私が学齢に達した頃には、村の子供たちは徒歩で片道30分以上をかけて小学校に通っていた。道沿いには田圃に溜池、果樹園、雑木林に竹林と、寄り道の誘惑にはことかかなかったから、遅刻の常習犯と言えば、学校では村の子供と決まっていた(たぶんだが)。とはいえ、今回通学の話から始めるのは、魅力あふれる寄り道の話をするためではない。通学路は距離にしてせいぜい2kmあるかなしかなのだが、私たちはその途中で小さいとはいえ丘を二つ越えなければならなかった。千里丘陵は、その南端で標高20mほど、北に行くほど高くなり、国土地理院の地図で確認してみたところ、現在もっとも標高が高いのは豊中市にある島熊山から北東に延びる尾根の最高点で、133.8mとあるので、全体としておよそ標高差100mあたりに収まるのだが、丘陵は北から南に向かってなだらかに傾斜しているわけではなく、流れ出るいくつもの小川の浸食によって作られた谷が樹状に拡がっているがゆえに、内部のアップダウンはかなり激しい。
私たちの村もじつはそうした谷の一つに位置している。集落はその北端で標高32m強、南端でも26mほどのようだが、周囲を取り囲む丘は西の高いところで70m前後、やや低い東側でも60m近くはある。そのため川沿いに移動する場合をのぞいて、村から出て行こうとすれば、まずはこの丘を越えなければならない。通学先の小学校があるのもやはり谷部だったのだが、問題はそこと私たちの村とのあいだにもう一つ小さな谷があったことで、私たちは一度下ってからもう一度同じ高さを登り、そこからようやく緩やかに傾斜した道を目的地に向かってゆるゆると下っていくのだった。東に向かって下降していくこの道を中心にして、傾斜地の左右には(方位で言えば南北に)瀟洒な住宅街が拡がっていた。それが千里山住宅地であり、道を下りきった先に現れるのが、現在も同じ場所に位置する、阪急千里線の、当時は終着駅だった千里山駅である。(小学校は駅横に掘られた地下通路をくぐってまだ数百メートル先にあった。)
千里山住宅地という名前をきいても、地元やその周辺の住民でもなければ、ピンとこないというか、なにも思わない人がほとんだと思う。しかし、ここは、日本の郊外住宅地開発の歴史において、無視できない意味をもつ土地である。それは渋沢栄一が1918年に設立した「田園都市開発株式会社」が東京で開発した洗足住宅地や田園調布とならんで、イギリスのエベネザー・ハワードが1898年に『明日──真の改革に到る平和な道』で始めて提唱し1ただし一般に読まれているのは、1902年に出されたその改訂版『明日の田園都市』の方だろう。邦訳は、『新訳 明日の田園都市』山形浩生訳、鹿島出版会、2016年。、世界中の都市計画に大きな影響を与えた田園都市構想の、実態はハワードが意図していたものとかけ離れていたにせよ、日本におけるもっとも早い実現例のひとつなのである。千里山住宅地は1921年に造成工事が開始され、22年末には100戸近くの住宅が完成していて、翌年には入居が始まっている。洗足住宅地の分譲開始が1922年、田園調布のそれが1923年であることを考えれば、東西二つの事業はほぼ平行している、いな、完全に時期を同じくすると言ってもよい。
北摂、阪神間の宅地開発と言えば、阪急(阪神急行電鉄)の創業者、小林一三がパイオニアとしてあまりにもよく知られているために、千里山の開発もまた小林、つまり阪急によるものと思われているふしもあるが、実際はそうではない。大阪中心部の北端である天神橋筋や梅田から千里丘陵に電車を引っ張ってくることを企図した会社は、北大阪電気鉄道という。9名からなるこの会社の設立発起人が最初に「軽便鉄道免許申請書」を時の内閣総理大臣大隈重信宛に提出するのは、1915年(大正4年)のことで、どうやらすんなりとではなかったようだが、申請は翌1916年には許可された。この事業計画の背景には、第一次大戦開戦にともなって日本にもたらされた一時的な好況があったであろうことは想像に難くない。
