©️Kasama Naoko

 東京の知り合いに、秩父に引っ越したわけを訊かれる。そうですね、土と緑があって空気はきれいだし、どこも空間が広々しているし、秩父は町としても面白いし、通勤もしやすいし……と説明するのだが、時々、決してうなずいてくれないひとがいる。でも、通勤が長くて疲れるでしょう? でも、不便でしょう? でも、虫がいるでしょう? と、ほとんどこちらが答え終わらないうちから、問い返しというよりは拒否の材料を次々と繰り出して、わたしがなにを言おうと、負け惜しみとしてしか耳に入らないようなのだ。そして、なぜか、憐れむような目を向けてくる。

 習慣や好みや生活上の優先順位が違うのは当然のことなので、こちらの話した要素を受けとって考えてみた上で、違う選択をする、というのであればわかるが、憐れまれねばならない謂われはない。ただ、こうして謂われもなく上から見おろすようなものの言い方をされる感覚、否定されるために説明させられる徒労感には、覚えがある。

 たとえば、文学史が男性中心主義的だとか言われて、再評価すべきだという女性作家の本を読んでみたけど、結局つまらないじゃない? と、本人としては対等な議論のつもりで、男性研究者から話しかけられるときの感じ。同じとは言わないけれど、疲れ方が似ている。

 最近、差別の心理と社会的公正教育を専門とする出口真紀子が、社会におけるマジョリティーの特権に関して解説するウェブ上の対談記事を読んで、おや、と思った(https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/674/)。日本社会に暮らす人びとに向けて、自分の特権を自覚するため、人種、性自認などの項目について、自分がマジョリティーとマイノリティーのどちらに相当するかをチェックするシートが示されるのだが、日本人かそうでないか、男性か女性か、ヘテロセクシュアルかそれ以外か、高学歴か低学歴か、といった、予想される選択肢の一番最後に、大都市圏在住か地方在住か、を選ぶ欄があった。

 出口氏監訳のダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』(上智大学出版、2017)を確認してみると、社会的抑圧の例を挙げた表には、やはり人種、性、階級などにまつわる対立項が見られるけれども、大都市圏か地方か、という項目はない。代わりに、ウェブ記事にはなかった宗教に関する項目がある。

 おそらく、出口氏は日本社会に合わせたチェックリストを整える上で、宗教は重要度の低いものとして外し、代わりに「都会」に住む者から「田舎」に住む者への抑圧が広く見られると認識して、この項目を加えたのではないだろうか。あるいは、彼女一人の工夫というよりも、この分野で共有されつつある認識なのかもしれない。いずれにせよ、卓見だと思う。

 わたしが通っていた東京西郊の私立女子高校は、多摩方面や埼玉から通学する生徒も多く、彼女たちは、家が「田舎」であることをからかわれるのが常で、ときにはあれこれのチェーン店があるといったことをもって「田舎じゃないもん」と抗弁し、ときには自ら「たぬきが出た」など、わが町の「田舎」ぶりを披露して笑いを取った。羽村や福生の子がいたなかに、思い返すと、最寄り駅は御花畑、と言って、なにそれ、そんな駅があるの、と笑われていた子もいた。あの子は、秩父から通っていたのだ。

 大都市圏に生まれ育った層は、各種の差別にかなり敏感なほうであっても、自分が言葉の端々で地方住民を見下していることには気づかない場合が多いようだ。他方、地方から大都市圏へ移動した者の一部には、それを成功と見なし、ことさらに地方在住者を蔑む傾向がある。また、地方在住者のなかに、大都市圏在住者に対して卑屈な態度を見せる者が少なくないのも、大都市優位の価値観を内面化しているためだろう。

 わたしの場合は、ごく単純に、「田舎者」と馬鹿にされる理不尽さを母親からさんざん聞かされて育ったから、この問題を意識せざるをえなかった。母は宮崎の片田舎から東京の大学に進学し、東京出身の父と結婚したので、姑との関係も絡んで、恨みは深かった。

