これも子供の頃の話になるが、わが家には鶏がいた。たしか五、六羽はいたのではないかと思う。井戸がそれも二本掘られていた裏庭とそれに隣接する畑とのあいだに、屋根と壁だけの簡素な建物が立っていて、そこに風呂(もちろん下水板を沈めて入る五右衛門風呂である)や、へっつい用の薪をおく柴部屋、漬物樽が並んだ漬物部屋とともに、鶏小屋がしつらえてあった。卵を得るのが目的だからそこにいたのは雌鶏だったはずだが、裏庭には雄鶏が少なくとも一羽、なぜか自由に歩き回っていて、これがなかなかに気性が荒く、幼い身には近寄ってくるだけで怖かった。あとで聞いた話では祖母がひよこを育てるのが目的で雄鶏もおいていたらしい。つまり有精卵を得るためだったのだろう。

 ある日学校から帰ってくると、それらの鶏が一羽残らずいなくなっていた。代わりに土間からの上がり口の板の間に鶏肉(かしわ)が並んでいた。それまでにも鶏を絞めることはあったはずだが、全羽絞めるというのはもう鶏は飼わないということだろうと子供心にも理解できた。板の間に並ぶ鶏肉の中には大小様々な大きさの卵をつけた卵巣がいくつか見てとれた。すっかりあやふやになってしまった記憶のなかで、そのむき出しの卵たちの鮮烈な橙色だけが今も目に浮かぶ。

 1922年の秋、北大阪電鉄が開通し、「田園都市」千里山住宅地がまさに形を整えはじめていたころ、そこから北東へ、大阪市内から見てやや奥へと進んだところの隣村、そこは歴史も古く、規模でもわが下新田村とは比較にならないほど大きな村だったのだが、そこに今から見ると鉄道の開設やそれと平行した都市中産階級向けの住宅地の開発と同時代の出来事であることにピンとこないような事件が起こる。山田村の小作争議として、その頃はかなり広く知られた事件である。だがこの村に激しい小作争議が起こる下地は十分にあった。そもそも村が属していた三島郡は府内でももっとも小作地率の高い地域で、1924年当時の資料によれば小作地が平均で全耕作地の64パーセントを占めていたらしいが、山田村ではその平均をさらに上回り73パーセントに達していた。それに加えて、地主が小作人に課していた小作料(現物納入を原則とする)が非常な高率だった。『吹田市史』の記述をそのまま引用すれば、「上田の反当たり収穫高二石八斗のうち、年貢米は一石八斗であって、これだけで六四.三パーセントの高率にのぼり、加うるに口米九升、苗代年貢一升が課せられていた。これでは収穫の三分の一弱の九斗しか手元に残らないことになる。」この数字が正しいとすると、市史の言うように、小作農家では「たとえ自家労働力を無賃としても、生計がとうてい成り立たなかったことはたしかである1*1 『吹田市史』第3巻、吹田市史編さん委員会、1989年、p. 230。」。

 1922年9月30日、同年4月に神戸で創立大会を開いたばかりの「日本農民組合」に結集した山田村の小作農民350人は、村内の地主43名に対して2*2 人数については、伝える記事によって多少の違いが見られる。、小作料の永久三割減の要求を突きつけるが、地主側はこれをにべもなくはねつけた。こうして三次にわたり、終息まで6年を要することになる闘争の最初の一つがはじまる。ところでこの争議が多少なりとも世間の注目を集めることになったのには、わかりやすい理由がひとつあった。闘争が始まった当時、農商務省次官の地位にあって、小作制度調査委員長を務めていたのは、岡本栄太郎という人物だったのだが、この岡本がほかでもない山田村の出身で、小作料減免要求を突きつけられていた当の地主の一人だったのである。こうした巡り合わせに新聞記者が飛びつかないはずはない。同年9月27日付けの『大阪毎日新聞』夕刊は、この争議のことを伝える記事に「岡本農商務次官の所有地に小作争議が持ち上がりそう」という見出しを打っている。同年10月の『日本農民新聞』もまた、この巡り合わせに皮肉を感じざるをえないと述べたうえで、次のように続けている。

