考えた方がいいんじゃないかというのは非常にサジェスティヴな考え方です。いままで僕はそういう観点で見たことがなかったので、ちょっと考えてみたいと思います。

ただ例えば、こういう事例があります。モーリス・ゴドリエというフランスの人類学者がいます。ゴドリエは最初マルクシスト人類学者として出発した人です。彼はニューギニア高地でバルヤという民族集団の調査をして、それでモノグラフを書いているわけだけれど、マルクシスト人類学者として、彼らの経済的な状況とか、それからまさに交換のあり方にすごく注意を払っている。そのゴドリエの記述の中にこういうのがあります。バルヤの人たちは塩を作るのに長けている。内陸部ですから海水からではないです。塩分を含んだ樹木があってそれを切って乾燥させて、それを燃やして灰にして、その灰を水で濾過していくんです。その濾過する過程で塩が得られる。バリアの人たちはこういうふうに、草木から塩を作る技術にすごく長けていて、彼らが作る塩というのは一本の延べ棒みたいな形に成形されるのだそうです。その一本の塩というのがある種の貨幣のような働きをするというわけです。例えば隣の民族と、斧一丁に対して塩一本というような形でレートが決まっているというわけですね。そのレートがどうやって決まっているのか、マルクス主義人類学者としてのゴドリエは、そこに労働時間という概念を入れて、塩一本作るのにどれだけ労働時間が投下されるかというふうに考える……。

 

山田 労働価値説ですね。

 

森山 そうなんです。それで検証しようとしている。ところがゴドリエは面白いことに、本論ではなく、実はたぶんちょっと筆が滑ったんだろうなと思う箇所でこんなことを書いています。バルヤが、隣の民族と斧一本と塩一本で交換するというレートが定まっていた。ところがある時、バルヤの人がその隣の民族に行って、隣の民族と出会った時に、ものすごく恐怖を感じた。向こうは斧を持っていて、こっちは塩しか持っていない。恐怖を感じて塩を三本置いてきたと。それから斧一丁に対して塩三本がレートになったという話を書いています。そうすると、労働時間や労働力とは関係ない、という話になりますね。等価性というのは、だからある種恣意的な形で決まりうるものということになる。

そうするとマリノフスキーが、クラにおいて当事者たちは等価性にこだわっていないというふうに言っているとしても、しかしマルセル・モースが引用するマリノフスキーは、たぶんそうじゃないんです。マルセル・モースが引用しているマリノフスキーの部分は、例えばいま山田さんが最初に正しくご指摘いただいたように、もらいに行くんですよ、クラに出ていく場合。

 

山田 私は以前はあげに行くんだと思いこんでいました。もらいに行くんですよね。

 

森山 そう。もらいに行くんです。もらいに行く途中で様々な呪術を使いますが、もらいに行く先にはクラのパートナーがいるわけです。これは恒常的で持続的な関係、切れない関係ですね。

そのクラ・パートナーに対して、呪術を仕掛けて、ちゃんとしたものを持って来させるようにさせるというところに、モースは着目している。それからもし相手が自分に返してくれる贈り物が、自分が最初にあげた贈り物と価値において見合わなければ、猛烈な不平不満をぶつけてもいいとか、呪術・呪いをかけてもいいとか、あるいは不意打ちかけて奪い取ってもいいとかというところに、モースは注目しているんです。そうするとマリノフスキーの記述の中で、少なくともモースが着目しているのは、等価のものをもらいたいというこだわりの部分だというふうに見えるんです、たぶん。

マルセル・モースは「給付のシステム」という言い方をしますね。「給付のシステム」はある意味でとても便利な言い方で、何か物が移転する場合、送る側あるいは与える側と受け取る側がある。だけどそれは給付──プレスタシオン(prestation)とフランス語では言いますけど──と言っている限りは、それが贈与なのか交換なのかということは問われないんです。給付というカテゴリーにまとめるのはある意味でちょっとずるいところがあって、それが贈与なのか交換なのかが曖昧にされる。マルセル・モースがポトラッチについて、これが競合型の給付のシステムだと言う時には、それは明らかに送った側と送られる側との間に、送り合い合戦みたいな、まさに合戦が生じる状況を言っています。だけどクラの場合はマルセル・モースの記述、というよりマルセル・モースが理解しているマリノフスキーを取り出してくるところを見る限り、それはプレスタシオンとは見えないんです。給付する行為とは見えない。動くのはもらいに行く側だし、もらいに行く側は相手に呪術をかけているし、不平不満を言うし、場合によっては不意打ちかけて取り上げたりする。結局クラの場合も、賭けられているのは、獲得することなのではないか、給付することではなく。財物をどれだけ獲得したかがポイントなのではないか。

