©️Kasama Naoko

 なだらかな草の丘をのぼりきると風が吹いていた。周囲は、麦を刈りとって耕した土の薄茶や、牧草の明るい緑や、緑のなかにレンゲの花の赤みが混じった色をした四角い面が接ぎ合わされ、ごく緩やかに下っていく。下った先は、見渡すかぎりの緑の平野に、濃緑色の木立と赤褐色の屋根が点々と散り、彼方にアルプスの稜線が、うっすらと、薄青い影絵のように浮かんでいた。

 スイス、ヴォー州の州都ローザンヌから、車で二十分ほど北上したところに、カルージュという村がある。ここには、詩人ギュスターヴ・ルーが、一九〇八年、十一歳のときから、七十九歳で亡くなる一九七六年まで暮らしていた。九月初旬のある日、わたしはスイス・ロマンド文学センターのSさんの案内で、ルーが日々歩いた散策路を辿り、旧宅を訪れた。

 ルーの作品は、わたしの知るかぎり、日本語に訳されていない。けれども、後藤信幸が翻訳したフィリップ・ジャコテ『冬の光に 附 雪の下の想い』の訳者解説は、ルーの名前からはじまる。スイス出身のジャコテが詩に目覚めるもっとも大きなきっかけは、若き日のルーとの邂逅にあったからだ。

 一九四一年、十六歳のジャコテは、ルーが『刈り入れをするひとのために』でランベール賞を受賞したとき、授賞式でC・F・ラミュが話すからというので、会場へ赴いた。ラミュはこのころ、スイス・ロマンドの誰もが知る大作家になっていたが、ルーは、主に詩的散文からなる本を何冊か出版してはいたものの、一般に知られてはおらず、ジャコテにとっては未知の存在だった。

 ところがジャコテは、ラミュよりもむしろ、ルーの講演に魅入られた。

当時全く無名に等しかったルーが、初めて他者の前で語ったのは、自己の信仰告白のようなものであった。それは単に詩を語ったものではなかった。彼は田舎での散歩を語り、次のように結んだという。「一晩歩いたあと、雲雀が、おのれの歌よりさらに純粋な世界の目覚めを告げながら歌うのを聞いたことのない者は、ポエジーが何であるかを理解できないであろう」、この言葉を聞くや、それは矢のように、決定的なことのように彼[=ジャコテ]を貫き、その頃読んでいた詩人たちの読書で予感し始めていたと思われるものを表現し、明るみに出したのであった。(「解説」、ジャコテ『冬の光に 附 雪の下の想い』、後藤信幸訳、国文社、2004)

 この引用の先で後藤が述べるとおり、ルーは当時、ノヴァーリスやヘルダーリンの翻訳を進めていた。上のルーの言葉にも、ドイツ・ロマン派的な主題が見てとれる。ジャコテはルーを通じて、こうしたドイツ詩の世界へ分け入り、やがて自らも、詩作と翻訳にまたがる活動を展開していくことになる。

 ジャコテの記憶に刻まれたルーの言葉は、自らにとっての詩(ポエジー)を、ルーがどれほど鋭く意識していたかを示す。夜の散歩、夜明け、歌う鳥。彼は実際には、夜にかぎらず、朝も、昼も、夕暮れどきも、ジョラと呼ばれるこの地域の、緩い丘の連なる平原を歩き、咲いている草花や、川の流れや、麦の収穫を眺めた。ただ、一日のうちのどの時間を扱っていても、彼の文章にはいつも、夜の予感か、夜の名残が、霧のように漂う。

 夜明けのヒバリ、と彼が言うのは、夜を掻き消すことを志向しているのではなく、むしろ、闇があってこそ感知できるなにか、を指しているのだろう。夢のなかを歩くように、彼は草のなかを歩いていく。

