©️Kasama Naoko

 日暮れどきに西武秩父駅へ帰ってきて、天井の梁に巣をかけたツバメの雛の鳴く駅舎を出ると、翳ってきた青空を背景に、目の詰まった入道雲が、武甲山を取り巻いて四方へ大きく広がっている。あまりの暑さに今朝は駅まで車で来たから、駐めてある駐車場のほうへ抜けると、さらに空が広々と視界を占めて、右斜め上に、三日月が出ていた。

 自宅で仕事をする日も、よく空を見る。二階にある仕事部屋の窓ぎわに置いた机は奥行きが狭く、外の景色はすぐそこに見える。窓の前は下りの急坂で、下りきったところに公園と道路と家並みがあり、その背後、一キロほど先に、荒川の対岸沿いの斜面が緑の帯をなす。帯の上に、大きな空がある。

 西向きの窓で、午後になると直射日光が入ってくるため、カーテンを閉じて仕事を進め、夕日が対岸の段丘に隠れたら、カーテンを開ける。すると空は、薄い青だったり、ピンクだったり、オレンジだったりして、そこへ季節と天気に応じて、いろいろな雲がかかっている。刷いたようなのや、鱗状に並んでいるのや、もくもくと分厚いのや、それらの組み合わせが、空の色に変化をつけて、その空の色も、雲のかたちも、刻々と変わっていくのを、しばらく眺める。

 当たり前のことを書いているだろうか。東京都心にいたって空は見えるし、なにしろ、勤務先の定位置は、高台にそびえるビルの十三階なのだから、空が大きく見えることに変わりはないはずだ。けれども、眼下に延々とつづく建築群の果てにある空は、遠い。なんとなく、色味が鮮やかさに欠けるのは、空気の濁りも関係しているのだろう。

 秩父にいるときは、晴れの日のたびに、眩しい、複雑な色とかたちが、目の近くに迫ってくる。そして、絶えず姿を変える。目が離せない。

 雲の浮かぶ夕空を撮った写真を見ていて、そういえば、しばらく前に、雲の出てくる詩をたくさん読んだな、と思った。

 思い出してみると、それは一篇の詩ではなく、草野心平が、宮沢賢治の『春と修羅』に現れる雲をひたすら書き写した文章だった。本連載でも以前少し言及している(「「春と修羅」に於ける雲」/本連載第十一回「野ばら、川岸、青空」)。発表は一九三九年、賢治の死から六年。心平が、賢治全集の編纂に取り組んでいた時期にあたる。

 賢治の詩の特性を表す一例として「雲」が挙げられるから、とにかく『春と修羅』第一輯から第四輯にかけて、雲が出てくる箇所を並列する、と宣言すると、心平は本当に、作品ごとの行空けもせず、どんどん並べていく。

×氷河が海にはいるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
×向ふの縮れた亜鉛の雲へ
×雲はたよりないカルボン酸
×雲には白いとこも黒いとこもあつて
みんなぎらぎら湧いてゐる
×雲はみんなむしられて
青そらは巨きな網の目になつた
×白い輝雲のあちこちが切れて
あの永久の海蒼がのぞきでてゐる
×すなはち雲がだんだんあをい虚空に融けて
たうとういまは
ころころまるめられパラフン製の団子になつて
ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ
×雲はみんなリチウムの紅い焔をあげる
×(もしもし 牧師さん
あの馳せ出した雲をごらんなさい
まるで天の競馬のサラアブレッドです)
×それにあんまり雲がひかるので
たのしく激しいめまぐるしさ

 この調子で、百八十九例、筑摩書房版『草野心平全集』二十二ページ分にわたる抜き書きがつづく。元の文脈から切り離された多種多様な雲は、心平の述べるとおり「それぞれ新鮮な容姿をもってつぎからつぎと大蒼穹を流れて行」き、これはこれでひとつの長編詩のように見えてくる。「遠い近い雲のシムフォニー、その陰惨な、まぶしい、ガラス青のあかるみやかげりの中に、もうしばらく自分は立っていたい」。

 このころの心平が書いた一連の賢治論は、哀悼の思いと、まだ語り方が定まらない、しかし明らかに突出して特異なひとつの世界をどう語るか、遺稿を読み全集を編む作業を通じ、遺された文字をすべて触りつくすようにしながら考えていったのがわかるもので、いまなお、読み応えがある。

 愛読し、同人誌にも誘ったが、結局書簡での交流に終わり、会ったことはなかったのを、死の報せを聞いて花巻の実家に駆けつけ、大量の遺稿を家族に見せてもらった。そこには、自分宛の、書きかけのまま出されなかった葉書も、十枚ほどあった。高村光太郎、横光利一の尽力もあって最初の全集発行の話が決まり、遺族から送られた「束というよりは丘といいたい量」の原稿を、その質の高さに驚愕しながら夢中で読み進めていく(「宮沢賢治全集由来」)。

