©️Kasama Naoko

 十代のころの自分の姿を思い返してみると、ベッドの上に両膝を立てて座り、膝に文庫本を載せ、背をまるめてページを覗きこむように読んでいるところが、頭に浮かぶ。背中や座骨のあたりが痛んでくれば、後ろへ背を倒してヘッドボードにもたれたり、片脚だけの立て膝にしたり、あぐらをかいたりする。そうやって、夜、自室で本を読んだ。

 夜が更けて、いよいよ体を起こしているのがつらくなってくると、横になる。腹ばいに寝て、両肘をついて、ヘッドボードに本を立てかける。もしくは、横向きに寝て、片肘をついて手のひらで頭を支えた涅槃像の体勢を取り、もう片方の手でページをめくる。肘が痛んできたら、仰向けに寝て、腕を上へ伸ばして本をもつが、これはすぐに腕が疲れるので長くはやらない。しばらく経つと、どう寝ても肘か腰に負担がかかるのが気になってきて、本から目を離さずにふたたび上半身を起こし、座った姿勢に戻ることもある。そのうちに、夜が明ける。

 大人の体型に近づいて、腰まわりが重くなると、支えなしに両膝を立てて座る姿勢は保ちにくくなってくる。実家の居間には、応接セットの一部として、小ぶりな揺り椅子があった。これだと、両膝を立てて座面に足の裏を載せる座り方をしても、自然に重心が最適な位置に移るので、腰に負荷がかからない。気に入っていたが、居間では落ち着かないので、いつか自分の部屋に置けたら、と思っていた。

 秩父の家に来てから、何度か中古の家具を買った隣町の古道具屋で、あるとき、修復中の品物が置かれた作業部屋に、形のいい揺り椅子を見かけた。全体に細身で、肘かけの木のなめらかな曲線に品がある。店主に聞くと、ちょうど張り替えが終わったところで、売り物だという。座面の裏側には、秋田木工株式會社のシールが貼られていた。となると、新品なら手が出せない価格のはずだ。中古でもわたしには充分、値が張ったけれど、たぶんこれ以上好ましい揺り椅子に出会うこともなさそうなので、手に入れた。

 だからいまは、集中して読みたいものがあるときは、仕事部屋の窓辺にある揺り椅子に、膝を立てて座って、読む。夜中につづきを読むときは、やはり、ベッドに寝転がって、ページを開く。

 加藤周一は『読書術』で、寝て読むことを推奨している。パリの「ある詩人」が、寝台ですることは寝るか愛するかのふたつしかない、と言ったのに対し、加藤は「読書はまさにその二つの行為に似ている」と考える。読書も睡眠も、ともに閉じた、薄暗い、静かな空間がふさわしい。また、いっとき社会から孤絶してひとりの相手との関係に入りこみ、こちらから働きかけたり、相手の策略に応じたりするのだから、読書は性愛に似ている、と。たしかに、先ほどわたしがこまごまと記した読書の姿勢は、読み直すと、寝相の話のようでもあり、体位の話のようでもある。

 この加藤の記述は、権威主義と結びつく「端座書見」の考え方を茶化す意図もふくんではいるが、無論、それだけではない。なぜ「本は寝て読むもの」なのか。彼は言う。読書は「精神の仕事」である。だから、没入すれば「寝食を忘れる」。これを推し進めるなら、いっそ身体そのものを忘れたほうが読書には都合がよいわけで、もっとも楽な姿勢を取ることは、身体を忘れることを可能にしてくれるのだ。

 寝台に横になる、深い椅子にかける、畳に座って柱にもたれる。加藤が挙げる「楽な姿勢」の例は、わたしの体が記憶しているものと、ほぼ変わらない。そして、彼の言うとおり、読むあいだ、わたしは体を忘れている。痛みによって体が存在を主張しはじめると、姿勢を変えて、ふたたび忘れられるようにする。開いた本と、本を読む目のあいだに、ちょうどいい距離が保たれることを、体のその他の部分が邪魔しないように。うまくいけば、体は消えて、わたしは本のなかにいる。