 「ギュスターヴ・ルー 文学の小径」は、彼がもっとも頻繁に歩き、また作品で言及した自宅近辺の土地を一周する、ギュスターヴ・ルー友の会の監修になる散策路だ。同行のSさんは、文学センターの研究員であるだけでなく、ルー友の会の会長でもある。パンフレットによると、この「小径」は、全長七キロ、高低差百五十メートル、所用時間は二時間程度。近所の散歩というには、大がかりに思える。

 とはいえ、総じて健脚なスイスのひとから見れば(30「山にたたずむ」)、このくらいは構えるほどの行程でもないはずで、現に、Sさんも、帽子はかぶっていたけれど、飲み物も持たず、町を歩くのと変わらない恰好だった。ルー本人は、このコースの範囲よりもずっと遠い友人宅を、徒歩で訪ねることもあった。

 ルー旧宅からはじまるコースには、八つのスポットが設定されている。ルーと縁の深いこれらの地点は、パンフレットの地図上に示されており、各スポットの簡単な説明と、関連する彼の散文や書簡の抜粋に加え、写真家でもあった彼の撮影した当地の写真も掲載されている。作品抜粋は、スマートフォンを使えば、該当する地点で朗読を聴くことができる。スマートフォンを持たないわたしは、SさんにQRコードを読み取ってもらって、一緒に聴いた。

 この辺りの古い農家の様式で建てられたルーの家の敷地を回りこみ、牧草地と麦畑の広がる丘をのぼっていく。丘の手前で細いせせらぎを越えるとき、小さな薄桃色の花と白い実をつけた灌木が目に留まった。Sさんに尋ねると、名前は知らないけれどよく見かける木で、子どものころはこの実を踏んで遊んだと言い、ひとつもいで、踏みつぶした。はじける音がするという、それだけなんですけどね。わたしも踏んだ。ぽこっという微かな音と、感触。あとで調べて、シンフォリカルポスとわかった。

 よく晴れている。立派な牛たちが木陰で寝そべる牧草地を過ぎ、麦の刈り入れの終わった土と草とレンゲの丘をのぼりきった頂上は、ラ・クロワ(十字架)と呼び習わされる場所で、風が抜け、見晴らしがいい。眼下にカルージュの家々の赤屋根が並び、Sさんが遠くを指して、あそこはルーがよく通った集落、あちらのほうにも友だちが住んでいた、と説明してくれる。

ここで、このラ・クロワの高みで、きわだって美しい小麦が育ち、熟す、というのもこの丘の斜面は、どこも麦に適した豊かな土なのだ。そして収穫作業もまた、よそよりも美しく思われる、というのも収穫は空と同じ高さでおこなわれるから。藁を山と積んだ荷馬車の上で、刈り入れの作業をする男は、頭から水を滴らせる泳ぎの名手のごとく、この天上の海の分厚く濃い青色の中心に飛びこむ。
(『オー=ジョラ』1949)

 丘を降りて、ラ・ゴタの農地へ。ここに住んでいた青年、オリヴィエ・シェルピヨーの元を、ルーは好んで訪れた。すぐ近くには、集落の教会がある。プロテスタントの小さく簡素な教会は、白い外壁に細長い板を渡しただけのベンチがあり、ルーはよくここに腰かけてメモを取ったという。隣接する墓地に、オリヴィエが眠る。

 それにしても、こういう土地を歩くとき、秩父に越してからの七年で学んだ動植物や農林業にまつわる知識が、つくづく役に立つ。Sさんが、麦を収穫したあとの畑にレンゲを蒔くのは肥料になるからです、と言えば、緑肥のことだと、すぐにわかる。散策のあとに訪れたルーの家の庭で、洋ナシのたわわに実った木のすぐ後ろに、マルメロがなっているのを、家主が指して説明したときも、マルメロの木に接ぎ木をした洋ナシの苗で、台木のほうも育ってしまったのだなと、自然に理解できる。事象を知らなければ、言葉が聞きとれても、意味不明だろう。土に近い場所に家を持ったことと、ルーの足跡をこうして辿っていることとは、わたしにとって、連続している。