 

山田 森山さんが言っておられることがたぶん正しいとは思うんですが、私はもう一点ポイントがあると思います。マリノフスキーは──モースもそうだと思いますが──クラにおいて問題になる所有、獲得は、私達が普通に思っている所有とは違うと言っていると思います。一時的に預かっているだけ。マリノフスキーはトロフィーの比喩を使っていました。スポーツの競技会で優勝するとトロフィーをもらえるけれど、翌年返さなければいけない。欲しければ、もう一回優勝しなければならない。でもそれは所有権ではない。しかし、トロフィーを持っていることはすごく名誉なことですね。獲得を目指すけれど、その物自体を保持するための獲得ではなくて、それを持っていることに伴う名誉を欲している。だからみんな優勝を目指すわけですね。普通に使う獲得という言葉は、所有してそのままもう誰にもあげないという意味になりますが、例えばヨーロッパの王家や貴族が持つ家宝は、それを代々自分の子孫に伝え、誰にも渡さないものですが、クラの財というのは、そういう形の所有と共同所有あるいは誰も所有していない状態とのちょうど中間みたいなところにあって、一時的に預かっていることだと思います。そういうあり方は、財そのもの、我々が得たものに対する姿勢として、すごく示唆的ではないでしょうか。その間は使わせてもらえるけれども、預かっているだけ。

でもマリノフスキーが言っていて、モースが強調しているのは、やはりその財のあり方、近代的なその所有権の問題を意識しているからで、そこが重要なのではないかと思うんです。

少し話を拡張すると、社会主義における国有や生産手段を共有するという時の共有とは違う、マルクスが自由に連合した個人による領有と言う時は違う単語を使っていたはずです。森山さんが訳しておられる『国民論』とも関係してくる事柄ですね。森山さんは社会主義化を国有化とは訳さないというお考えでしたから。

 

森山 はい。

 

山田 共同で管理しているだけで持ってるわけではないということ。それは森山さんがさっき言われたことに対する反論ではないのですが、その点も考えた上で、獲得、所有にこだわるということの意味を考えないといけないのではないかという気がします。

 

森山 わかりました。これはたぶん、マリノフスキーの読み方とか、それからマリノフスキーを読んでいるモースをどう読むかということにかかってきます。テクスト読解あるいはメタテクスト読解の問題になってくると思うので、余り深く立ち入ることはしませんが、例えば、ポトラッチにおける競合というのは、明らかに与えることにおける競合なんです。どっちが大きく多く与えたか。マルセル・モースはある脚注でさらりと書き流していますが、理想的にはお返しがなされないポトラッチを贈ることが最良だと書いています。つまり、相手がお返しできないほどこっちは盛大な贈与をするのが理想であって、それによって、自分は富の合戦、財の戦争の常勝者になる。しかし原則的には相手側はより大きなものをお返しして凌ごうと考えるから、やはり贈ることにおける競合なのです。

クラの場合は、むしろ獲得することにおける競合なんです。誰がどれだけの物を獲得できたか。もちろんそれはずっと保持するためではなく、数年後に別の人に与えるためなんですけれど。だからまさにトロフィーみたいなもので、一年間、二年間は自分の手元にあるけれど、それは所有権が自分に移っているわけではなくて、また次の人に譲ることになる。譲るけれど、譲ることで、どれだけの物を譲られるかで、みんな競争しているのだろうと思います。

 

山田 ベクトルが違うんですね。

 