 それに、母は母で、自分の父親、つまりわたしの祖父から、田舎の出だからといって即座に侮蔑の対象になるのはおかしい、という意見をよく聞かされていたようだ。農家出身で、県内の材木商の婿養子になったものの、うまくいかず、一人で東京に出て建築設計に携わっていた文学好きの祖父は、長塚節の『土』を愛読していた。自分の育った環境に近い、貧しい農家の世界を描いて、名作の地位を得たこの小説が、一種の支えになっていたらしい。

 宮崎に残った祖母は、そんな話はしなかったけれど、出身地域からすればきわめて珍しいことに、戦前に東京の女学校を出ているから、在学当時に不愉快な目に遭った可能性は高い。家を継いだ母の姉も、また弟妹も、姉の子どもたちも、宮崎から東京に進学し、一部はそのまま東京暮らしなので、都会と田舎のあいだの軋みをよく知る者の多い一家だった(祖母には、女こそ生きるために学をつけておくべきだという信念があって、娘三人をふくむ五人の子ども全員を都会の大学に行かせたのだが、その信念は、林業も夫も当てにならない状況で、茶園経営のかたわら裁判所の調停委員として六法全書を片手に生計を立てた彼女自身の経験に裏打ちされていた)。

 環境問題への関心や、通信技術の発達にともなう働き方の変化もあって、地方移住や若い世代の就農は、一世代前までに比べれば、ずいぶん前向きに捉える者が増えたが、それでも、なかなか一定以上の規模にふくらまないのは、実際的な条件だけでなく、やはり、連綿とつづく大都市優位・地方蔑視も影響しているように感じられる。無論、それは学歴や階級といった、ほかの抑圧項目とも連動する。大都市圏居住をマジョリティー特権として名指すところから見えてくるものは、案外多いのではないだろうか。

 地方から上京した明治大正の作家たちについて、加藤周一が『日本文学史序説』で厳しい見方をしていた記憶があり、ひさしぶりに開いてみる。

 いわゆる(フランスの自然主義とはあまりに違う)「自然主義」小説家の一群は、いずれも地方の旧家ないし没落士族の家に生まれ、それぞれの家族・地域から脱出するかたちで東京に出てきた。郷里から切り離された彼らは、疎外された個人であることへの反応として、一方では自己同定の根拠を内面に求め、他方では家族に代わる集団への参加を求める。両方の欲求に応えるのが、まずキリスト教、ついで文壇であり、後者において探求された小説論が、西洋の小説および「自然」概念の歪んだ解釈も相俟って、小説家の経験をそのまま記録するのをよしとする方向へと向かった——加藤の議論を雑駁に要約すれば、概ねこういうことになるだろうか。初読の折は辛辣すぎるように見えたけれども、いったん同時代のフランスの小説に親しんだ上で読み返せば、異論はない。

 加藤は言う。これらの「自然主義」小説家がありのままに記録しようとする経験には、二種類あり、ひとつは都会での日常生活、もうひとつは結局のところ断ち切れはしない故郷の生活だった。そこから、後者を掘り下げた結果、個人史を脱し、郷里を舞台とした壮大な歴史小説『夜明け前』を書くにいたった島崎藤村のような特異な例も出てくる、と。

 たしかに、こうした作家たちが、上京前の、あるいは帰省の折の体験をもとに書いた作品に目を向けるなら、日本近代小説は、地方の風景に事欠かない。ただ、上京した彼らにとって、故郷が基本的に過去の自分に結びつくものである以上、描かれる土地は、どうしても後ろ向きの色を帯びざるをえないのではないか、という気がする。因習のうずまく場として呪うにしても、歴史的思想的な意味づけをあたえるにしても。

 批評する者の現在が都市にあるかぎり、都市優位は変わらない。もちろん、そうやって書かれた傑作も多々あるけれど、でも、わたしはいま、地方を対象化するよりも、都市を離れて地方に戻り、地方生活の現在に生身で参画していく、そのような視点でつくられた作品に触れたい、と思う。