北大阪電鉄(とそのダミー会社千里山土地株式会社)はすぐに用地買収に着手し、多くの土地を手に入れるが、千里山住宅地の開発そのものは、彼ら自身の手によっては行われなかった。実際の開発は、大阪商船副社長にして大阪商工会議所の会頭の地位にあった山岡順太郎(2年後には関西大学の総理事にも就任する)が当時の大阪府知事(林一蔵)と大阪市長(池上四郎)を主たる発起人に立てて1920年(大正9年)に設立した大阪住宅経営株式会社によって、つまり当時の大阪の官界、経済界を後ろ盾にした会社によってなされた。千里山住宅地が、ハワード自ら設立する第一田園都市会社の手で1903年にロンドンの北方約55kmに建設される最初の「田園都市」であるレッチワースをモデルとしていると喧伝されることになるのは、おそらくこのことに起因する。というのも、大阪住宅経営株式会社は、住宅地の設計を自社では行わず、内務省に事務局がおかれた「都市研究会」(会長後藤新平)に委嘱するからである。
内務省は早くから田園都市構想に強い関心を寄せており、レッチワース建設わずか4年後の1907年には、内務省地方局有志編として『田園都市』と題された大部の著作を公刊している2本書は、1980年に講談社学術文庫から『田園都市と日本人』というタイトルで再刊される。文庫化にあたって序と解説を寄せているのは、1950年代に全学連委員長をつとめ、60年安保闘争の主力となったブント(共産主義者同盟)の結成メンバーでもあった香山健一である。のちに保守陣営に属する学者となった彼は、この再刊の時点では、大平正芳の中心的ブレーンのひとりだった。。もっとも北大阪電鉄は、自社の土地を譲渡するにあたって大阪住宅経営の筆頭株主となっており、住宅地経営は北大阪電鉄の開業目的のひとつ(ひとつ、とあえて限定する理由は後述する)でもあったから、この委嘱が山岡のイニシアチブによるものだったかどうかの確証はない。じじつ、北大阪電気鉄道編として1922年(大正11年)に発行される『大阪の北郊と北大阪電鉄』という小冊子は、次のように住宅地開発を自社の功績として誇らしげに宣伝している。
吹田町の背後、千里山一帯の台地は恰も東京の山の手に酷似し高燥閑雅なる丘陵にして大阪を距る三里半乃至六里に過ぎず、梅、桃、柑橘の果樹園、鬱蒼たる松林、随所に点在し気候温和にして風光明媚近郊無比の住宅好適地なりとす[中略]
我社は茲に想到し大阪北郊千里山台地を卜して田園都市を建設せんとし努力すること茲に年あり。同地に於ける本社所有地を中心として吹田町の山の手一帯百有余万坪に渉り欧米先進国の実例に倣い理想的の住宅経営を試みんとし、先年其設計を都市研究会に嘱託し山田[博愛]、笠原[敏郎]、柳原(ママ)[柳澤彰]三技師の手によりて考案調査の上設計既に成り、大正九年十二月其許可を出願したり。いよいよこの設計にして実現せんか我千里山一帯の風物は面目一新ユートピヤ的一大理想郷を現出するに到らん3[ ]による補足、訂正は筆者。都市研究会と内務省は人的にもつながりがあり、名前の挙げられている三技師のひとり山田博愛は1918年(大正7年)内務大臣官房に都市計画課が新設されるとただちに土木主任技師として勤務、課長の池田宏、建築主任技師だった笠原敏郎とともに、翌1919年に成立する都市計画法(この法律は1968年に同名の新しい法律によって置き換えられるまでその命脈を保つ)と市街地建築物法の立案に尽力している。(Cf. 松井達夫「山田博愛」、『都市計画』(日本都市計画学会)144号、1987年、p.71.)。
この小冊子はさらに、「英国レッチウオース田園都市之図」を掲げて、田園都市がその住民の健康にどれほど資するかを次のように述べる。
当今最も整備せる英国レッチウオース田園都市の発表する所に因れば一九〇七年の統計は死亡率千に対する一三弱幼児生産率同四五、殊に注目すべきは結核死亡率一万に対し五人の低率にあり又リバープール市の近郊ポートサイライス(ママ)職工町の発表に因れば死亡率千に付八.九、生産率四五.六 而してバーミンガムの近郊ボルンビル田園都市にては死亡率千に付七.三、生産率七二.五にして孰れも都市居住者に比し好成績と言わざるべからず4田園都市会社の主要資本主であった石鹸会社リーヴァー・ブラザーズのWilliam Leverとチョコレート会社キャドバリーのGeorge Cadburyの二人は、前者はリバプール近郊にポートサンライトPort Sunlightを、後者はバーミンガム南西部にボーンヴィルBournvilleを、自社の従業員とその家族のための田園都市として建設している。(Cf. 『田園都市と日本人』前掲書、p. 50.)
