©️Kasama Naoko

  今年はどの花も咲くのが早い。バラも早かった。二年前に植えて以来、ぐんぐん成長して、いまや大株になったバタースコッチ(本連載第二十回)が、今年は二百を優に超えるつぼみをつけ、もう四月末から咲き出した。大ぶりな一番花が次々とほころぶなか、暇を見つけては、アブラムシを捕り、萎れた花を摘む。摘みとった花を一箇所に重ねていくと、たちまち花弁の小山ができる。

 レベッカ・ソルニットは『オーウェルの薔薇』(2021/川端康雄・ハーン小路恭子訳、岩波書店、2022)で、、バラという花の特権性の一因を、その花弁に見る。肉厚ではないのにハリがあり、子どもの頬のように柔らかいのにしなやかで、へたらない。すぐに茶色くなるようなこともない。花柄摘みをしていると、その手触りの心地よさが指から伝わって、身に沁みる。きれいなまま積みあげて、枯らすしかない花弁が、惜しい気がしてくる。

 そう思っていたら、友人のYさんから、祭りに花を使わせてくれないだろうか、と声がかかった。市内からやや離れた集落にある山寺で、恒例の花祭りがあり、花御堂を飾ったり石段へ撒いたりするのに使う花を、普段は寺の庭や近所で調達するのが、今年は目当ての花がおおかた終わってしまって、困っているのだという。釈迦の誕生を祝う灌仏会は通常、四月八日だが、秩父地域では、雛祭りや七夕と同じく、旧暦に合わせて、ひと月遅れでおこなうらしい。

 願ってもない花の使い途に、二つ返事で承知して、当日の手伝いにも加わらせてもらうことになった。早朝に摘んだ花を携えて、寺に着くと、住職一家や、三々五々集まってくる地区の老若男女とともに、近隣でさらに花を集め、充分に集まったら、本堂の傍、木陰の広場に作業用の卓と腰掛けを並べて、形の整った花は飾りつけ用に茎だけ落とし、残りは散華用の花弁にばらしていく。

 バラ、ツツジ、芍薬、オオデマリ、菜の花、マーガレット、ヤマボウシ、ナツロウバイ。いつもは花御堂の四隅に垂らすフジが、すっかり終わっているので、ニセアカシアを代わりに使う。木々に囲まれた作業場に花の匂いが満ちるなか、二十人もいただろうか、みんなで大量の花びらをむしる。時々、花のなかから青虫やクモが出てきては歓声があがり、子どもたちは見たくて飛んでいく。

 子どもが主役の祭りであって、花御堂を飾りつけるのも、いよいよ本番となって山門から本堂へ誕生仏と花御堂をかつぎあげ、花弁を振りまくのも、子どもたちだ。殊勝につとめを果たしたかと思うと、地面に散った花びらの投げ合いに我を忘れたり、甘茶をもらいに集まってきたり、ぱっと全員どこかへ消えたりする。記念写真のために山門の前へ集合したときは、ふと見ると、路傍のサクランボのたくさんなった木に何人も取りついて、高いところのを採ろうと奮闘していた。すごく甘いんだよ、桃みたい、と教えてくれる。

 バラを育てたことから、花祭りの場に立ち会うことができたわけだけれど、本来はあくまで地元の子どもたちのためにある内輪の行事を体験させてもらえてうれしかったのは、咲いては枯れるばかりの花を役立てられたから、というだけではなく、こうした子どもの行事が秩父にあることを、以前から、うっすらと知って、惹かれていたためでもあった。

 床一面の赤い花と、子どもの寝顔を撮した写真が、記憶に残っていた。『秩父から 南良和作品集』(日本経済評論社、1989)所収の「おこもり」だ。夜の室内を撮った写真だが、縦長の画面の下半分、部屋の手前側の床にあたる部分は、しおれかけた赤い花に埋めつくされている。よく見ると白い色も混じる花々は、全体にくったりとして、なんの花か見分けがつかず、波立つ血の海のようにも見える。他方、画面の上半分、部屋の奥のほうでは、花の海と地続きのように敷かれたござの上で、数人の子どもが、布団から半分はみ出して熟睡している。ござと花の境目には、左右にそれぞれ、小さな祠のような御堂と、賽銭箱。なぜこんな光景が現れうるのか、にわかにはわからない、異様な迫力のある一枚だ。