森山 ベクトルが違う。マリノフスキーが、自分でクラに同行しているんですが、もちろんもらいに行く人たちと一緒に行くので、もらいに行く人たちの行動はつぶさに見ているから、そういう書きぶりになっているのかもしれない。もしマリノフスキーが与える側の視点で見ていたら、どういうものが見えたのかという点が、僕としてはすごく興味を惹かれるところです。少なくともマリノフスキーやマリノフスキーを読んでいるモースを読むと、どれだけ富を得るのかによって人はみんな競合する。それがその地域の評判になる。誰々はこういう財物を手に入れたということが評判となって伝わる。それで名声や名誉や威信を高める。だからポトラッチとクラはそういう意味で反対のベクトルを持っているのではないかということです。

イニシアチブは債務者にある

山田 その方向性の違いは、私は考えたことがなかったので、いま指摘されてなるほどと思いました。クラ・システムのメインの目的はもらいに行くことだということ、船に乗って出かけていく方がもらいに行くということをあまり意識せずに読んでいたので、元々その理解はなかったですね。

少し自分の問題構成に引きつけて、マリノフスキーやモースにどれだけ忠実な読解かというところから離れて言いますと、先ほど言ったような所有のあり方の違いと、等価物の等価性を決めるのは誰かという問題は、ポイントになるとは思っています。なぜかと言うと、これは贈与の問題と極めて密接にリンクしている負債の問題とかかわっているからです。贈与は債権と債務の関係と繋がっています。もっとも、贈与システムでなくとも、資本主義社会の貨幣経済のシステムでも、債権と債務というのは独立して存在するから、贈与システムに固有の問題ではありませんが。債務を負った人間は、返さなければならないわけですが、これはサルトゥー=ラジュが『負債礼賛』〔邦訳『借りの哲学』〕という本を書いていて、そこで言っていることで、ここで大事なことは返さなくてもいいということではなくて、返さないといけないんだけれども、返す相手を自分で選べて、返し方も自分で選べる。「誰に返せるかを選べる」、「何で返すか、どのように返すかというのが選べる」ということ。それが債務の問題をいま考えるにあたって、非常に重要なことだと言っていて、私はそれはすごくよく理解できるんです。要するにどちらが優位にあるかというと、債務がある人の方なんです。そういうシステムの方が大事で、クラがそういうふうに見えたんです。つまり返す人が、何を返すか決められる。文句は言われるかもしれないけれど、強制はできないシステムだとマリノフスキーが言っていて、これはグレーバーの『負債論』などとも関係していますが、負債と債務のどちらが力を持つかは、システムを考える上において重要だし、これは社会思想の問題としても重要だと思います。負債をめぐる問題というのはフランスでも連帯主義の中で非常に重要な問題として論じられてきました。社会的負債とは、我々はみんな社会的負債を負って生まれているんだから、常に債務を負った存在であるという。そこから連帯という問題を引き出してくる、そういう論理になっていると思います。その時にこういうふうに返せなどと、債権者が要求できないことが大事だと思うのです。もし国家やネイションが債権者で、我々はそれに対して債務を負っているとなったとすれば、国家が命で払えと言えば、それで払わされることになる。債権者の方が強い。本当に国家が債権者かどうかは別の問題ですが、そういう理屈が成り立ってしまう。でもその等価物を決めるのはあなたじゃないよって。つまり、借りているんだけど決めるのは私ですということです。そこに、贈与の問題や負債や債務の問題を考えるキーがあるのではないか。

そういう目でマリノフスキーを読むと、そう書いてあるように見えるんです。たぶん私は、モースも、そのことを考えていたのではないかと思うんです。モースは絶対に社会連帯主義の流れの中にいると思うし、社会保障の問題も非常に重視している。もう一つは、私がこの本の中で取り上げた人たちは、みんな協同組合にコミットしている人たちで、どちらかというと、シャルル・ジッドもマルセル・モースも、たぶんワルラスも、消費者協同組合の方にコミットしているはずです。社会主義者たちがその点に注目したということには、やはり理由があると思います。それが、債務者の方にイニシアチブがあるということとパラレルではないかと考えています。消費する側にイニシアチブがある。資本主義経済のシステムだと、生産者と消費者は原則として同一人物になりますが、どちらの立場に立つかによって見え方が違ってくる。さっきの森山さんの話で言えば、船に乗る側なのか、船に乗ってやってこられる側なのかということですが、受け取る側から見た場合に、違う見え方が生まれて、それでもって交換とか贈与とか負債、債権者・債務者の関係全体を見直したら、ひとつの景色が見えてくる。そういうことが贈与システムについて言えるのではないか。このことはなぜアナキズムと贈与システムが関係するのかという問いに対する部分的な答えになっているのではないでしょうか。

