©️Kasama Naoko

 小さいころから、家の絵をよく描いた。赤い切妻屋根に白い壁、戸の両脇に十字の桟のついた窓、というのが基本形で、野原のなかにぽつんとあり、うねった細い道が玄関先までつづく。この図像がどこから来ているのかはわからない。最初から線画として思い浮かべているから、きっと複数の絵本やアニメーションの記憶が合成されているのだろう。

 六歳から十歳まで通ったチューリッヒのインターナショナルスクールの図書室に、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』があった──と、書くのは、日本語の世界ではこの邦題で親しまれていることを、のちに知ったからで、当時は、The Little Houseと認識していた。図書室で自分がこの絵本のページを繰る感じを覚えているくらいだから、よほど印象深い一冊だったのだと思う。周囲の開発が進み環境が悪化するのを静かに悲しむ、小さな田舎家。屋根や壁の色は違うけれど、記憶のなかにある一軒家の図像の、主要な出どころのひとつに違いない。

 帰国から二年後に入った西葛西の中学校で、美術の時間にベニヤ板を糸鋸で切って箱をつくる課題が出たとき、四角い木箱を想定した材料なのに、切妻屋根の家のかたちをした道具入れを設計した。壁が引き出しになっていて、窓辺のプランターを模した把手をつまんで引く。そして、天辺を蝶番で留めた屋根の片方を持ちあげれば、屋根裏部屋にあたる部分にも物をしまうことができる。当然、割り当てられた授業時間内には仕上げられず、放課後に居残った。

 この道具入れは、ずっと押し入れに保管してあったが、秩父へ越した際に出して、いまは枕許の薬箱として使っている。屋根裏部屋の部分に、ちょうど体温計が収まるので、朝、体温を測らねばならないときは、起きてすぐに、赤い屋根を開ける。

 フランス留学から戻り、本をめぐるエッセイをはじめて書いたときも、家がテーマのひとつとなった。河野多惠子と富岡多惠子の共著『嵐ヶ丘ふたり旅』にある、イギリス旅行中に富岡がなくした家のかたちのティーポット保温用キャップの話から、スイスの作家ラミュの描いた、山の家を守る小人についての物語、さらにジャン・ポーラン『人生おそるべきことばかり』に語られる、煙草と家をめぐる小咄へ。ものをなくすことについて書こうとしていたら、いつの間にか、どの挿話にも家の幻が浮かんでいた。

 わたし自身は、一戸建てに住んだことは、ほぼなかった。幼稚園のころに暮らした越谷の社宅は、独立した一戸建てというよりは長屋のようなところだったし(17「荒川遡行」)、その後も、隣家と壁を共有するテラスハウス、公団の分譲マンション、地主の自宅を兼ねる小さな賃貸マンションなど、種類は多様ながら、つねに集合住宅の住人だった。

 東京都区部を離れようと思い立った理由は、さまざまあるけれど、実は、そうしたすべての理屈の手前に、いつからか自分のなかにずっとあった、草のなかの一軒家のイメージが、その方向へ歩むよう、わたしを促していたのかもしれない。

 秩父の家は、屋根は赤くもなければ切妻でもないけれど、白い壁の洋風建築で、土の地面に囲まれている。外構を設える際、玄関先まで車をつけられるようにはせず、少し離れた位置に駐車場を設けた。鍛鉄作家のNさんにつくってもらったムカゴつきナガイモの意匠の小さな門扉の先は、二人並んで歩くのにいい幅、と建築家のGさんに教わった、百三十センチ幅の真砂土の通路が、曲線を描きつつ玄関まで導く。

 出かけて、家へ帰ってくると、原っぱのなか、土を踏み固めた風合いの細い通路の先に、白い家が建っている。懐かしく感じるのは、ただ自宅に戻ってきたから、というだけではなく、目の前に見える家が、ここに住む前から親しんできた家のかたちに、多少とも似ているからでもあるのだと思う。

 東京から離れた地域に一戸建てを探すにあたり、洋風の家を条件にしたのは、実際的なレベルでは、本を収めやすいから、という理由が大きかった(13「金木犀」)。

 今日、本と呼ばれるもののほとんどは、ヨーロッパの製本技術を基につくられている。無論、日本の出版文化が独自に発展させた要素もあるけれど、基本は輸入技術であって、そのようにしてつくられた書籍を、背を見せるよう立てて書架に並べる収納法は、書架の重量に耐える硬い床と、書架を取りつける壁の存在が前提となる。

 本の形式と、家の形式は、対応している。畳と障子と襖で構成された日本家屋は、和綴じの本を平らに積むのには合うけれど、洋式の本を縦にしまう書架の置き場所がない。床の間をつぶしても、置ける冊数はかぎられる。予算を惜しまず大幅な改修を施し、和洋のスタイルを融合したモダニズム建築風の空間にするなら別だが、わたしには、現実的ではない。木造であれ、鉄筋コンクリートであれ、硬い床と壁のある、洋風を基調とする建築を選ぶほうが、明らかに都合がよい。