 生前に会えなかったことで、生身の面影に惑わされず、書かれたものだけからなる賢治像を構築できたのは、かえってよかったのかもしれない、とまで言っては、言いすぎかもしれないけれど、七歳年上の詩人仲間の書いた、ひとつひとつ異なる百八十九の雲が流れていくのを、全部書き写すことで、ただただ眺めつづける、そのような草野心平の思い入れがあってこそ、今日の宮沢賢治受容が準備されたことは、間違いない。

 草野心平自身は、どれほど雲を詩に書いているのだろう。高校生のころ、わたしは心平の詩が好きだった。当時読んだ新潮文庫の豊島与志雄編『草野心平詩集』を引っぱり出す。

 代表的な八つの主題ごとにまとめた構成となっていて、冒頭がまさに「天」なのだけれど、あらためて読んでみると、この「天」は、なにか万物の根源といった、超越的、観念的な性格が強くて、日々刻々と姿を変える日常の空とは違うようだ。雲が出てきても、想念としての雲、という感じで、あまり動く気配がない。さらに読んでいくと、「海」も、「富士山」も、「天」と似た傾向で、しかも「富士山」は明瞭に、日本の象徴として讃えられている。

 わたしの記憶していた草野心平と違って、戸惑う。わたしは「蛙」の詩ばかりを読んでいた。小さい蛙が、他愛のないことを喋ったり、深遠なようなそうでもないようなことをつぶやいたり、人間の子どもに潰されて死んだりする。そこでは、雲は動く。

みづはぬるみ。みづはひかり。あちこちの細長い藻はかすかに揺れる。ゼラチンの紐はそれぞれ黒い瞳を点じ親蛙たちは姿をみせない。流れるともなくみづは流れ。かはづらを。ああ雲がうごく。
(「たまごたちのゐる風景」以下、漢字は新字に変更)

 雲が動いて見えるのは、空が抽象的な幻影ではなく、基本的に蛙の目に映じた景色として書かれているからではないかと思う。

ばつぷく。ばつぷく。
ばつぷくどんの両目に海の碧(みどり)と雲とが映る。
(「ばつぷくどん」)

 気になって、岩波文庫の入沢康夫編『草野心平詩集』を通読してみる。こちらは編年体の構成で、『第百階級』(1928)と『富士山』(1943)は全篇、その他の詩集は抄録。時代による作風の流れが掴みやすい。

 豊島与志雄は、心平は同じいくつかの主題を生涯にわたって追ったので、時代による区分はできない、だから主題別に構成した、と書いているが、時代による変化は、はっきりあると思う。ひたすら蛙を書いた第一詩集『第百階級』から、日本による傀儡政権、汪兆銘政権の宣伝部顧問として戦中を過ごした南京で発表した、国粋主義の言葉遣いが見え隠れする『富士山』へ。入沢は、同時期に書かれた戦争協力詩についても言及している。不思議はない。

 では、戦後に再度、作風の反転があるのかというと、そうでもない。『第百階級』の系列にあたる「小さいもの」(蛙、日常会話、身辺雑記)と、『富士山』の系列にあたる「大きいもの」(富士山、天、砂漠や海)が、そのまま併存していく。したがって、この点については、豊島の言うとおりで、主題群は時代にかかわらず、どれも生涯にわたり扱われる、ということになる。

 戦後に書かれる「大きいもの」は、無論、国粋主義的ではもはやないのだが、超越性への志向は強い。戦中に培ったものを、清算せずに、意味をずらして発展させているようにも、わたしには見えて、落ち着かない。けれども、こちらの系列が、「宇宙的」と称され、この詩人のなによりの特徴と見なされるようだ。入沢もその線に沿って収録作を選定している。実際、分量やインパクトからすればそうなのだろう。しかし、壮大な作品群に囲まれて、蛙は居心地が悪いのではないか。わたしは、小さいもののほうに興味がある。

 『草野心平全集』で、晩年の作品をめくってみると、たとえば、『植物も動物』(1976)には、畑や庭仕事の具体的なしぐさを綴った詩があり、翌年の『原音』には、むしろ最近では詩よりも読まれているのかもしれない彼の食べものをめぐる随筆(『口福無限』『酒味酒菜』)に直結する、日々の食事を書いた詩がある。飼っていた犬や鶏や鯉の詩もある。

 心平の二面性のうち、こちらの側にある作品を集めれば、蛙たちも気が休まるのではないだろろうか。そこでは、雲は、神の視点に擬さない、詩人そのひとの目に映る雲だから、気張らず、ゆるゆると動いていく。

庭を廻っているうちに。
朴の木も銀ドロも白樺の枝枝も。
ヒメナナカマドの朱い実ももう乾き。
見上げると。
白い綿雲の群団が南の方に移動してゐる。
太陽光にまぶしく光るその群団。
(「庭を廻る」)

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、C・F・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)他。