©️Kasama Naoko

 五月の夜、仕事から帰ると、郵便受けに種入りの封筒の束が投函されていた。農家で竹細工作家のSさんだ。ホーリーバジルの種ができたら分けてほしいと、昨夏のうちに頼んでいた。届いたのは、ホーリーバジルのほか、ルッコラ、イタリアンパセリ、ディルの種。それぞれ自家採種したものが、たっぷり納めてある。蒔き時だからと、ついでに分けてくれたのだ。

 Sさんが去年採種したホーリーバジルは、その前の年にわたしが種をあげた。その後、わたしのほうで採種しそびれたので、今年もらったわけだ。一昨年まで育てていたものは、元々、だれに種をもらったのだったか。秩父に来たころからお世話になっているYさんだと思うけれど。何年も経つと、種の出どころはぼんやりしてくる。

 折を見て、土を整え、Sさんにもらった種を植えたところ、ルッコラは二日ほどで芽を出して、たちまち食べられる大きさになった。イタリアンパセリは、ゆっくりと生長している。封筒にまだたくさん種が残っているから、服飾デザイナーのIさんに連絡してみると、欲しいというので、次に会うときにもっていく。Iさんからは以前、フェンネルの種と、ブルーマロウの苗をもらい、ブルーマロウは去年よく咲いた。こぼれ種から、この春たくさん芽が出たので、二、三本、Yさんにあげた。

 植物のやりとりは、知り合いが相手とはかぎらない。去年は、見事なサルビア・ガラニチカを育てる床屋に声をかけて、奥さんから株をもらった(21「サルビア・ガラニチカ」)。別の日、散歩中に、まだ春も浅いのにツツジらしき花が鮮やかに咲きほこる庭の前を通りかかったので、手入れをしている女性に品種を教えてもらい、ミツバツツジというその花の名所が近くにあることも教わり、さらに庭木のことをいろいろ話すうちに、もしツバキの苗がほしければ、実生がたくさん出て困っているから差しあげますよ、と言ってくれた。逆に、わたしが自宅の庭で作業している最中に、花を見に入ってきた初対面の相手から、このノイバラを挿し木で増やしたいので枝をくれないかと、頼まれたりもする。

 いろんなひとと、いろんな種や球根や苗や株や挿し穂を、あげたり、もらったりした話は、いくら話しても、尽きることがない。植物を育てるひとは、大抵、そうなのではないか。

 植物そのもののもつ性質が、こうした関係を引き起こす。なぜなら、条件が整ったとき、植物は、際限なく枝や茎が伸びたり、無闇に株が増えたり、無数の種をつけたり、無数の芽を出したりするからだ。間引き、摘心、剪定、収穫。植物の世話はつねに、減らす作業とともにある。

 手持ちの空間に納まりきらないほど増殖したものを手放すのだから、遠慮でも社交辞令でもなく、文字どおり、もらってくれればありがたい。これは等価交換と異なるのはもちろんだが、財産をあえて譲りあうことで互いに負荷をかけ、社会の紐帯を保証するような贈与のイメージとも、少しずれる気がする(06「ふきのとう」)。理論上は贈与の一種なのかもしれないが、より緩く、軽く、不定形に拡散されていく感じ。ないところにはないが、あるところにはあふれている、となれば、求めたり、あたえたりするのに、悪びれる必要もない。世間話とともに、草木は手から手へと渡っていく。

 レベッカ・ソルニットは『オーウェルの薔薇』(2021/川端康雄・ハーン小路恭子訳、岩波書店、2022)で、歴史的に上流階級の文化として発達してきた庭園の政治性を論じる。管理された区域で自然を模倣する企てが、本来あった自然の収奪と同時に進められる、というこの見立ては、広い土地の所有を前提とする議論で、イギリスの田園に住まう貴族や地主層が対象だから、日本なら公家・武家屋敷や寺社の庭園が相当するのだろう。

 そうした豪奢な庭園から、猫の額ほどの民家の植栽まで、庭の規模や形態は幅広いが、ただ、土いじりは、土地所有者だけのものではない。園芸を楽しむ人びと、と聞いて、わたしがまず思い浮かべるのは、むしろ日本の都市部における、土地をほとんどもたない庶民の手になる路地園芸だ。彼らの営みが、株を分けあう関係の上に成り立っていることは、たとえば、いとうせいこう・柳生真吾『プランツ・ウォーク 東京道草ガイド』(講談社、2011)の記述が示している。