 レ・ラヴィオーの別荘地めいた瀟洒な集落を抜けて、カルージュ川のほうへ下っていく途中、草地と川沿いの森とに挟まれた秘めやかな一画に、古い穀物倉庫がある。友人との待ち合わせ場所であり、夢想の場所でもあったここを、ルーは「草原の港」と名づけた。

 ここから、森に入る。木立へ向かっているとき、遠くに小柄な鹿がいた。こちらに気づかず、たたずんでいる。かなり近づいてから、やっと身を翻して消えた。まだ経験の浅い、若い鹿だ、こちらが猟師なら仕留められている、そう話しながら、森のなかを流れるカルージュ川沿いの小径に踏みこむ。頭上が葉叢に覆われ、急に薄暗くなる。

小径は突如、枯れた葦の合間に生まれ、木立がはじまる。いつも、黄色い敷石のように、地際すれすれに鋸で伐られた木の幹があるから、腰かけて、落ち葉のなかに両手を垂らす。わたしは待つ、もう何年も前から待っている——どんな答えだったか。枯葉の金色、青、パンかスレートか麻布のような灰色の上に、新しい植物の錘が突き出ている。洋種沈丁花の茎が二本、桃色をした蝋の花をゆらめかせ、鼻孔はほぼ瞬時に、胸をむかつかせる甘いにおいに浸される。点々と、大きな円形に散った羽根。それぞれが一羽の鳥の殺されたことを示すのだが、しかし鳥たちはこれまでにないほど歌っている。
(「視点」1945)

 いまはまだ、木漏れ日に透いた緑が鮮やかだが、もうすぐ、ルーの言葉どおりに、落ち葉が積もるだろう。川辺をしばらく歩いて、森を出ると、わたしたちはもう、出発点だったルーの家のすぐ傍まで戻ってきている。

 家は、ルーと直接の縁のないひとの手に渡り、現在は家主自身が住んでいて、一般公開はしていない。ただ、家の来歴を尊重する意思を明確にしている家主だから、ルーの書斎や書架には手をつけず、関係者から見学の依頼があれば、快く応じてくれる、という。

 約束の時間には、少し早いけれど、まあ、入れてもらえるかどうか、聞いてみましょうか。そう言って、Sさんは呼び鈴を押した。

 ギュスターヴ・ルーは、近隣の農家の仕事や村の風景、身のまわりのものを撮影し、ときに雑誌に提供したり、自著に用いたりした。そのなかに、農地で働く男たちの肖像がある。スナップというよりは、ポーズと構図をしっかりと決めて撮った、端正な写真だ。一九三〇年代、重労働に鍛えられた滑らかな上半身の肌をさらして、麦藁をレーキで掻き集める男、野菜を収穫する男。抑制の利いた、きれいな画面に、情がにじむ。ほかの情報がなにもなくても、見ればわかる。

 Sさんと散策路を歩いているときも、その話になった。その話、といっても、なんの話なのかは明示せずに、お互いにわかっていることとして、話した。オリヴィエ・シェルピヨーの農場にルーが通うとき、一家のだれもに歓迎されたわけではない、オリヴィエの家族のなかにはルーを疎んじる者もいた、とSさんは言ったのだ。そこで、仕事をするわけでもなくそこにいる彼を、農家のひとたちのほうはどう思っていたのか、とわたしが訊くと、Sさんは答えた。みんな知っていたけれど、口にはしなかったと思います。知識人だから大目に見られていた、というところはあるでしょう。

 後日、文芸翻訳センターのIさんに、カルージュ行きのことを報告すると、彼女も、やはりなんの話かを言わずに、その話題を出した。自分たちとは違う世界にいる芸術家だから、変わり者として許容されていたわけだけれど、農家仲間の内部だったなら、許されなかったと思う、と。