次官が新聞記者に語れる処を見ると、『我が郷里は由来豊饒の土地で、産米は多く灘五郷の酒米となり、価格も常に石五円方も他処より高いので村は比較的富裕である、今度の争議は多分旱魃のために枯渇した山田の減免運動であろう』と云はれている。是を以て見ると小作制度調査委員長たる岡本氏は豊年や富裕な村には小作争議が起こらぬと考へてゐるらしい、又大阪地方を中心として巻き起こっている小作争議の根本原因を知らぬらしい3*3 『吹田市史』第7巻、吹田市史編さん委員会、1976年、p.123。

 この記事が後段指摘していることは、このころすでに頻発しはじめていた小作争議の本質を理解するという意味で重要である。年貢米の減免要求といえば、病気の蔓延や旱魃による凶作、飢饉にもとづくもの、すなわち天災に対する一時的な救済を求める運動だというのが一般の受けとめ方であったのに対して、ここで問題になっているのは、たとえ豊作時であっても適用されるべき永続的な減免だからである。これは圧倒的に地主有利であったそれまでの地主小作関係を、経済的合理性に根拠づけられた対等なものに変容させようとしたという点で、旧来の農村秩序を揺るがしうるような要求であった。それはおそらく小作制度調査委員長たる岡本次官の理解を超えていたか、あるいは彼の立場では見て見ぬ振りをする必要があるものだったのだろう。

 山田村の小作争議を世に知らしめた原因の一つがこの岡本農商務次官の存在であったとすれば、その激化と長期化の主原因は、村のもう一人別の地主に求めることができる。その地主は名を吉川昌一といい、真偽は定かではないが、『日本農民新聞』1923年2月15日の記事によれば、岡本次官の実弟とされている。吉川は山田村の地主の中にあって、たとえ自分一人になったとしても小作人の要求にはぜったいに譲歩しないという類いの筋金入りの強硬派で、その実行力もまた群を抜いていた。彼は弁護士を立てて小作農民たちに土地の返還を要求したうえで、直接行動に打って出る。五六十名の人夫を遠く淡路島から雇い入れた上で、小作人たちがすでに植えつけを済ませていた苗をすべて引き抜き、再度牛耕し、自らで用意した別の苗を植えつけようとしたのである。この際、彼は実力で阻止をはかる小作人たちに対抗し、これを威嚇するために「大日本国粋会」(原敬内閣で内務大臣を務めていた床次竹二郎(立憲政友会)の発議で、関東、関西の侠客博徒を集めて1919年に作られた官製右翼で、国粋主義ということばはこの団体に由来する)の会員十数名に応援を求めている。

 吉川のような人物をこうした行動に駆り立てた動機は、あきらかに経済的な利害ではない。経済合理性に従って考えれば、小作米が入っていこない状況を引き延ばすより、妥協を図った方が有利である。人夫を多数雇い4*4 地主がどこから人夫を集めてくるかに関しては、1925年2月に開催された日本農民組合北摂連合第二回大会の議案書に、「地主輸入人夫に関する件」という項目があり、そこに「水平社朝鮮人労働団体へ交渉する事」とあるのが注目される(『吹田市史』第7巻、p. 139)。、すでに植えられている苗を引き抜いて田植えをやり直すなどバカげているとしか言いようがない。彼を動かしていたのは一つの信念、あえて言えば一つの思想である。彼はその信念にもとづいて、1924年には、自宅を本部とする「帝国農政研究会」を組織し、翌25年には、二府八県八千人を超える地主を糾合する「大日本地主協会」の設立に力を尽くし、自らは副会長に就任する。その信念とは何か、吉川は争議が終息をみる1928年に次のように述べている。