 南による巻末の解説を読むと、これは吉田・塚越に二百年つづく花祭りの一場面で、この祭りは子どもたちがすべてを取りしきる。まず、四、五日かけて、氏神である熊野神社の床を埋めるほどの花を摘む。祭りの前日、男の子たちは「おこもり」と称して花とともに一夜を過ごし、翌早朝、四百メートル離れた米山薬師へ、花を撒きながら、花御堂と誕生仏をかかえていく、という。わたしが別の寺で実見した花祭りの、これが古い姿なのだろう。

 子どもたちだけの手で進められる秩父地域の行事は、ほかにもある。小川町で食堂を営むOさんが教えてくれた、小鹿野町役場秘書企画課編『ふるさとの味を訪ねて』(小鹿野町、1993)は、小鹿野の山村の食文化にまつわるエッセイと、そこに言及される料理を現代向きにアレンジしたレシピとを収めた本だが、このなかに、河原沢の「おひなげえ(お雛粥)」のことが載っていた。

 やはり旧暦に合わせて四月に祝う桃の節句の日、この付近の耕地に住む子どもは、食器や米を持参して河原に集まり、自分たちだけで煮炊きをし、飲み食いして、一日を過ごす。そのために子どもたちは、三月中盤から河原へ通って、宴の場を囲う石積みと、かまどづくりにいそしむ。大人は決して手を出さない。

 どんな意味のある風習なのか、はっきりしないようなのだけど、読んだとき、ふわっと体が浮きあがるような感じがした。結界を区切るところから自分たちで築いた世界で、大人の指図を受けずに試行錯誤しながら、ままごとでない本物の食事を野外でつくり、食べながら遊ぶ、その日の子どもの興奮を、体が想像して、浮遊感を覚えたのだと思う。

 塚越の花祭りも、河原沢のお雛粥も、今日、なおつづいている。前者は県指定、後者は国指定の無形民俗文化財となって、それぞれに保存会があり、子どもが減ったために他の地区からの応援を受け入れたり、対象地区を広げたりと、継続のために骨を折っているようだ。準備作業や煮炊きを完全に子どもにまかせるようなことは、いまはない。

 それでも、こうした数多くの小さな祭りが、「観光資源」ではなく、地域の暮らしの節目として引き継がれることの意義は、代え難い。大人による「お膳立て」がどうあれ、子どもたちは、野外に寄り集まる場があれば、一方で大人の真似をしつつ、他方で大人に真似できない子どもの身ぶりで、くっついたり離れたり、興味を覚えた目標へ飛んでいったりする。そうやって遊びながら、子どもたちの世界をつくっていく。

 一昨年に閉店した本郷三丁目の大学堂書店は、小さいながら人文書、文学から新書、紙ものまでそろって、わたしにとっては覗くたびに楽しい、長く親しんだ古書店だった。いつだったか、ある日、加古里子『日本伝承のあそび読本』(福音館書店、1967)を見かけて、買った。ビニールカバーのかかった新書版で、「花・草・木のあそび」「紙のあそび」「工作あそび」「あやとり」といったジャンル別に、ごく基本的な遊びが百種ほど、著者の絵による図解つきで、ときには写真も添えて、紹介される。

 ツメクサの花輪、ささぶね、紙でっぽう、ハンカチのネズミ、指もぎの手品、くもった窓ガラスにこぶしと指で描く足跡、絵かきうた。まったく忘れていたけれど、言われてみれば、やったことがある、というものが、驚くほど多い。

 大人が読む、あるいは読んだ上で子どもに教える、といったつくりの本だが、各々の遊戯のやり方を説明する簡潔で正確な記述の底に、面白いから知りたい、楽しいからやりたいという、遊びへ向かう子どもの姿勢に同調する著者の思いが強く響く。たぶん、そのせいで、日本に伝わる遊びを今後とも継承していきましょう、という表向きの主題よりも、遊戯自体の快楽が先に立つ一冊となっている。

 そのことを象徴するのが、末尾を飾る「おとうさんの胸の音」だろう。文字どおり、お父さんの胸に耳をくっつけて、心臓の音を聴いてみよう、というだけのことで、着物姿の父親と、膝に抱かれて父のほうを振り向く女の子の写真が付されている。この父娘が、実は加古自身とその娘であることを、つい最近読んだ『だるまちゃんの思い出 遊びの四季 ふるさとの伝承遊戯考』(文春文庫、2021/初版1975)の図版によって、わたしは知ったのだが、それはともかく、初読時、この結末には不意をつかれた。