国家とネイション

森山 いまのお話を受けて私がお聞きしたいのは、刷新されたアナキズム像を山田さんが提示される時のそのアナキズムに、どういう意味合いが込められているのかという点です。

 

山田 アナキズムにとって譲れないポイントは、やはり個人の自由ですね。しかし同時にもう一つ、相互扶助、人々が自律的に支え合えるようなシステムが目指されているという点だと思います。アソシーエションや連合という言葉の中にはそういった意味が含まれていると思いますが、その二つをどうやって両立するか、そこが全てのポイントなんです。自由は捨てたくないけれども、お互いが支え合う、それを可能だと信じることが、アナーキストのアナーキストたるゆえんだと思うんです。ただそれは言っていてもできないので、それを可能にするような社会のあり方が構想されなければならなくて、その非常に大きなヒントが、モースやマリノフスキーが見ようとしたものの中にある。もちろんそのままの形で移植できることにはなりませんが、それを構想するヒントになる。実際いろんなところでもうなされていると思います。協同組合運動などがそうですね。我々から見えているよりもずっと大きな広がりをすでに持っている。それを別にアナキズムと呼ばなくてもいいではないかという反論があると思いますが、私はあえてそれをアナキズムと呼びたいという、そういうスタンスをとっている。それでいいではないかというふうには思っています。

森山さんに聞こうと思っていたことがあります。私がきちんと扱えなかったのは国家と国民の関係です。モースは『国民論』を書いたわけですけど、その時に国家の問題をあまり正面から扱ってはいないですね。そこがアナキズムを反国家の思想として、モースに絡めて捉えた時の弱点というか、モースに依拠してそれを展開しようとした時に持つ弱みではないか。そこはペンディングにしておいてもいいかもしれませんが……。グレーバーやスコット、人類学者でアナキストの人たちは国家についてはとりあえず括弧に入れていると思えます。括弧に入れたままでもできることがたくさんあるし、いまの国家に対して、要求できることもある。だからそうした方が生産的だというふうに言っていると思いますが、やはり考えなければならないことだと思います。それでモースの『国民論』を訳された時に、森山さんは、国家と国民との関係についてはどのようにお考えになっていたか、それをお聞きしたかったのです。

 

森山 たぶんモースが前提にしている国家というのは、ある種の近代民主主義国家であって、独裁国家や専制国家は国家の名に値しないものとして視野に入れていないのではないでしょうか。そういう前提でモースは国家という言葉を使っている。例えば 『国民論』の中で、山田さんもこの本の中で引用していらっしゃいますが、モースが国民を定義している箇所がある。「わたしは国民(nation)という言葉を次のように解する」と言った上で、「物質的にも精神的にも統合された社会であり、安定した恒常的な中央権力を備え、境界が規定され、住民が国家およびその法に自覚的に参与しつつ、倫理的、心的、文化的に相対的な統一性を有するような社会」〔岩波文庫、122頁〕だと、モースは定義していて、「安定した恒常的な中央権力」という言葉は出てきていますね。さらに境界が規定されているということは国境線で境界がきちんと引かれていることだと思うので、そういう意味では、ある種の古典的な国家像をモースは前提にしている。ただし、その上でその国家は民主主義的な国家でなければならないみたいなことは言っています。「民主主義と不可分な概念である国民概念」といったような表現があって、あるいは「国民が存在するのは、市民が議会への代表をとおして国家の行政に参加するかぎりにおいてである」〔142頁〕といった表現がある。だから明らかに議会制民主主義を前提にして、モースは国家という言葉を使い、かつその国家とは違うものとして「国民」を想定していると思います。その国家の運営に自覚的に参与する人々の総体、しかも有機的に統合された総体として、国民をイメージしていると思うんです。「〈国民〉というのはあるコンセンサスによって鼓舞された市民たちである」〔144頁〕というような言い方もしていますが、その市民とはやはり議会制民主主義、フランス的な文脈で言えば共和主義のもとで、コンセンサスを図りながら国家運営に自覚的に参与する市民ということになると思います。だから国民を彼は重視した。それからナシオンという言葉の使い方として、アンテルナシオンを僕は「国際」とは訳さずに「間国民」としましたが、国際と訳すと、日本語ではどうしても国家と国家の関係、国際社会あるいは国際関係と言うような時のニュアンスがあるので、あえて「間国民」という訳し方をしました。国民と国民との間という意味での「間国民」。そして、そういった意味での国民をさらに超えて、国民同士がある種の大きな社会を作っていくという意味で、諸国民の社会であるところの国際連盟に期待するところがすごく大きかったというのは、山田さんが指摘されている通りだと思います。