 しかし、大目に見られる、だとか、許容される、というのは、結局、許されない、というのと、同じことではないのだろうか。そして、SさんやIさんの話しぶりは、かつて禁忌であったことが、今日、禁忌であったことを話題にできるほどの状況にはなったとしても、はみ出し者の刻印自体が消えたわけではないことを、なによりも雄弁に語っていて、わたしは胸が塞がった。

 ほぼ全生涯を過ごした場所で、その土地と人びとに、深く、素直に懐きながら、なお異端であらざるをえなかったルーの孤独な散策は、本当はむしろ、彷徨に近かったとも考えられる。彼が冗談めかして、こう解説するように。

わたしは不安定なるものの王国を横断した。通ったのは道ではなく、互いに接着された数知れぬ道の断片で、それらは空間のなかで円や螺旋を描くこともできれば、果てしない直線を描くこともできる。この瞬間の連続はわたしにとってなんら意味=方向(サンス)をもたない。後戻りをする、右へ左へ振れる、まっすぐ前へ進む——通常の旅行に方角をあたえるこうした操作のどれもが、同等の帰結を生む。午前中いっぱいかけて、わたしは二百メートルしか進まなかったのかもしれない。 (「平野の歩行をめぐる小論」1932)

 異端である彼は、家に閉じこもる代わりに彷徨い歩き、自らの憧れをもって故郷の景色に触れる。野原と畑と森からなる親しい土地を、一種の平行世界を歩くように、歩いていく。夜と、夜明けとが、同時にある、という彼の作品の印象は、こうしたこととも、関係があるだろう。

 ルーは、三十代で両親を亡くしてから、姉のマドレーヌや叔母たちと暮らした。晩年になって、姉が亡くなると、フランソワーズ・シュビリエという女性が家事を担った。ルー家の最後のひとりであるギュスターヴの死後は、シュビリエ氏が遺産相続人となり、そのまま終生この家に住んだ。

 その後、二人の相続人を介して、家は現在の家主に渡るのだが、驚いたことに、ルー自身のみならず、家を引き継いだ全員が、子どもを持たない。そして現在まで、全員が、時宜を逃すことなく、ルーの仕事を敬ってくれる相続人か購入者を生前に見極め、家と遺品を託しているのだ。

 他方、作品にかかわる権利は、ルーとの出会いから詩人になったフィリップ・ジャコテが継ぎ、二年前にジャコテが亡くなってからは、スイス・ロマンド文学センターに移っている。

 文学者の死後に、遺産を管理し、顕彰するにあたって、遺族の存在は大きい。子どももなく、社会的権力も持たない作家は、たとえ遺した仕事に無二の価値があっても、忘れ去られる傾向にあるのではないか——ちょうど近ごろ、そのようなことを考えていたわたしは、ルーの相続者たちの話を聞いたとき、なにか奇跡を前にしたような気持ちになった。

 村社会のなかで、ギュスターヴ・ルーは性的少数者ゆえに、はみ出し者として扱われた。けれども、村落共同体とはまた、はみ出し者をはみ出し者として受け容れたり、身寄りのない者の世話をなんとなく周囲の者が請け負ったり、似た境遇の者同士が同居して支え合ったり、といった関係が、血縁の有無にかかわらず、しばしば結ばれる場でもある。

 村の景色と人間に惜しみない情愛を寄せて歩きつづけたルーの、澄んだ眼差しが、村という場の、純朴な面を引き寄せるのだろうか。大事にする、という感覚と、裏のなさ。詩人の家具とともに暮らす現在の家主も、そんな目をしていた。

笠間直穂子(Naoko Kasama)

フランス語文学研究・翻訳。國學院大學文学部准教授。宮崎県串間市生れ。著書に、『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)他。訳書に、ンディアイ『心ふさがれて』(第十五回日仏翻訳文学賞)、『みんな友だち』(以上、インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、フローベール『サランボー』(抄訳。集英社文庫、ポケットマスターピース 07)、シャルル・フェルディナン・ラミュ『パストラル──ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、ジャン・フランソワ・ビレテール『北京での出会い/もうひとりのオーレリア』(みすず書房) 他。