回顧すればわが山田村は郡内の大村でありその自治は常に善く整頓し土地肥へて生産が亦豊かに府下模範村の候補地たる一村落であった。然るに一朝過激思想の侵入と共に、美はしかりし過去の歴史は汚され、共同一致の美風は地を掃ふて空しく斯くも悪化するとは夢にだも思ひ設けなかった所であります。茲に於いて私は深く決心すると同時に如何なる苦痛を忍び如何なる犠牲を払っても此過激思想の撲滅を計り以て一村の平和を回復せしめずば止まざるの覚悟を定めました5*5 吉川昌一述「小作争議実験談」二、『農政時報』第33号、大日本地主協会、1928年9月。ただし引用は、『吹田市史』第3巻、p. 232より。

 これを読むと、吉川が大日本国粋会に動員を求めたのはいかにも自然なことに思える。国粋会は労働争議や水平社(1922年設立)による部落解放運動に対して暴力的な介入を繰り返したが、それが目指していたのはまさに「我國古來の温情主義による勞資間の美風良俗(国体・精神・文化)を守るべく左翼運動を實力で粉碎し得る團體」たることだったからである。しかし、吉川が頼ったのは上述したような実力行使だけではなかった。むしろその主戦場は裁判所にあったと言える。小作米請求、土地明け渡し訴訟に始まり、立毛差押え、土地立入禁止、仮差押え等、ほとんどあらゆる法律上の武器を駆使して小作人に対する対抗を試みた。日本農民組合の機関誌『土地と自由』は、これについて次のように皮肉ってみせている。「金は随分費つただろう。裁判をやりだしてから田地の八九枚はとつくに売店を出したが誰もけちを入れて買わなかった6*6 『吹田市史』第7巻、p.148。。国の司法機関に訴えるという吉川がとった戦術は全国の地主の採用するところとなるが、それは地主に有利に作られていた(耕作権という概念のない)当時の民法下では、裁判闘争で小作人に勝ち目はほとんどなかったからである。じっさい、山田村の小作農民たちも裁判には負け、争議がはじまって三年後の1925年には土地の明け渡しを求める判決がおりている7*7 もっともたった一人の強硬な地主が小作人の要求を断固として拒み、争議を激化させるという事態は山田村にだけ起こったことではないようで、他によく知られている例として、新潟県木崎村の小作争議がある。ここでもこの地主(真島桂次郎)が対抗的に起こした訴訟で、小作人たちは敗訴している。

 さて、養鶏である。今回の通信を家で鶏を飼っていた頃の思い出から始めたのにはわけがある。「田園都市」とは、周囲の農地(農村)との有機的な連携を保ってはじめて成り立つ構想である。少なくともエベネザー・ハワードの構想ではそうだった。それゆえ近隣の農村で同時代的に何が起こっていたかを知ることは重要である。そんな思いもあって山田村の小作争議についての資料や解説を読んでいたら、次のような記述にぶつかったのである。小作争議が小作農民側の敗北に終わったことを述べた後、『吹田市史』はこう続ける。

小作争議に敗北した農民たちの生活は、いっそう窮迫化した。彼らのある者は、争議末期から始めていた野菜の行商を続けた。ある者は柴島浄水場の砂上げ作業に従事した。山田下(しも)の部落では、確実な生計の道として、養鶏業にとりくむことになった。農民組合のリーダーの一人であり、元来が養鶏家であった岩田庄太郎を中心にして、昭和四年(一九二九)三月二十二日、山田養鶏組合が結成された。組合員数五〇数人、組合長岩田庄太郎、専務理事蔵本伊之松、[中略] 相談役に吉岡八十一という具合に、農民運動の闘士たちが役員に名を連ねていた8*8 『吹田市史』第3巻、p.324-325。