 ただし、今日、日本で建てられる洋風を模した一般的な住宅建築は、障子の名残なのか、外壁に窓をつけられるだけつけることが多いようで、その分、書架を設置できる壁の面積は狭くなる。

 書斎として使っている部屋の壁の一面に本棚を取りつけたのは、二〇二〇年の春だった。この時期に外構の工事が進んだのだが(04「工事の日々」)、家の内部も変化した。四月になったのに授業もはじまらず、異常事態の緊張感で机に向かっての仕事に集中できないため、いっそのこと手を動かそうと決めて、それまで時間が取れず後回しにしていた日曜大工に類する仕事を一覧に書き出し、順に片づけたのだ。

 この家も、戸外に面した壁には、すべて窓がついていて、書斎に本棚を置く場所がなくなりつつあった。そこで、北側の壁に二枚並んだ窓をつぶして、全面を書架にしようと考えたが、窓の塞ぎ方に不安があったので、ここでもやはり、建築家のGさんに問い合わせた。板でも貼ったほうがいいのかどうか訊いてみると、一番の問題は窓ガラスと雨戸のあいだの空気が冷やされて結露し、木材が傷むことで、板など貼れば湿気が溜まってますますよくない、それよりもガラスと雨戸のあいだに断熱材をなるべく隙間のないよう詰めるのがいいと思う、との助言を得たので、ホームセンターでパネル状の断熱材を買ってきて、言われたとおり、ガラスと雨戸のあいだに挟んだ。

 書架については、実用品と割り切って、とにかく高さは天井近くまで、左右はほぼ壁の端から端まで設置できるものを、通信販売で注文した。八十センチ幅の通常の書棚六台と、その上へ載せる小型のもの六台を組み立てるのに、二日ほどかかっただろうか。順を追って、ネジを留めたり、背板を嵌めたりしていれば、着実にかたちが出来てくる。

 本を入れてみて、そういえば、ずっと昔から、壁一面の本棚がほしかったのだ、と思い出した。

 十二月に訳書が刊行されて間もなく、Tさんから封書が届いた。Tさんは、英語から日本語への文芸翻訳を手がける翻訳家だが、わたしにとっては、小学校からの友人の母親であり、そして、なによりも、わたしがはじめてじかに接した、本であふれる自分の書斎をもつ女性だった。

 大手新聞社に勤めながら、大量の翻訳の仕事をこなしていた。それがどれほど大変なことか、わたしにはよくわかっていなかったけれど、小学校高学年から中学、高校にかけて、ときに彼女の書斎にある壁一面の本棚から本を借りた。北杜夫の「どくとるマンボウ」シリーズは、ここで借りて読んだはずだ。彼女はまた、わたしの誕生日に、ポール・ギャリコ『ジェニイ』の文庫本や、各行の冒頭一文字を拾うとわたしの名前になるアクロスティックの自作詩を贈ってくれたりもした。

 なにしろ忙しいひとなので、そう長い時間話したわけでもないのだが、こんなふうに本に埋もれて仕事する女性が、現実に傍にいたことが、わたしにとって大きな意味をもったことは間違いない。『水牛通信』のメンバーだったから、書き手の世界とつながるひとでもあった。

 彼女の書斎を見て憧れた、壁を埋めつくす本棚と、その前から絵に描いていた、野原の一軒家。これらふたつの幻影は、いつのまにか、わたしのなかで、重なっていた。住みはじめた秩父のこの家で、外構を整える工事と平行して、書架を組み立て、書物を配架したとき、家と、本棚と、本からなる三重の入れ子が、かちっと嵌ったかのごとく、なにかが完成する感覚があった。

 Tさんの書斎に出入りしていたころ十代半ばだったわたしは、いま、五十歳になった。翻訳の仕事をするようになってからは、訳書が出ると、Tさんに送り、Tさんは丁寧に読んで、ときどき感想を送ってくれる。今回の訳書は中国が舞台で、満州も登場するので、満州生まれのTさんは、ことのほか喜んだようだ。

 手紙の最後に、八十四歳になって振り返ると、五十代と六十代が心身ともに一番元気でした、とあった。このころは長い翻訳もできた、と。つまり、ちょうどわたしが彼女の書斎を眺めていたころ、彼女の仕事盛りの時期が、はじまりかけていたわけだ。

 晩年の大原富枝も、どこかで、六十代は働き盛りだと書いていた。

 閉経という転機が関わる以上、この実感は、女性に言ってもらうのでなければ意味がない。元気を大切にね、と記された筆跡を、白い家で、本に囲まれて、何度か読み返した。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。