©️Kasama Naoko

 十月半ばのある日、いつものように、朝、庭に出てミニトマトを採ろうとしたところ、ひとつも熟していなくて、収穫できず、手ぶらで戻った。そういえば、いつから毎朝収穫していたのだったか。記録をたどってみると、六月末にはもう採りはじめている。苗は二本だけで、植えたきり水も肥料も一度もやっていないのに、三か月半、休みなく収穫しつづけていた。

五月に、農産物直売所で、いろんな種類のトマトの苗があるのを見て、買ってみようと思い、アイコという細長いミニトマトと、レッドオーレという少し大きめのまるい実がなるのを選んだ。敷地の南側、駐車場と境界フェンスのあいだの日当たりのよい一画を、舗装せずに土のまま残していたから、そこへ、二本の苗を植えつけた。隣には、別の直売所で買ったズッキーニの苗を植えた。

またたく間にトマトの枝は伸び、暇ができたら管理の仕方を勉強しようと思っているうちに、脇芽がどんどん出て、気づいたときには、何本仕立てだかわからなくなっていた。その後は、なるべく気をつけて脇芽をかいたものの、見つけきれず、しかし脇芽を放置する育て方もあるようなので、根を詰めなくてもよいことにして、結局、収拾がつかないほど繁茂したのだが、しかし、だからといって実つきが悪くなるわけではなく、どの枝にも次々と実がなった。

特にアイコの威勢がよく、切っても切っても伸びる上に、かいた脇芽を土に挿すと、勝手に根づいて、株が増える。そして、どの株にも際限なく黄色い小さな花がつき、もれなく結実する。緑色の実がふくらんで、適度な大きさになると、成長が止まり、今度はゆっくりと色を変える。

八月に異常な長雨と低温の時期があったので、その間は熟すペースが鈍って、実が割れたりもしたけれど、それでも一個も採れないという日はなかった。最初は、買ったきゅうりと和えて朝食にしていたのが、じきにその必要もなくなり、朝はまず、ズッキーニの点検(雄花と雌花が同時に咲いていれば人工交配をする)と、トマトの収穫を済ませて、そのトマトで食事をつくり、日によってはさらに、食べきれない分をトマトソースや、ラタトゥイユや、セミドライトマトにした。

トマトを植えた場所は、わたしが住む前は畑地として耕されていて、しかも長いこと何も植えられていなかった。それがよい条件となったのだろうか。いくらトマトは痩せた土地でも育つとはいえ、追肥もやらないのに、何か月も延々と伸びつづけ、実りつづけるのは、生命力というより、品種改良技術の粋を見るようで、育てた野菜を食べられるうれしさと同時に、ちょっと怖ろしいような気もした。

アイコは、サカタのタネが二〇〇四年に発売した品種で、「病気に強くて、果実の割れも少なく、実つきがよい」のが特徴。完熟させてから採れば、驚くほど糖度が高い。無論、F1品種だ。育てやすく、失敗しにくく、食味がよいよう、開発を重ねて生まれたヒット商品であり、しかも、わたしは発芽させる労も執らずに、ひとにつくってもらった苗を買って植えつけただけ。これほどのお膳立てがあるのだから、自然の力はすごい、などと、あまり短絡しないほうがいい。

 たとえば、創刊当時はまるで想定されていなかっただろうけれども、『BRUTUS』のような都市生活者の男性に向けた雑誌まで、最近は「農業」を取りあげる。九月十五日号の特集「みんなの農業。」には、家庭菜園初心者のためのレポートや道具指南があったり、ファッションデザイナーや俳優や美容師の営むスタイリッシュな畑の紹介があったりする。次から次へ登場する洒落た農家/農業愛好家たちが、格好悪さをなによりも嫌う読者の不安を払拭し、はじめての野菜づくりに導く。在来種・固有種の自家採種に取り組む有機野菜市経営者のインタビュー記事などは、読み応えがある。

他方、ロボットだけが働きリモートで管理する農地や、土のない植物工場といったものを、未来の農業としてポジティヴに語る記事も、挟まれている。「目配り」のつもりに違いないけれど、せっかく在来種の種子保存をめぐる問題に触れても、それと並べて、植物を土壌や太陽と切り離すような技術を無批判に紹介しているかぎり、農そのものを肯定したことにはならないだろうに、と思わずにいられない。

植物が、大きくなり、花を咲かせ、実をつけるのを日々観察し、その実をもいで、食べる、ということには、抵抗しがたい、素朴な喜びがある。また、自分で経験してみれば、プロが収量をあげるために払う努力が想像できて、農家さんは偉い、と誰でも言いたくなる。けれども、そこで思考を止めてしまうと、日本の農業が抱えるたくさんの問題には、気づかないままに終わる。

種子法廃止、種苗法改定をはじめ、近年、これまで以上に農家の首を絞める(そして、農家のつくる食料に頼る誰もの首を絞める)農業政策が進められているのを放置しながら、自分でつくる野菜は最高、農家の苦労も少しはわかった、などと語るのは、空しい。農業をやろう、と本当に読者に呼びかけるつもりなら、軽薄であることを諦めて、倫理的な視点に支えられた企画を立てるほかないだろう。

肩肘張らず、自然に読者を巻きこむかたちで、そうした視点を提供するグラビア雑誌のあり方を、マガジンハウスはすでに、旧『ku:nel』で、ある程度、実現していたように思う。その方向性をテキストの面で支えていた編集者・文筆家の鈴木るみこは、二〇一八年に早世したけれど、いま、農業ことはじめ、といった特集を彼女が担当するとしたら、どんな誌面をつくるだろうか。自分で育てる楽しさが伝わるエッセイ風の記事と、農家の現実が垣間見える取材記事を並べることで、しみじみおいしい、という表現の、しみじみ、のところに、うっすらと苦い影が差す、そんな文章を書きそうな気がする。

市民団体「OKシードプロジェクト」の伝える情報によると、この秋、ゲノム編集トマトの販売を開始した企業が、今後、障害児介護福祉施設と小学校に、苗を無償配布する計画を立てているという。子どもたちは、自分で世話をした苗が成長すれば愛着を抱くだろうし、できたトマトはとりわけおいしく感じるだろう。遺伝子の一部を破壊した、安全性の定かでない農産物が、自分で育てて食べる単純な喜びを利用して、広められていく。

なにが本当に、農業のためになり、生きもののためになるのか。収穫の喜びが抗いがたいものであるからこそ、それを取り巻くシステムに目を懲らし、農に近づいたつもりで、知らないうちに、農を圧しつぶす流れに荷担することのないようにしたい。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版) 他。