図1 撮影:筆者

 すでに書いたように、私の「故郷」は、大阪の千里丘陵に「存在した」小さな村である。今そこを訪れる人は、道すがらに見える十軒あまりの昔の農家風の造りの家(うちの何軒かは、トタンで覆われているとはいえ萱葺き屋根を残す)とわずかに残る水田から、そこがかつて農村だったことを推し量ることはできるだろうが、東側を新御堂筋と呼ばれる幹線道路と鉄道に切り取られ、周囲に林立するマンションの谷間に沈みこむその姿から往時(都市開発前)の様子を想像することは困難だろう。

 村は旧名を摂津国嶋下郡下新田村といい、中央部に小さな川が流れ、四周を丘に囲まれて南北に細長く拡がる盆地状の土地の南端に位置していた(図1を参照)。こうした景観は日本の農村を思い浮かべようとするときに、多くの人が最初にイメージする姿に近いのではないだろうか。しかしその名から分かるように、この集落の誕生は江戸初期になされた新田開発に起因する。1605年の作成になる「摂津国絵図」にはその存在はまだ認められず、村の成立が信頼に足る文献によって確かめうるのは1626年のことのようなので、開墾が始まったのはその間、おそらくは大坂夏の陣によって豊臣氏が滅び、このあたりの土地が徳川の直轄領になった1616年以降のことと考えられている1『下新田村郷土史』春日町青年学級編、1962年(昭和37年)。図1を含め、以下村史にかかわる基本的情報は同書による。次回以降にくわしく述べるが、この郷土史が村の青年会の活動(勉強会)をベースにして編まれたことそれ自体が村史に残されるべき事件である。

 村と開発の歴史について語ろうと思うのであれば、この村そのものがこうした「開発」の産物であったことを忘れてはならないだろう。農村環境の研究者からなる農業農村工学会のウェブサイトを見ると新田については冒頭次のように書かれている。「新田開発は、近世における大規模な地域開発である。多くは耕地とともに集落が形成され、これらがセットになって列村や散村のような独特の景観がつくり出された。」つまり、日本の代表的景観のかなりの部分が近世の新田開発によって生み出されたということである。同じく同サイトの教えるところによれば、江戸時代の新田開発には三つのピークがあったという。「幕藩体制の制度的整備が確立する明暦~寛文期(1660年ごろ)、幕府財政の再建を図り改革の行われた享保期(1720年ごろ)、深刻化する幕藩体制の危機に直面し改革の行われた幕末に近い天保~安政期(1840年ごろ)」の三つである2http://www.jsidre.or.jp/tabata3-a/(2023年8月15日確認)

 留意すべきは、これらのピークでは開発が行われる地域の地理的特徴に大きな差があるという点である。分岐点は享保期にある。中学・高校の日本史で必ず習う八代将軍吉宗の指揮による享保の改革には、公事方御定書、上米の制、年貢の五公五民、定免制などのほかに、重要な政策として新田の開発が含まれていたが、吉宗は当時先進的であった紀州の土木技術、築堤技術(紀州流)を導入することによって、それまでは技術的困難から手をつけることができなかった、大河川の中流、下流域の新田開発を可能にした。大阪で言えば、淀川下流域の新田はこの時期に開かれる。他方、少なくとも1620年代にまで遡ることができる江戸時代最初期の開発といえる下新田村は、これらの新田とははっきりと異なり、湖沼、溜池、小川などから農業用水を得る型の新田である。農業が水田による稲作と同義であった時代に、丘陵地帯に開かれた農村にとって、まさしく死活問題であった水の確保は、小川をのぞけば、溜池の築造によるほかはなかった。明治20年頃の作製と推定される調書によれば、1.8平方キロ弱の村域に大小二百十数個の溜池が数えられたという。重機などなく、ほぼすべてを人力に頼るほかなかった時代にこの造池事業がどれほどの難事業であったかは容易に想像できる。ほぼ10軒の集落から出発した村は、1872年(明治5年)にいたっても、47軒、242人の人口を数えるに過ぎなかったのである。

 少年の頃を思い返せば、これらの溜池こそ村の悪童たちの絶好の遊び場であった。魚釣りのほかに、大池では泳ぐこともできたし、氷の張った日にはゴム靴でスケートのまねごとさえできた(たいした厚さでなかったにちがいない氷が割れて溺れ死ぬ子供がいなかったのは、今から思えば奇蹟である)。竹林や雑木林の中にも点在した小さな池(個人池が多い)の方は、樹陰の中で空の青を映して子供の目には神秘的にさえ見えたが、底を窺わせないその姿を見て掘削にかけた先人の苦労や、水資源の貴重さに思いをはせた記憶は一度としてない。ただ、これは後で知ったのだが、このあたりには旱魃に繰り返し苦しめられた歴史があり、そのため村の中央を流れる小川の水の分配をめぐっては下流の別の村とのあいだに深刻な争いが生じ、ついには鍬で斬られた死人まで出たと伝えられている。それがいつのことかは不明だが、事件は私の祖母の世代まで村民のあいだに伝承されていて、この下流の村との間では婚姻関係を結ばないことになっていたらしい。