 二十代半ばまでのわたしは、読めない本が多かった。テキストからなる本は、文学作品、主に小説を読んできたが、高校二年生くらいまでは、日本語に翻訳された外国の小説を読むことができなかった。元から日本語で書かれた小説を読むのはなんの支障もないし、元から英語で書かれた小説を英語で読むことも(小学校の一部を国外のインターナショナルスクールで過ごしたため)できる。ところが、英語等から翻訳された日本語は、それらとはまったく違うもので、読もうとしても、文意がつかめない。そのころの感覚を正確に呼び起こすことは、いまのわたしにはもうできないけれど、言ってみれば、文を構成する言葉が互いに噛み合わず、切り離されたまま並べられていて、有機的な総体を成すように見えない、という感じだったと思う。四角く並んだ文字は壁に似て、なかに入る術はなかった。

 しかし、高校に入ってしばらく経つと、あるとき、ふと翻訳文が読めるようになった。学校の英語教育を通じて、英語文法を日本語文法に変換する際の決まりごとがわかってきたせいもあるかもしれない。そこで、翻訳による外国文学を読みはじめ、英語以外の言語で書かれた作品にも関心が向いていった。

 こうして、高校時代の後半からは、日本語の文学も、他の言語から日本語に訳された文学も読んでいったのだが、文学作品でないものを読むことが難しい状態は、もっとあとまでつづいた。より具体的には、言葉が現実世界の事象を直接に伝えうる透明なものと見なされている文章が読めない。いわゆる実用書はほぼ読めず、新書も大抵は無理で、言葉の不透明性に支えられているもの、日常と地続きの伝達機能とは別の価値が固有の文体に結実していると感じられるものだけが、なんとか読み通せた。無論、こんな切り捨て方は、幼さゆえでもあるのだが、大学までそれで通して、研究書を参照しない卒業論文を書いた。

 実家の六畳の自室にこもって、夜じゅう本を読んでいたわたしには、そうせざるをえない理由があった。当時は、はっきりとそのように意識していたわけではないけれど、振り返ってみて、そう思う。

 現実はいつも、なにかしら苦しい。本のなかに入ると、自分の体は消えて、自分の日常と重なる要素をもちつつも日常そのものとは異なる、一種の平行世界が体験される。だからわたしに必要なのは、没入できる本だった。現実に軸足を置いて解説する文章ではなく、現実を描写することで別の次元に移し替えるような文章。その次元に入りこみ、しばらくそこで過ごして、戻ってくることで、現実は多少、しのぎやすくなる。

 文学は役に立たない、といったことを、元より文学に縁のないひとが言うのはともかく、直接関わる立場のひとまでもが自嘲らしく口にするのは、どういうわけだろう。もしもわたしが訊かれたなら、自分には役立った、と答えるほかない。自分の心身の重荷を、どこか自分と似た別世界の住人に託すことで乗りきった、その結果として、わたしはいま、ここにいる。

  文学の言葉のもつ力に近づこうとするうちに、それが研究や翻訳の仕事となり、わたしは多様な種類の本を読むことができるようになった。それでも、ひどくこたえることがあったときは、深く潜りこめそうな本を選んで、揺り椅子かベッドに身を沈める。わたしが読む理由は、いまも根本的には変わらない。

 ひさしぶりに、志賀直哉を再読してみようと思った。中学から高校にかけて、自分の抱えるもどかしさと波長が特に合うと感じた作家だ。短篇「或る朝」は、祖母に育てられた作者自身の記憶を反映させた作品だが、祖母を自分の親に重ねれば、同じような経験は、いくらでも身に覚えがあった。

 早起きせねばならない日の前夜、祖母に早く寝るよう言われるのに、信太郎は遅くまで本を読む。翌朝、何度も起こしに来る祖母に苛立つ。もう起こしに来なければ起きようと思っているのに、また来るから、わざと起きない。とうとう起きるが、癪に障る気分が直らず、祖母につらくあたり、喧嘩になる。けれども祖母は間を置いて、わざととぼけたことを言いにくる。信太郎は笑う。次いで、急に涙が出てくる。泣くと、すっきりする。

 この展開は、わかる、というひとと、まったくわからない、というひとに、分かれるのではないかと思う。中学生のわたしは、自分のことかと思うくらい、よくわかった。癇癪もち、あまのじゃく、泣き虫、と断罪される側の内実を、こうして物語のなかで追体験できるだけで、助かった。