 

山田 森山さんがいまモースの国民の定義は極めて古典的なものだというふうにおっしゃられて、私もそういうふうに受け取ったわけですが、であるが故に『可能なるアナキズム』の文脈でモースの国民論を扱うことの難しさがあるのです。

 

森山 なるほど。

 

山田 要するにネイションの章が、自分の中ではうまくいっていないという感じがあります。モースに即して、あくまでもモースから離れないようにしようとすれば、どうしてもそうなってしまいます。それがちょっと弱点だと思っているのですが、上手い考え方を見つけられない。私がモースの国民論から受け取ったイメージと、森山さんが受け取ったイメージはほぼ同じですね。そこは間違っているわけではない。

 

森山 ただモースは、ずっと国民であった国民、たとえばフランス国民といままさに国民となろうとしている国民──つまり第一世界大戦後のヨーロッパ情勢の中で考えているわけですが──を区別して考えていて、例えば、みんな言語が共通だから国民になれると思っているけれど、国民になろうとするから言語が共通になるのだと言っています。

 

山田 そう言っていますね。

 

森山 この点は、ある意味で「伝統の創造」というホブズボウムらの議論を先取りしているようなところがある。

 

山田 非常に主意主義的な定義というか、言語や文化に依拠して国民を定義しているように見えるんだけれど、実際には非常に主意主義的な定義を一方でしてますよね。それも興味深いし、ルナンの国民論の流れの中にもあるのかもしれませんが、その位置取りは微妙で、要するに実体としては考えていない、国民というものを何か確固とした実体ではなく、むしろそうなろうとする意志みたいなものとして国民を強調していたというのはよくわかるのですが、それだけにやはり伝統的なある種の領土主権国家、そういうものを念頭に考えているという点が、私としてはちょっとつらいところなんです。

モースとアナキズム

森山 たぶんかなり難しい問題でしょうが、モースが『贈与論』やあるいは『国民論』での議論の前提、発端に置いてるものはやはり集合体なんですよ。全体的な社会的事実とか全体的な給付と言った時、集団の全体という意味で使っているし、国民というものも、ある集合体、有機的に統合された集合体と定義をしているわけですから、そこでもある種の集合性というものを目掛けている。しかしその集合性にはレベルがあって、国民同士が更に社会を作っていって国際連盟みたいな上位集団を作ることもある。それから国民がその集団として取り出されることもある。さらに中間集団があって、最後に個人まで下りてくるとした時に、モースの議論の発端にはやはりホーリズムという全体論があって、社会をそのどのレベルにおいて捉えるかは別として、全体として捉えている。

だからアナキズムの、先ほど譲れないのは個人の自由だと山田さんがおっしゃった時の個人というのは、本来であれば、モースの視野には入ってなくていいんです。つまり、個人を発端に置こうとすると、自分のプロフィットとかベネフィットをマキシマイズして、コストをミニマイズしようとするような、ある種の合理的かつ功利主義的個人っていうものが出てきてしまって、それは例えばホッブズの「万人の万人に対する闘争」などというような考え方の中にもたぶん投影されているわけですね。自己利益をマキシマイズしようとするから、他者を害してでも自分の利益を考える。だから万人の万人に対する闘争になる。それを乗り越えるためにホッブズの場合は、国家という制度体が社会契約の結果として出来てくるという、そういう話になると思うんですが、結局、発端に個人を置くと、どうしても功利主義的な個人というものに囚われることにならないか。その点で、マルセル・モースの全体論と、アナキズムでの個人の自由と言った時の個人とを結びつける回路が何か必要ではないか。