 本書は、著者二人が都内各所で植物を見て歩きながらおこなった対談の記録だが、十二箇所の散策地のうち、押上、根津、羽田の三箇所は、主に路地園芸の実況中継となっている。さまざまな草木の鉢で玄関先を埋めつくしたり、歩道の植えこみに勝手に花を足したりといった、市井の人びとの闊達な園芸活動を、ときに住民に声をかけながらリポートしていく。トロ函とポリバケツが植木鉢の代替品として常用され、栽培種としては押上ではアロエとクンシラン、羽田ではビワとイチジクが目立つなど、地域差もふくめて路地園芸の具体的な様態が言語化された、愉快かつ貴重なドキュメントだ。

 とりわけ園芸愛好家の多い押上の路上で、二人は「やっぱりこの辺の人たちはみんな花を交換し合ってるんだろうね」「そうだね、どこに行っても同じものがあるもんね」と確認しあう。そのあと出会った花屋に、地域住民が「自分で増やして人にあげて」いるのではないか、と柳生が確かめると、花屋は肯定するばかりか、「うちにもくれます」と言うので、全員が笑い、いとうは「成り立たないじゃないか、商売が!」と返す。

 増えた植物を隣近所へ無償で配布しあう関係性は、まさしく、商売とは次元を異にするもので、であればこそ、下町の路地園芸は、散財することなく継続できる、つつましい娯楽となる。安売りに出ていた萎れかけの鉢も、食べた果物の種から芽吹いた苗も、だれかからもらってくれと言われて引きとった株も、面倒見がよければ、手許で大きくなり、ものによっては毎年、美しい花や果実を生む。

 大袈裟なのはわかっているけれど、芽や花や実を次々と出現させ、際限なく伸びていく植物の姿を眺めていると、打ち出の小槌か、話すたびに口から真珠やダイヤモンドやバラの花がこぼれるペロー童話「仙女たち」の女の子を見るような、不思議な気持ちにつつまれずにはいられない(『完訳 ペロー童話集』新倉朗子訳、岩波文庫、1982)。宝物は無限にある、という気がしてくる。

手許にある植物の株を、声をかけあって、分ける。散った株が、それぞれの場所に根づいて、そこからまた、散る。この感じから、思い浮かんだのは、植物の本ではなくて、小野和子の『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMP QUAKES、2019)だった。

 一九六九年以来、宮城県とその周辺の村々での民話採訪をつづけてきた著者が、八十歳になったのを機に手製本を制作した。「『民話』の足もとで見え隠れしたものを記し」たという、その本の増補版である本書は、著者の言葉どおり、いわゆる民話集ではなく、民話の「足もと」、つまり、民話を語り語られる関係が生まれる現場を、さらに言えば、現場に立つ相手と自分の心身の動きを、丹念に見つめたものだ。

 村で出会った見知らぬお年寄りに、子どものころ聞いて覚えている昔話があれば聞かせてくださいと、単刀直入に尋ねる方法を、ずっと著者は取ってきた。当たり障りのない話で相手の心を開かせて、いつの間にか喋らせる、といった搦め手は、できないし、したくない。

 突然の申し出だから、当然、拒絶される場合が多いのだが、物好きだねえ、暇だねえと呆れられて、それでも、なにかしらの話をしてくれることがある。いわゆる各地に伝わる昔話ではなく、自分の思い出話だったり、笑い話だったりする。そういった話を、民話ではないと切り捨てず、著者は大事に聞く。むしろ、ここにこそ「民話の芽」がある、と言う。

 そのうちのいくつかが、本書に書き起こされている。たとえば著者が「気と木」と名づけた話は、お茶飲みに集まったおばあさん四人への、昔話を請う著者の問いかけに、働きづめでそんな話はしたこともされたこともない、あるのは苦労話だけだと口々に答えたあと、一人が話してくれた体験談だ。

 四十歳になるかならぬかのころ、天気のよい日に、夫婦で炭焼きの準備をしていた。穴を掘ったなかに木を組みあげて火をつける「伏焼(ふせや)き」という方法で、非常にきつい作業を、一日中、二人きりで進める。自分が次々と木を「ゴテ(亭主)」に渡し、ゴテはそれを組んでいく。すると「ぽかぽか陽気でしゃ、ゴテのやつ、その気になっちまったんだねえ」。そこで「おい、気、あっかぁ」と、穴のなかから亭主は叫ぶ。こちらは「木」のことだと思って、「ああ、まだ、あるある」と木を渡しつづける。何度言っても伝わらないのに業を煮やした亭主は、とうとう「そっちの木でねぇ。こっちの気だ」と、「褌、べらりはずして見せた」。それでやっとわかった。大笑いして、話は終わる。