 志賀の作品は、短篇でも長篇でも、自分の癇の強さに振りまわされる話が多い。こうしようと自分で決めたのと違うことを急に言われたりすると、混乱して、頭に血がのぼる。あまり不用意なことを言うべきではないけれども、今日の言葉で言えば、一種の発達障害にあたるのかもしれない。目論見と違う状況に苛立ち、感情を制御できなくなったとき、そのまま行けばなにをするかわからない恐怖が、「剃刀」「児を盗む話」など、初期のいくつかの短篇を駆動させる。

 ただ、ひさびさに読み直してみて、志賀において重要なのは癇性の表現だけではなく、むしろその先だ、と感じた。中学のころにそこまで気づいていたかは、覚えていない。でも、なんとなくわかっていたような気がする。

 「或る朝」は、信太郎が癇癪を起こしたところで終わらない。祖母がさりげなく方向転換を図ってくれて、信太郎の感情の暴走は、笑いと涙をもって納まる。さらにそのあと、彼が隣の部屋へ行くと、弟妹が賑やかに遊んでおり、弟の屈託のないでんぐり返しが結末に配される。ささやかながら、ここには、和解と幸福とが書かれている。

 感情の乱れを乗り越えた先に、和解がある、という主題を、志賀は繰り返し書く。『暗夜行路』において、時任謙作の心を乱すものは、まず、出生の秘密とそれに起因する父との不和という、家族をめぐる問題だ。そのような心的圧迫に連動して現れる癇癪の発作もまた、彼を悩ませる。しかし、いずれも、彼の不幸な運命を決定づけることにはならない。

 たとえば、出生の秘密、というのは、彼が父方の祖父と母とのあいだにできた子であることを指す。本書の中盤で謙作はそのことを兄から知らされ、父が自分に対して冷たかったり、結婚の話がなぜか流れたりしてきたわけを把握する。とはいえ彼は、家族全員に誕生を呪われるような環境に生まれたわけではない。父方の祖父母(この祖父が実の父であるわけだが)は当初、父に黙ったまま、母に堕胎手術を受けさせようとした。ところが、母方の祖父が「あなたはこの上にも罪を重ねるおつもりですか」と激怒した。そこで、父に赦しを乞うて、この子を産むことになった。つまり、彼は、曲がりなりにも、彼が生まれることを肯定する者があって生まれてきたのだ。

 さらに、謙作が結婚するとき、もうひとりの老人が、彼の出生を肯定する。直子に結婚を申しこむにあたり、謙作は知人を介して、相手方の家族に自分の抱える事情を伝えてもらう。すると、直子のおじにあたる老人は「それはその人物の問題にて、却ってその為め奮発する底の人物なれば左様な事は少しも差支えなきものと信ずる」との返事をよこす。本人次第でそうした事情はよい方向に働く、と請け合うのだ。謙作は感動する。

 その後、母の郷里を訪ねて、母方の家族のことをなにも知らないことに気づいたとき、謙作は「然しそれでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ」と思う。血のしがらみを描きながら、それを断ち切って幸福に向かおうとする動きを、作者は辿っていく。

 いま、読み返して、目に留まるのは、こうした主題を扱いながら、志賀にはミソジニーの傾向があまり見られないことだ。上記の祖父と母の「不義」にしても、産むにせよ堕ろすにせよ女性にすべての責任を負わせるのが常套と思われるところ、母方の祖父は「あなたはこの上にも……」という台詞によって、舅が嫁であるわが娘を襲ったことを、双方の「間違い」ではなく舅の罪として明瞭に非難すると同時に、娘の妊娠を恥として扱うことをも拒否する。

 保留すべき部分は、もちろんある。謙作はとりわけ、癇癪が病的に亢進したとき、妻の直子に暴力をふるう。ただ、近親者たちは直子を介抱しつつ、謙作の行為を病によるものと正しく見定めて気遣うとともに、直子に対する邪険な扱いをいさめ、他方、直子は理路整然と謙作の身勝手を指摘する。謙作はいったん家を出て、尾道に借り暮らしをすることに決める。暴力は暴力としても、同時代の多くの男性作家が無自覚に披瀝する女性蔑視とは、相当に異なる態度がここにはある。