日本で田園都市をうたった宅地開発が、ハワードの構想、すなわち「都市と農村の結婚」をスローガンとし、職住接近と住民自治による自律的な町作りによって、都市の環境汚染問題と労働者の劣悪な居住環境の改善を計ろうとした構想とは異なり、結局は中産階級向けの、電車通勤を前提とする郊外高級住宅地の建設でしかなかったことはつとに指摘されていることだが、田園都市の理念それ自体は、第二次大戦後も日本の政治家や政策立案に携わる官僚や学者の関心を引き続けてきたように見える。戦後最初のリバイバルは、大平正芳首相時代に作られた政策研究会(リードしたのは、大平のブレーンだった香山健一、佐藤誠三郎、公文俊平といった学者たちである)による報告書「田園都市国家構想」(1980)である5この辺のことは、佐藤光『よみがえる田園都市国家——大平正芳、E・ハワード、柳田国男の構想』、ちくま新書、2023年に詳しい。。そしてその最新版が、岸田政権のもとで閣議決定された、内閣官房「デジタル田園都市国家構想総合戦略」(2022)ということになる。
すでに多くの研究が積み重ねられている田園都市の理論と実際について、ハワードに対する(というよりも、計画的に設計された都市そのものへの)ジェイン・ジェイコブズの痛烈な批判も含めて、分け入って考えてみることはまたの機会に譲ることとして、今回は千里山住宅地の開発史6この開発史を知るための基本文献としては、『吹田市史』第3巻(1989)とその資料編第7巻(1976)のほかに、吹田市立博物館編『”田園都市”千里山〜大正時代の理想郷〜』(2016)、さらに故和田昌允氏が千里山会の会報に1970年頃に千里山人という筆名で連載した「千里山開発物語」がある。前者は図録がきわめて充実しており、他方、後者には、執筆者が千里山の住人であったと同時に、京阪電車、阪急電車の社員としていわば開発側にいた人間だけに、ほかでは得られない情報や見方が含まれていて興味深い。を調べてみてはじめて知った別のことについて書きとめておきたい。それは、北大阪電気鉄道がその起業趣意書に記した当初の開業目的の主たるものが、宅地開発ではなかったということである。ではそれはいったい何だったのか。1915年9月に提出される鉄道免許申請書が、吹田町やその後背の丘陵地帯が大阪からきわめて近いにもかかわらず、交通網が未整備であるためにその発展がいちじるしく阻害されていること、それゆえ鉄道の敷設がいかにこの地域の発展に利するかを強調しつつ、直近の具体的な目標として大きく掲げたのは、驚かされることに、一大墓地、火葬場、葬儀所の新設、言い換えれば大阪市民のための墓地公園の建設なのである。
当該申請書は、慎重にも(姑息にも?)仄聞によるとしてこの建設計画の主体を大阪市に帰しつつ次のように述べている。
仄かに聞く所によれば大阪市に於いては前述の如き刻下の趨勢に鑑み、大阪市の東部及び北部(適当の地)に各一ヶ所の一大墓地火葬場を新設し、市内の各要所に葬祭場を設け葬式電車を開始し、祭場より新設墓地に向け霊柩を直送するの計画中なりと、なお他に最近千里村丘陵一帯の景勝区に於いて雄大なる墓地葬儀所および遊園地を設置するの企画既に成立するという、当社本線の終点を千里村に定めたる所以のものその意じつに此に在りて存するなり7北大阪電気鉄道株式会社軽便鉄道免許申請書、大正4年9月、吹田市史編さん委員会編『吹田市史』第7巻、1976年、p. 263. ただし引用に際して、カタカナおよび一部の漢字をひらがなにあらためた。
実際には大阪市はそのような計画をもっておらず、北大阪電鉄は自前の事業としてそれをやるつもりでいたはずだが、これは結局実現せず、前述の1922年の小冊子『大阪の北郊と北大阪電鉄』は、墓地火葬場新設の話には一言も触れていない。つまるところ墓地公園は田園都市によって完全に置き換えられたのである。鉄道ライターの宮武和多哉氏が千里線開業100周年にあたる2021年に発表した記事8宮武和多哉「「墓地電車」から始まった阪急千里線100年の激変 一時「京阪電車」だったことも 続く進化」2021年6月20日(https://trafficnews.jp/post/108124)によれば、開業当時この路線は「墓地電車」と呼ばれていたのだという。そして、電鉄会社が墓地の建設を企図した理由を推し量って次のように書いている。「霊園と鉄道といえば、同時期にはニューヨーク・ウッドローン墓地への地下鉄乗り入れがあったほか、東京では多摩鉄道(現・西武多摩川線)の多摩墓地前駅(現・多磨駅)が霊園の分譲と鉄道の乗客増に貢献するなどしており、この時代におけるビジネスモデルのひとつだったといえます。」