 

山田 思うのは、マルセル・モースはデュルケムの甥ですよね。それで彼はデュルケムの非常に有能な助手でもあったし、『社会学年報』を中心になって支えたわけですね。それで表立ってデュルケムに反論したことはない、というか、理論的にはしていないと思います。だから、集合表象のような、社会は集合的事実なのだ、個人の積み上げではないんだという、デュルケムの枠の中で考えているように確かに見えるし、そういう部分はあると思うんです。そういう意味でモースを把握してしまうと、デュルケムも含めてですが、アナキズムとは明らかに相性が悪い。もし社会学でもっと相性の良い参照枠を探そうとしたら、むしろデュルケムの論敵であったガブリエル・タルドに求めた方がよいわけです。タルドは明らかに個人から社会を立ち上げようとしていて、出発点に集合体を置かないわけでしょう。個人の相互作用みたいな形で大きな構造が立ち上がってくる。結果として、少なくともフランスの社会学の歴史の中では、デュルケムが勝利したためにタルド的な方向性というのは一旦消えてしまった。そして戦後、ドゥルーズ/ガタリらの評価を通じてまた再生してきていて、いまは例えばブリュノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論などのベースの部分にタルドが位置づけられたりするわけじゃないですか。では、タルドの方向に求めた方がよいではないかと社会思想史に詳しい人なら、普通は考えると思います。

でも、私はそのモースには別の面があったというふうに思っていて、それは一つはマルセル・モースに身体技法についての講演、論文がありますね。これをすごく面白いと思っていまして、Les techniques du corps、身体の技術なんですが──これは次に伊藤亜紗さんと話す時〔2021年1月11日に行われたB&BWebinarのこと〕のテーマにしようと考えているのですが──、歩き方とか手の置き方とか、手の動かし方とか走り方とか、身体的な所作が民族学的には非常に重要な研究対象になるということをモースが言っていて、その時のモースはむしろ具体的な個々の事実から、ホーリスティックに全体を立てるのではなく、ディテールから出発していると思うのです。もちろんそれを社会学的なものに、民族学的な、全体の社会のストラクチャに繋いでいくわけですが、だけど見ている事実としてはやはり個人的なレベルがそこに含まれている。もちろん純粋に個人的な癖とか手の癖とか、そういうものだったら民族学や社会学の対象にはならないわけですが、しかし出発点はそこにある。例えば、マオリ族の女性の歩き方の例をモースが出していて、どんな歩き方かは私にはわからないのですが、たぶん腰を横に揺らしながら歩いていく歩き方だと思います。それで思い浮かぶのはモンローウォークで、あれは女性の身体的な構造そのものによる部分もありますが、まさにモンローの個性として現れているわけです。一方では全体に属する集団の個性なのだが、同時にマリリン・モンローというアイコンのものである。個的なレベルと集団的なレベルとの繋がりを身体の所作やその動かし方というレベルから見ている。そういう場合のモースの視線を見ると、なんというか全体論的ではない、ホーリスティックではない姿勢をすごく感じます。ですので、私はモースを違うふうに見る見方がモースの民族学そのものにあるのではないかと思っています。そこを見れば、アナキズムとの相性の悪さというのは実はそれほどでもないではないかと。かつ、全てを個から立ち上げるのではなくて、マクロなレベルの力というのも一方では存在していて、我々を縛る共同体の力というか、社会的事実としてフェ・ソシアル(fait social)として存在していることを同時に見ないと、社会的なものとの対抗関係の中でどうやって個人が動いていくかということを捉える視角が生み出せないと思うので、モースは、そういう意味ではちょうどいい位置にいるという気がします。全てを何らかのアクターの絡み合いで捉えるのではない見方がありえると思うのです。実はデュルケムも分業論などを見ますと、個人の問題を非常に重視していたと感じます。だから森山さんがさっき言われたことは私も強く感じるし、正しいと思うんですが、結論的には、それでもなおかつモースの中に、それを超えていく可能性を見たいというところです