 溜池についてもう一言しておけば、それは溜池が、行政単位としては吹田市への編入によってとうの昔に消滅し、伝統的共同体としてもその実体をほぼ失っている村にとって、かすかに残る村落的「共同性」の担保となっているということだろう。この共同性は「水利組合」と「部落有財産管理委員会」という組織の形をとって残存している。我が家は父の代に稲作をやめたことで水利組合を抜けた(したがって水利権をもたない)ために、直接にはその詳細を知らないが、組合員の農業用水(主に稲作用)の水源として使用する池の樋門や川の取水口の開閉、用水路の管理・清掃などは今も組合員の共同作業によってなされているはずである。そしてもし宅地開発が溜池そのものの所有権にかかわってくるような場合には、水利組合だけではなく、部落有財産管理委員会の出番となる。

 私にはこの部落有財産という概念が謎めいたものに思えたために調べてみたところ、それは実際にも所有権にかかわる近代の法体系にとって、かなり厄介なものであることが分かった。なぜなら、それは私的所有と公的所有のいずれでもない(より正確に言えば、私的所有でもあり公的所有でもある)という性格をもつからである。法律の専門的知識をもたない私が誤解している可能性はあるが、問題の根本は「入会権」「入会地」というものを法的権利としてどう位置づけるかということにあるように思われる。私の参照した文献によると3工藤庸介「ため池の所有権の変遷と背景」、「農村計画学会誌」 Vol. 38、 No. 3、 2019年12月、 pp.336-340.、部落有財産は、明治29年(1896年)制定の民法(法律第89号)によって根拠づけられる。この法律は、入会慣習が入会権として私有財産権の地位を得ることを明記した。すなわち、溜池等の財産はその地を入会地として使用していた入会集団の私有財産(入会財産)と見なされるものとし、入会集団が旧村と一致する場合の財産を「部落有財産」と定義したのである。しかし、これはこの法律に先立って制定された市制及町村制(明治21年法律1号)による、入会地の帰属主体としての「財産区」の制定(これに従えば入会地としての溜池は公有財産となる)と矛盾することになる。

 こうした矛盾が戦後、実務的、政策的にどのように処理されてきたかという問題はひとまずおくとして、興味深く思われるのは、溜池という、他村に協力を求めることも含めて、共同体の労働によって人為的に作られた「入会地」のあり方が、アクセス権や決定権、さらには事故の際の責任をも含め、これからローカル・コモンズの概念をどのように活用していくことができるかについての何らかのヒントになるのではないかということである。それが市の公園に組み込まれた一部の大池をのぞいて、汚く濁ったり、干上がったり、埋め立てられてしまったりしているかつての遊び場を前にしての私が今思うところである。

図2 撮影:筆者

付記  農業用水の確保について書いたが、千里丘陵は他方で浅層の地下水が湧き出るポイントがいくつもある。吹田市域では、垂水神社の垂水の瀧、佐井の清水などが古くから名水として知られているが、じつは私たちの農園にも湧水があり、量を測定したことはないが、一年中途絶えることはないので、雨水と合わせて貯めておけば、私たちの規模の畑の灌漑には十分な量になる。トンボなど水辺の昆虫もやってくるので楽しい。(図2の写真参照)

*1 『下新田村郷土史』春日町青年学級編、1962年(昭和37年)。図1を含め、以下村史にかかわる基本的情報は同書による。次回以降にくわしく述べるが、この郷土史が村の青年会の活動(勉強会)をベースにして編まれたことそれ自体が村史に残されるべき事件である。
*2 http://www.jsidre.or.jp/tabata3-a/(2023年8月15日確認)
*3 工藤庸介「ため池の所有権の変遷と背景」、「農村計画学会誌」 Vol. 38、 No. 3、 2019年12月、 pp.336-340.

山田広昭(Hiroaki Yamada)

フランス文学、思想。東京大学名誉教授。大阪府生れ。著書に、『現代言語論』(共著、1990年)、『三点確保─ロマン主義とナショナリズム』(2001年。以上、新曜社)『可能なるアナキズム─マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年)など。
最近の論考に、「全般経済学と純粋アナーキー原理」(『はじまりのバタイユ』所収、法政大学出版局、2023年4月)、「希望の原理としての反復強迫」(『群像』2023年2月号)、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、あるいはセイタカアワダチソウと葛の間を歩む者──「絶対小説家」大江健三郎を悼む」(『ユリイカ』2023年7月臨増 総特集=大江健三郎)などがある。
訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)他。