しかし、私が北大阪電鉄の申請書で強い印象を受けたのは、先ほどの引用の直前にある次のような文言だった。大阪市の急激な人口増に伴う墓地、火葬場不足の解決が喫緊の課題であることを指摘しつつ文書は言う。
しかのみならず発展の迅速なる拾数年前は隴圃の中に挟まれるこれらの葬儀所は今や邸宅工場等をもって囲繞せられる全く市街地と化し、市街の中央に墓地火葬場を見るの奇観を呈するに至れり、しかしてその火葬を為すに当りてや煤煙四散し悪臭街衢に瀰漫して衛生上の一問題を喚起し、百五十万市民は大声疾呼墓地火葬場移転の急務を訴うるに至る、これ市の衛生上最も憂うべき一現象なりとす9『吹田市史』第7巻、前掲書、p. 263. 同じく、カタカナと一部の漢字をひらがなにあらためた。
これを読んで私が思い出さずにいられなかったのは、5歳になる年に亡くなった祖父の葬式前後のかすかな記憶と、葬儀の実行にかかわる村の慣行の存在についてだった。村には「どうぎょう」(おそらく同行と書くのだろう)と呼ばれる組があり、各家は十軒あまりの固定的なメンバー(母親の話では地区割りではないらしい)から作られる、これらの組のいずれかに所属する。そしてメンバーの家で葬式をだすことになった場合には、「どうぎょう」がそれを仕切る、少なくともそこの家に集まって手伝う(父親の発音では、「てったう」)のである。しかし、1960年代初頭までは、この「どうぎょう」には狭義の葬式に加えて別の重要な任務があった。それは村の西側の小さな谷の奥まったところにある共同墓地の中にあった村独自の火葬場(私たちは焼き場と呼んでいた)に棺桶を運び入れて、それを「焼く」ことである。私の祖父もそのようにして焼いてもらったのである。
この任務がけっしてたやすいものでなかったことは容易に想像がつく。父親は遺体が大きい、とくに肥満体である場合はつらかったと口にしていた。当然、薪をくべて焼くのだが、焼け残った場合にはそれを手作業でひっくりかえして、再度焼かなければならなかったからである。そうしたことがあったからか、村内の互助制度なのにもかかわらず、葬式をだす家では、「どうぎょう」の人々を大切に扱い、葬式のあとに座敷でだす食事ではこの手伝いの人たちにもっとも上席に坐ってもらうのが慣わしだったらしい。こうした制度が私たちの村独自の制度であったとはとても思えないから、近隣の村々でも同じような慣行があったにちがいない。宮武氏は上述の記事のなかで、開業当時の北大阪電鉄が「墓地列車」と呼ばれた理由として、未遂に終わった当初の霊園計画に加えて、沿線がもともと里山で墓地が多かったことを挙げているが、その推測にも一理あるかもしれない。穿った見方をすれば、火葬場がすでに公営化されていた大阪市に対して、千里丘陵には村独自の火葬場と墓地が点在していたことが霊園計画の前提にあったかもしれないのである。
いずれにせよ、葬儀と埋葬が村落共同体にとってきわめて大きな重要性を持っていたことは、それが火事と共に村八分から除かれていたことが示しているように、いまさら言い立てるまでもないことである。それを国家レベルで考えたときには、こんどは戦死者をどのように祀るべきかという問題となる。大塚英志は柳田国男の『先祖の話』に付した解説で、柳田がこの書を1945年の4月から5月にかけて書いたことに触れ、その執筆動機が大戦による大量の戦死者(直近には東京大空襲がある)を誰がどのように弔って(祀って)いくのかという危機感にあったことを強調しているが10柳田国男『先祖の話』角川ソフィア文庫、2013年。、大正期の前にも日本は日露戦争によって多くの戦死者を出していた。たとえ問題をそのように立てなくても、私たちの多くはいまもお墓や先祖の位牌をどのように守っていくのかということを気に病み続けている。そうしたことを思えば、田園都市の前に霊園の計画があったということには、意外に深い意味があるかもしれないという気がしてならない。