 まず思い浮かぶのは、南木佳士の『阿弥陀堂だより』(1995)だ。

 舞台は、信州の寒村。作家として鳴かず飛ばずのまま四十歳を過ぎた実質主夫の上田孝夫は、医師で流産をきっかけに鬱病を患った妻の美智子とともに、孝夫の故郷に戻る。美智子はリハビリを兼ねて村の診療所に勤め、孝夫は子どものころから慣れ親しんだ農作業を再開し、美智子を見守りつつ、家事をこなす。二人が時折のぼる山の上の阿弥陀堂には、長年きわめて質素な一人暮らしをしながら村の仏様を守る、堂守のおうめ婆さんがいる。時によっては、そこに難病で声を失った若い女性、小百合ちゃんも来る。文才のある彼女は、おうめ婆さんの含蓄あふれる語りをコラムにして、村の広報誌に連載しているのだ。

 孝夫と美智子の出会いから移住まで、集落での日常、おうめ婆さんとの交流、小百合の病気の再発、美智子による治療、と話は緩やかに進んでいくのだが、ここに流れるのは、まず、孝夫が昔のように体を動かし、土や草木と取り組み、さらにそのようにして生ききった祖母を思い返して覚える安心感だ。旧知の村人やおうめ婆さんも、孝夫には懐かしいが、ただし、よそからこうした土地を眺める者が邪推しがちな閉鎖性はない。この地域に縁のなかった美智子も、美しい景色に、そして、おうめ婆さんと小百合ちゃんという、それぞれに真摯に生きる、世代の違う女性たちに心を開いていく。

 南木佳士は、自らの医師の仕事と鬱病の経験とを、繰り返し書いてきた作家だが、本作では、医師にして鬱病患者の自分を美智子に、そして作家の自分を孝夫に振り分ける。この設定が活きる。孝夫は優秀な妻の収入で生活していることに多少の引け目を感じてはいるものの、無闇に萎縮したりはせず、素直な喜びとともに鍬をふるい、料理をつくる。そもそも、彼の根本にあるつましい農家の生活は、男女ともに同じ労働を力いっぱいやるものだし、大抵は女のほうが発言権をもつのであって、男が偉ぶる理由は最初からない。

 かつての農村にあった精神のもちようが、古いものとして切り捨てられず、かといって束縛として作用することもなく、むしろ中産階級の因習を飛び越えて、老若男女が同等にいたわりあう実直な暮らしへの道筋を示す。さりげない、しかし貴重な作品だと思う。

 『阿弥陀堂だより』と重なるテーマを、より明確な社会変革の意識をもって展開した音楽作品が、台湾にある。交工楽隊のアルバム『菊花夜行軍』(2001)だ。

 交工楽隊は、ボーカル、月琴、ギター担当の林生祥、歌詞担当の鍾永豊を中心に、高雄市美濃のダム建設反対運動を契機に結成された客家系のバンドで、社会運動の一環として、地域住民と協力しつつ、まず『我等就来唱山歌』(1999)を、次いで『菊花夜行軍』をつくりあげた。二〇〇三年には解散したが、林生祥はその後、日本のギタリスト大竹研、ベーシスト早川徹らとともに生祥楽隊として旺盛な活動をつづけ、鍾永豊も、単なる歌詞担当というよりは、文学・思想的な骨組みを設える存在として、生祥楽隊の作品制作に継続的に関わっている。

 『菊花夜行軍』は、いわゆるコンセプト・アルバムで、ダム建設反対運動の仲間、阿成の半生をなぞるものだ。阿成は、農家を継ぐことを一度は諦めて、都市部で経営者を目指したが、経済不況で資産を失い、美濃に戻った。未来の見えない就農に親は反対したものの、菊花栽培を軌道に乗せ、東南アジアへの結婚斡旋旅行で阿芬と出会って、結ばれ、阿芬は子どもを産んだ。

 こう書けば、いかにも平凡な人生だが、だからこそ、交工楽隊にとって、阿成の生き方はひとつのモデルとなった。林生祥もまた、農家に生まれ、いったん故郷を離れて台北近郊で音楽活動をおこなっていたが、ダム建設反対運動に参加するため、美濃に戻った。すでに農業で身を立て、かつ運動を積極的に率いる阿成は、生祥同様、運動をきっかけに帰郷し、農的な暮らしへ立ち返ろうとしていた仲間たちに慕われたようだ。