 父が子の頭部を胸に抱くしぐさは、世界の広い範囲に共有されるものだろうし、その際に子どもが親の心臓の音に気づくのも、特定の文化圏にかぎったことではないのだから、その点では「日本伝承の」という括りから逸脱しているのだけれど、もちろん、この項目の主眼はそこではなく、大人の体もまた、子どもにとっては、タンポポや紙ひこうきと連続性をもつ「あそび」の素材なのだ、というところにある。遊びと名づけてはいなくても、振り返ってみれば、心音に気づいて驚いたり、耳を押し当てる位置を変えて音量や振動の変化を面白がったりする、あれはたしかに、遊びの一種だった。

 ただし、相手は必ずしも「おとうさん」でなくてもいい。誰かしら近しい大人がいればできる遊びであることを、戦中に育ち、さらにセツルメント活動に身を投じて、さまざまな境遇の子どもを見てきた加古は、おそらく意識した上で、この項目を巻末に置いたに違いない。

 こうして、偶然手に取った本書を通じて、最晩年の集大成『伝承遊び考』全四巻(小峰書店、2006-2008)へとつながる、遊びの記録者としての加古里子を、わたしは知ったのだった。

 上記の『だるまちゃんの思い出 遊びの四季 ふるさとの伝承遊戯考』は、福井県の武生で少年時代を過ごした加古自身の遊びの思い出と、各地での伝承遊戯の調査とを踏まえたエッセイだ。ここで彼は、子どもたちがいかに、大人と関係なく、ときには大人に抗して、自分たちだけの世界を構築していく存在であるかということに、繰り返し注意を促す。

 わたしが花祭りに参加して眺めたり、お雛粥について読んで想像したりした、子どもならではの身ぶりを、加古はそれらの文章のなかで、実に明快な言葉で示す。たとえば、子どもが相撲のような遊びを好むのは「生物本来の闘争本能」によるのだといったことを言い出す教育者や研究者に対し、そういう考えは子どもにとっては困るのだ、と反論する。なぜか。

子ども達は何のことはない、手をからませたり、体をすりよせて、ごろごろするから面白いのである。猫の子じゃあるまいしといわれる方があるかもしれないが、猫や犬の子とおなじように、肌をよせ、体温をぬくもりを互いに接しあっていることが、子ども達にとってとても楽しいことなのである。(「すもうごっこすもう遊び」)

 なにか面白そうなものを見つけたときに、わっと集まっては押し合いへし合いする子どもたちの動きは、たしかに、この接触自体の喜びがあずかっているのだと考えれば、しっくりくる。

 加古はさらに展開して、いわゆる戦争ごっこも、子どもたち自身にとっては、こうした体のぶつかり合いの延長線上にあるものとしておこなわれるのだ、と述べる。したがって、戦争の真似をするとはけしからん、と子どもを批判するのも、戦争に資する闘争心を養っておおいにけっこう、と子どもを賞賛するのも、遊びと戦争とを混同している点で、大きな問題がある。

 著者は言う。そもそも戦争とは、「経済的利益組織とその権力者」が、自国民を他国民に敵対させ、前線の兵士には闘争心を強要して、殺戮と略奪と支配を目論むものである以上、遊びと同一視できるわけはない。攻撃するなら、戦争ごっこをする子どもではなく、戦争をする大人に矛先を向けるべきだろう。子どもたちは、大人たちのあいだに広く出回る言葉を採用するのが常だから、戦中は自分たちのじゃれ合いを戦争ごっこと名づけ、「天皇陛下バ……」と言いかけて死ぬ真似をしていた。けれども同時に、出征する兵士たちの、一向に勇ましくない「さびしい顔のつらなり」を、「馬さえさびしい長い顔をしていた」ことを見てとり、それらの顔の意味するところを、あやまたず理解してもいたのだ(「兵隊ごっこ戦争ごっこ」)。

 言い換えるなら、子どもの遊びは、大人のつくった現実の鏡であるとともに、その現実に対する批評としても読まれうる、ということになるだろう。子どもの数の足りない山村の祭りもまた、わたしたちが、この半世紀、なにをしてきたのかを告げている。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。