 農家にとって養鶏のもつ意味は何か。米作農家が文字通り米のみを作っていたとすれば、彼らに収入がもたらされるのは、年に一度だけである(地主とちがい小作人には収穫した米を寝かせておいて値を見ながら売る余裕はなかっただろう)。とにかく種まきから稲刈りまでのあいだのほぼ半年間、農家には一銭も入らない。ただ出費があるだけである。しかし、養鶏はちがう。鶏は卵を毎日産む。販路さえ確保できれば、日々の収入がもたらされることになる9*9 これに鶏糞が非常に優秀な肥料となるということを付け加えておいてもいいだろう。。労働運動から農民運動に転じ、杉山元治郞とともに日本農民組合を設立した賀川豊彦も、小作農民の応援のためにしばしば山田村を訪れていたようだが、「貧乏しても鶏が卵を生んでくれるからあまり悲観しないで働きませうね」と書き、その文を養鶏場と鶏の絵を添えて、山田養鶏組合に贈っている。のんきに聞こえるかも知れないが、偽らざる気持ちだったにちがいない。

 この養鶏組合はその後どうなっていったのだろうか。はたしてそれは期待された成果を収めたのだろうか。どうもそうではなかったようだ。『吹田市史』は、1939年(昭和14年)の「三島郡山田村基本調査総合観察結果」に養鶏についての言及がいっさいないことをもって「山田養鶏組合の努力は余り実らなかったようである」と結論づけている。

 しかし、山田村の養鶏組合に注意を惹きつけられたことには、もう一つ別の連想が関わっている。私は『可能なるアナキズム』(2020)で言及したヤマギシ会のことを思い浮かべたのである。拙著では私は斎藤貴男のルポルタージュ10*10 『カルト資本主義』増補版、ちくま文庫、2019年。に依拠しつつ次のように書いた。

山岸巳代蔵という人物によって立ち上げられたこの会の出発点には彼が独自に編み出したという養鶏法があった。山岸はこの飼育法によって生まれるニワトリの社会に人間の理想社会の縮図を見るようになり、一九五八年に三重県伊賀町(現伊賀市)に土地を取得し、なんと「世界急進Z革命団」なる看板を掲げて養鶏を中心とした共同生活を開始した。山岸自身はそのわずか三年後に亡くなるが、ヤマギシ会は彼の死とともに滅びはしなかった。

 監禁事件などのスキャンダルを起こしながらも、鶴見俊輔と『思想の科学』がこの会の活動に関心を寄せ、1970年代前後には挫折した多くの全共闘活動家たちの受け皿ともなったこのコミューン運動、個人所有の概念を否定しながら、自然食品ブームに乗って一時期(1990年代だろうか)全国の農業組合法人のなかで売り上げトップを記録したというこの「カルト」についての詳細は省くが、ヤマギシ会の立ち上げと養鶏とのかかわりについては、どうも上で書いたことと事情は逆だったようだ。山岸巳代蔵全集ホームページに掲載されている山岸の略歴11*11 http://www.yamagishi-miyozo.org/ryakureki.htmlによれば、彼は1922年、21歳で養鶏を始めているが、その動機を「私が把握した社会組織のあり方を、鶏に応用実験すべく郷里に帰って養鶏に着手した」と語っているようだからである。(マルクス主義やアナキズムの影響を受けたとも言われている山岸の)理想社会のイメージの方が養鶏の実践よりも先にあったのである。なお同じ略歴の中の1931年の項には、この年から翌年にかけて、「鶏界大不況に見舞われ、約二ヵ年養鶏に心身共に打ち込んで働いた」とある。1929年に立ち上げられた山田村の養鶏組合が十分な成果を上げられなかったとすれば、その背景に二年後に始まったというこの「鶏界大不況」があった可能性は十分に考えられる。