 

森山 モースの『贈与論』の第四章の結論というのは、当時の西洋近代社会についての論評が大きく現れていて、そこでやはり全体的な社会的事象という概念も使って事象の社会的全体性という点を強調する一方、「個人」という言葉が頻出してくるのもこの第四章なのです。

 

山田 そうですね。

 

森山 全体社会は、一人ひとりの個人に配慮しないといけないとか、一人ひとりの個人は労働しないといけないとか、そういう書き方で個人が出てきます。その個人は、労働者として出てきます。消費者という言い方があったかどうかはにわかには思い出せませんが。労働者は自分の労働の対価として給与を受け取っている、それ以上のものを全体社会に贈与しているのだから、全体社会は労働者に借りがある、まさに先ほど山田さんが強調された負債の論理を提出していて、だからこそ社会は、全体社会は、社会保険という形でその借り、負債を、労働者に返さないといけない。疾病保険とか老齢年金保険といったものが出てくるわけですね。ここには、マルセル・モースの議論につきものの──僕はその例の一つだと思っていますが──、全体論への着目と、個人への着目という形が出ている。だけどそこで描かれる個人というのは、さっき言ったような功利主義的な個人ではやはりなくて、それはアソシエーショニズムというものが描き出そうとする、何か恒常的ではないかもしれないけれど、ある場面で集合して連帯してそしてまた解散していくといったようなタイプのものも含めたある種の連帯主義のイメージを、そこでモースは持っていると思うのですが、そういう点で改めてアナキズムという線から、最後に少し論じていただくとどうなりますか。

 

山田 モースは、殺し合うことなく対立(対峙)し、お互いが自らを犠牲にすることなく、お互いを与え合う、その術を知らなくてはいけないという言い方を、『贈与論』の最後のところでしています。« savoir s’opposer sans se massacrer et se donner sans se sacrifier les uns aux autres »。階級もネイション(国民)もそして個人もまた「そうできなくてはならない」〔450頁〕と。

ここでsavoirという動詞が使われています。このサヴォワール(savoir)という動詞の選択が私は重要だと思っていて、フランス語の可能、できるという意味を表す動詞は、プヴォワール(pouvoir)とサヴォワール(savoir)の二種類ありますが、例えば「私は泳げる」という時に、« Je sais nager »というふうに、savoirを使う。つまりその泳ぎ方を知っているという言い方をする。単に« Je peux nager » 「私は泳げる」と言うと、体の調子が悪くなくて、風邪ひいてなくて、今日泳いでもよいとか、そういう感じなんですね。しかしそうではなくて、術を知っているということを言うにはsavoirを使う。

モースも言っているように、贈与というシステムが技術、技法であると、私が言いたい非常に大きな理由がここにあります。だからそれは身体技法とも無縁ではありません。贈与のモラルをどうやって実行するのか。そのためには贈与システムを、対立を激化させず、お互いに助け合うための技法として身につけなくてはならない。それが私はアナキズムに対する教訓でもあると思うのです。物事がきちんと動いていくかどうかは技術の問題、テクニックの問題、アートの問題です。モースが『贈与論』を締めくくる際に用いた「究極の技法」や「ソクラテス的な意味での〈政治〉」という表現を私はそのように理解しています。

そうした意味での「技法」、「政治」として贈与のモラルというものが使えるのではないか、構想できるのではないか。それが「可能なるアナキズム」なのではないかと言ってもよいかもしれません。

 

森山 ありがとうございます。最後に山田さんが考えていらっしゃることのエッセンスが抽出されたので、これで終わりたいと思います。

森山工

文化人類学。東京大学大学院総合文化研究科教授。著訳書に『墓を生きる人々 マダガスカル、シハナカにおける社会的実践』(東京大学出版会)、『フィールドワーカーズ・ハンドブック』(共編著、世界思想社)、マルセル・モース『贈与論 他二篇』『国民論 他二篇』(以上、岩波文庫)他。

山田広昭

フランス文学。東京大学大学院総合文化研究科教授。著訳書に『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト)、『三点確保──ロマン主義とナショナリズム』(新曜社)、ポール・ヴァレリー『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房)他。