 この側面を象徴する場面が『和解』に収められている。父との長年の不和が乗り越えられる過程をつづった自伝的な物語のなかに、おそらく、近代日本男性作家の手になるものとしてはきわめて稀な、妻の出産の詳細な描写が挿入されるのだ。

 妻が真夜中に産気づく。家には看護婦ひとりしかいない。電話で産婆を呼ぶが、間に合わないかもしれない。時間からいって友人宅へ逃げるわけにもいかないので、いざ分娩となれば、自分は庭にでも出ているつもりだ。夫が立ち会わないという「昔からの習慣」には、なにか理由があるに違いない。妻は「醜い顔、醜い姿勢」を夫に見せたくないだろうし、自分もそういう顔や姿勢を見るのはいいこととは思えない。それに、妻の苦痛をじっと見ていなければいけないのもいやだ。

 ところが、産婆が来ないうちにそのときが来て、彼は看護婦に呼ばれる。

「奥さんの両方の肩をしっかり持って上げて下さい」
 自分は直ぐ枕元に坐って妻の両方の肩を大きな手でしっかりと抑えてやった。妻は両手を胸の上で堅く握り合わせて全身に力を入れている。妻は少し青白い顔を顰めて、幾つにも折ったガーゼを一方の糸切歯で、堅く堅く噛んでいる。妻の顔は不断より美しく見えた。それは或る一生懸命さを現していた。
[…]
 水が少し噴水のように一尺程上がった。同時に赤児の黒い頭が出た。直ぐ丁度塞かれた小さい流れの急に流れ出す時のようにスルスルと小さい身体全体が開かれた母親の膝と膝の間に流れ出て来た。赤児は直ぐ大きい生声を挙げた。自分は亢奮した。自分は涙が出そうな気がした。自分は看護婦の居る前もかまわず妻の青白い額に接吻した。

 「出産、それには醜いものは一つもなかった。[…]総ては美しかった」と語り手は結ぶ。出産は醜い、出産する女は醜い、という刷りこみが目の前で塗り替えられるさまを刻々と記したこの場面の素直さは、胸を打つ。

 ソルボンヌ・ヌーヴェル・パリ第三大学では、出産をめぐる人文・社会科学諸分野を横断する研究プロジェクト、「Birth(ing) Stories」を展開しており、その一環として、二〇二二年には世界の文学における出産および授乳にまつわる記述をリスト化する計画を打ち出した。無論、近代文学史における女性身体の表象が、性的対象としてのものに極端に偏っており、それ以外は隠されてきた、という事実が前提としてある。一九一七年時点で、性的な仄めかしも、おどろおどろしい脚色も、また抽象的な理想化も一切なく、ただ産む営為そのものの美しさを男性作家が描いた『和解』の叙述は、貴重な範例となるのではないだろうか。

 志賀は、一方では自らの精神の不安定さを、他方では家族関係の葛藤を、乗り越えようとする者を描いてきた。彼が志向するのは、独身者的なニヒリズムや、マチズモ的な他者の抑圧による「解放」ではなく、女性や子どもをふくむ相手とのフェアな関係性を徐々に構築することによる「和解」だ。出産の肯定は、そのひとつの現れと見なせるだろう。

 「小説の神様」という呼称が先行して、志賀直哉は、なにか古風で道徳的な、権威と結びついた作家と目されることが多いようだ。けれども、欺瞞のにおいのする「良識派」といった見方よりもずっと正当な、また今日的な意味で、彼の「倫理」を、あらためて語ることができるのではないか。

 わたしのころも、いまも、中学生に差し出される近代日本文学の「名作」は、乙女か妖婦にしか女性の価値を認めないミソジニストにあふれている。しかし、中学生のわたしは、妻を妻として描く志賀の文学に身を寄せた。彼の描く生活者たちは、懊悩や矛盾や失敗をどうしようもなく抱えながら、同時に、自分の足で、明るいほうへ歩いていこうとする。この地道な明るさへの意志を読んだ仄かな記憶が、長く離れているあいだも、わたしを見守ってくれた気がする。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。