 アルバムは全十曲からなり、洗練されたフォーク・ロックに、月琴、チャルメラ、堂鼓などの伝統楽器、そして伝統歌謡の発声が入った林生祥の歌唱を基調とする。

 プロローグにあたる一曲目「県道184」は、故郷へ通じる道路について、ギターと朗読で語ったもの。つづく「風神125」は、かつて百姓になるなと諭した母に心中で詫びながら、125ccのオートバイで帰郷する青年の気持ちを、メランコリックに歌う。ここまでは、都会での成功の夢破れての帰還、という側面が目立つけれども、このあと、帰郷の意味合いは変化していく。

 農家は食えないし、結婚もできない、という両親の心配を押し切って、阿成が就農を決意したところで、アルバムの中心となる六曲目「菊花夜行軍」がはじまる。月の夜、夜間照明に照らされた菊の花が動き出し、号令に応えて花色ごとに隊列を組み、市場へ行進していく、という幻想的な曲だ。本物のトラクターのエンジン始動音がマーチの開始を告げ、勇ましい菊花の斉唱は美濃の子どもたちが担当する。

 さらに、阿成は妻を求めて東南アジアへの旅立ちを決心するのだが、わたしがこのアルバムでもっとも感動するのは、終盤で視点が阿成から外国出身の妻に移ることだ。八曲目の「阿芬擐人」は、女性がおなかの子に対し、わたしはここに根をもたないけれど、あなたがわたしのおなかを蹴ると、わたしは土に植えられて根と茎を伸ばす一粒の落花生になるかのよう、と語りかける詞だ。そして、曲の途中で、ボーカルは林生祥から、地元の女性に移り、彼女は、口がしわだらけなら豆腐を食べなさい、口が平べったいなら麺線を食べなさい……と、童謡のような呪文のような、不思議な歌を歌う。

 中国語の能力も、台湾/客家文化の素養もないわたしには、理解できていないことも多いのだけれど、ここで女の素朴な声が、豆腐、麺線、肉団子、豚モツと、地味で滋養に満ちた普通の食べ物を歌に乗せることの大切さは、わかる。外国人の妻が、こうしたものを日々食べて、土地に馴染んでいく姿が仄見える。

 そして九曲目の「日久他郷是故郷(外籍新娘識字班之歌)」。十曲目は楽器のみによるエピローグなので、歌詞のある曲としてはこれがアルバムの締めくくりになるのだが、この曲では、美濃の中国語識字教室に通う東南アジア各地から来た妻たち自身が、歌を担当する。解説によれば、当初は外国人妻がメディアで叩かれる風潮もあったなか、一九九五年に社会学者の夏暁鵑と美濃愛郷協進会が協力して、彼女たちのための識字教室を開設したという。曲は、前半はベトナム女性の独唱、後半は合唱で、故郷は遠いけれど、この教室の仲間同士で助け合おう、長い時が経てばいずれ異郷は故郷になる、と歌う。

 こうして、地元出身者から外国出身者へ、男性から女性へ、歌手から地域の生活者へと、バトンが渡される。

 二〇一七年、生祥楽隊による、このアルバムの発売十五周年記念コンサートを聴きに、わたしは台北に行った。途中、飛び入りゲストとして、識字教室の歌を歌った女性たちが、それぞれの故郷の鮮やかな衣装をまとって登場した。中国語がわからないわたしは、笑顔の彼女たちがマイクを向けられてなにを話しているのか聞き取れないのが悔しかったけれど、その色とりどりの晴れ着だけでも、眩しかった。

 衣装の多彩さは、出自の多様さが率直に受け入れられていること、同化の強要がなされないことを表す。胎児が腹を蹴る、ここの食べものを食べる、言葉を学んで話す、時間が経つのを待つ。ひとつひとつの具体的な体の動きを経て、彼女たちは異郷の者でありつづけると同時に、この土地の者になっていく。

 翻ってみれば、地元に生まれ育った彼女たちの夫も、結局、血というよりは、日々の農作業や家事労働を通じて、土地に根をおろすのであって、その点では妻たちと変わらない。ここにもまた、戻った先の地方で、風通しのよい共同体の土壌を耕す、飾らない人びとがいる。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房) 他。