 「んでぇ、やったのか、真っ昼間によう」 みんなは語ったおばあさんを囃し立てた。 「やらいでか」 語った人も顔を紅潮させて、若やいだ声で答える。 ああ、これは立派な民話だ。これこそ民話ではないか。わたしは感激した。炭焼きの労働のつらさを語る中からこの話は誕生した。若い者にしかできないつらい労働の日々を、夫婦の蜜月の時間に置きかえてしまうたくましい力、これが民話の根底を支えているのではないかと思った。胸が熱くなった。(27-28ページ)

 不意に顔を出した艶笑譚から、著者は目を背けない。「昔のひと(あるいは、田舎のひと)はおおらかだ」などと言ってごまかしたりもしない。代わりに、話の素地となる労働のつらさ、その労働を耐えられるものに変換すべく交わされる民話──文字どおり、民の話の、根源的な役割に思いを馳せる。

 実は、このとき集った四人のおばあさんのうち、賑やかに笑い喋るのは三人で、一人は、ただじっとしていた。ほかの三人が「この人は苦労がひどかったから、もう口きかなくなった」、「石みだぐなってしまった」と教えてくれる。もはや苦労話すら受けつけないほどの辛苦の上澄みとして、民話の世界があることを知らされ、著者は慄然とするのだ。

 この姿勢は、本書に通底する。民話は、家族みんなが温かく和やかに暮らす、ある程度裕福な家庭で育まれ、親世代から子へ、孫へと語り伝えられるものだ、という、専門家のあいだの通説を、著者は疑問に付す。実際、著者が出会った語り手たちは、そのような立場にない者が多い。

 上記のお茶飲みで四人が集まった家の主であるおばあさんは、著者が泊まった宿の主人によれば「四十くらいの時、狐に化(ひ)かされて、以来、あまり人と付き合わなく」なり、「山裾の一軒家で一人暮らしをして」きた(23ページ)。別の村の、ヤチヨさんという女性は、貧しい小作農の家に生まれ、七歳から年季奉公に出て、子守をしながら、村はずれに一人で住む「おばあ」のところで昔話を聞き覚えた。

 飼った動物への哀惜を著者に語る二人のおばあさんも、それぞれ労働に明け暮れた人生を送っている。犬のカロとともに農作業に勤しんだかのさんも、九歳で入った奉公先で馬のクロカゲを託されたはるさんも、生活がきついからこそ、仕事の相棒でもある動物に情を寄せ、出会いから別れまでの成りゆきを、切々と著者に語った。作為をもって物語にしたのではなく、自分のなかで反芻するうちに、ひとつづきの物語になってしまった、そういう語りだ。

 他方、規夫さんという男性は、大地主の跡取り息子で、祖母からたくさんの昔話を聞かされて育ったが、あまりに大事に扱われて、農作業も山遊びもいっさい許されず、共同体の生活から切り離されたまま、家庭をもち、年老いた。複数の世代が同居する富裕な家という点では、民話の語り手が育つ典型的な環境とされるものに合致するが、はたして、彼の生き方は、温かく和やか、と呼べるかどうか。子にも孫にも語らず、身のうちにしまいこんでいた昔話を受けとってくれる聞き手の登場を規夫さんは喜び、著者の訪問を待ちわびるのだが、地域社会の中心にいながら疎外され「異端」として生きざるをえなかった彼が漂わせる「一種の寂しさ」に、著者は目を向ける。そして、民話を話すときの語り口に滲む「皮肉っぽい軽妙な味」の面白さが、彼の寂寞と地続きであることを見抜く。

 経済状況であれ、家庭環境であれ、その他どのような背景によるものであれ──いや、突き詰めれば、背景はあまり関係なく、もっと普遍的なものなのかもしれない──苦しさ、寂しさをかかえた人間に、小野和子は引き寄せられるようだ。そのような土壌があってこそ、ひとは語る。

民話といえば、「むかしむかし」と語り出される「笠地蔵」や「猿蟹合戦」や「花咲か爺」を思い起こす人が多いだろう。現にこのわたしだってそうだった。そして、陽だまりの縁側で綿入れの胴着を着た年寄りが、孫に語って聞かせているのどかな風景を思い起こす人も多いだろう。

だが、実際にわたしが歩いて聞く「話たち」は、ほとんどまとまりがなくて、なにかの断片のようなものが多かった。いや、話というよりはつぶやきのような、ため息のような、傷口のような、そんなものばかりを、わたしは聞いてきたような気がする。(177ページ)

 伝えたいひとがいて、話は伝えられる。そして、受けとったひとの手許に残る。その話は、語るだれかにとってそうだったように、受けとるだれかにとっても、生きるつらさをしのぐ糧になるかもしれない。伝統の継承といったこととはまったく別のレベルで、こうした「話たち」は、やはり、宝物なのだと思う。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。