 しかし、1930年代初頭に養鶏業界をおそったという不況は孤立したものではなかったはずである。1930年から数年の間、日本の農村は昭和農業恐慌と呼ばれる深刻な恐慌におそわれる。これを受けて政府側が打ち出したのが「農山漁村経済更生運動」である。1932年(昭和7年)から毎年1000町村が、1940年(昭和20年)までには全国の81%にあたる9153町が、経済更生指定町村に指定された(われらが下新田村もこの運動がはじまる初年度に経済更生村としての指定を受けている)。この運動はきわめて精神主義的色合いが強いもので、指定を受けた農村に補助金と引き換えに、「挙村一致による自力更生」を求めた。山田村の農民運動の敗北が決定的なものになるのは、この経済更生運動に組み込まれていくことによると言ってもいいだろう。1933年(昭和8年)12月、全国農民組合山田村支部は支部決議にもとづいて全農大阪府聯合会に脱退届を提出する。代わりに彼らが参加するのは、まさにその12月に結成された「皇国農民同盟」である。農民組合の右旋回のはじまりである。

 我が家が鶏を飼うのをやめたあとも、川をはさんで斜め向かいの家では、うちのような家事消費用ではないもっと大きな規模の(とはいえ家の庭を使ってではあるが)養鶏を続けていた。子供の使いで、卵を6個なり10個なりといった単位で買いに行っていたことがあるので、その様子はまだ憶えている。この家もそのうち鶏を飼うのはやめてしまった。面白いと思ったのは、1932年に策定された「三島郡新田村経済更生計画」がその中の生産増強計画で、副業として養鶏を奨励していることである。「一戸三十羽」を実現するというのがその目標であった12*12 『吹田市史』第7巻、p. 157。。川向こうのお隣の養鶏が戦前からのものであったのか、それとも戦後新たに始めたものであったのか、いちど今の当主に知っているか聞いてみたいと思いながら、まだその機会がないままでいる。

*1 『吹田市史』第3巻、吹田市史編さん委員会、1989年、p. 230.

*2 人数については、伝える記事によって多少の違いが見られる。

*3 『吹田市史』第7巻、吹田市史編さん委員会、1976年、p.123。

*4 地主がどこから人夫を集めてくるかに関しては、1925年2月に開催された日本農民組合北摂連合第二回大会の議案書に、「地主輸入人夫に関する件」という項目があり、そこに「水平社朝鮮人労働団体へ交渉する事」とあるのが注目される(『吹田市史』第7巻、p. 139)。

*5 吉川昌一述「小作争議実験談」二、『農政時報』第33号、大日本地主協会、1928年9月。ただし引用は、『吹田市史』第3巻、p. 232より。

*6 『吹田市史』第7巻、p.148。

*7 もっともたった一人の強硬な地主が小作人の要求を断固として拒み、争議を激化させるという事態は山田村にだけ起こったことではないようで、他によく知られている例として、新潟県木崎村の小作争議がある。ここでもこの地主(真島桂次郎)が対抗的に起こした訴訟で、小作人たちは敗訴している。

*8 『吹田市史』第3巻、p.324-325

*9 これに鶏糞が非常に優秀な肥料となるということを付け加えておいてもいいだろう。

*10 『カルト資本主義』増補版、ちくま文庫、2019年。

*11 http://www.yamagishi-miyozo.org/ryakureki.htm

*12 『吹田市史』第7巻、p. 157。

山田広昭(Hiroaki Yamada)

フランス文学、思想。東京大学名誉教授。大阪府生れ。著書に、『現代言語論』(共著、1990年)、『三点確保─ロマン主義とナショナリズム』(2001年。以上、新曜社)『可能なるアナキズム─マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年)など。
最近の論考に、「全般経済学と純粋アナーキー原理」(『はじまりのバタイユ』所収、法政大学出版局、2023年4月)、「希望の原理としての反復強迫」(『群像』2023年2月号)、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、あるいはセイタカアワダチソウと葛の間を歩む者──「絶対小説家」大江健三郎を悼む」(『ユリイカ』2023年7月臨増 総特集=大江健三郎)などがある。
訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)他。