*1 ただし一般に読まれているのは、1902年に出されたその改訂版『明日の田園都市』の方だろう。邦訳は、『新訳 明日の田園都市』山形浩生訳、鹿島出版会、2016年。
*2 本書は、1980年に講談社学術文庫から『田園都市と日本人』というタイトルで再刊される。文庫化にあたって序と解説を寄せているのは、1950年代に全学連委員長をつとめ、60年安保闘争の主力となったブント(共産主義者同盟)の結成メンバーでもあった香山健一である。のちに保守陣営に属する学者となった彼は、この再刊の時点では、大平正芳の中心的ブレーンのひとりだった。
*3 [ ]による補足、訂正は筆者。都市研究会と内務省は人的にもつながりがあり、名前の挙げられている三技師のひとり山田博愛は1918年(大正7年)内務大臣官房に都市計画課が新設されるとただちに土木主任技師として勤務、課長の池田宏、建築主任技師だった笠原敏郎とともに、翌1919年に成立する都市計画法(この法律は1968年に同名の新しい法律によって置き換えられるまでその命脈を保つ)と市街地建築物法の立案に尽力している。(Cf. 松井達夫「山田博愛」、『都市計画』(日本都市計画学会)144号、1987年、p.71.)
*4 田園都市会社の主要資本主であった石鹸会社リーヴァー・ブラザーズのWilliam Leverとチョコレート会社キャドバリーのGeorge Cadburyの二人は、前者はリバプール近郊にポートサンライトPort Sunlightを、後者はバーミンガム南西部にボーンヴィルBournvilleを、自社の従業員とその家族のための田園都市として建設している。(Cf. 『田園都市と日本人』前掲書、p. 50.)
*5 この辺のことは、佐藤光『よみがえる田園都市国家——大平正芳、E・ハワード、柳田国男の構想』、ちくま新書、2023年に詳しい。
*6 この開発史を知るための基本文献としては、『吹田市史』第3巻(1989)とその資料編第7巻(1976)のほかに、吹田市立博物館編『”田園都市”千里山〜大正時代の理想郷〜』(2016)、さらに故和田昌允氏が千里山会の会報に1970年頃に千里山人という筆名で連載した「千里山開発物語」がある。前者は図録がきわめて充実しており、他方、後者には、執筆者が千里山の住人であったと同時に、京阪電車、阪急電車の社員としていわば開発側にいた人間だけに、ほかでは得られない情報や見方が含まれていて興味深い。
*7 北大阪電気鉄道株式会社軽便鉄道免許申請書、大正4年9月、吹田市史編さん委員会編『吹田市史』第7巻、1976年、p. 263. ただし引用に際して、カタカナおよび一部の漢字をひらがなにあらためた。
*8 宮武和多哉「「墓地電車」から始まった阪急千里線100年の激変 一時「京阪電車」だったことも 続く進化」2021年6月20日(https://trafficnews.jp/post/108124)
*9 『吹田市史』第7巻、前掲書、p. 263. 同じく、カタカナと一部の漢字をひらがなにあらためた。
*10 柳田国男『先祖の話』角川ソフィア文庫、2013年。
山田広昭(Hiroaki Yamada)
フランス文学、思想。東京大学名誉教授。大阪府生れ。著書に、『現代言語論』(共著、1990年)、『三点確保─ロマン主義とナショナリズム』(2001年。以上、新曜社)『可能なるアナキズム─マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年)など。
最近の論考に、「全般経済学と純粋アナーキー原理」(『はじまりのバタイユ』所収、法政大学出版局、2023年4月)、「希望の原理としての反復強迫」(『群像』2023年2月号)、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、あるいはセイタカアワダチソウと葛の間を歩む者──「絶対小説家」大江健三郎を悼む」(『ユリイカ』2023年7月臨増 総特集=大江健三郎)などがある。
訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)他。