「和人(シャモ)のユーカラ」—間奏曲として

硫黄山 撮影:筆者

 八月の下旬に家族で久しぶりに北海道を旅した。女満別空港でレンタカーを借り、知床(ウトロ)に二泊、中標津の養老牛温泉(ここは旅館の横を流れる川沿いに設けられた給餌場に野生のシマフクロウが飛来することで知られていて、私たちもその姿を間近に見ることができた)と、釧路湿原東部の塘路(武田泰淳の『森と湖のまつり』を思い出す人もいるだろう)に一泊ずつ、そして、帯広を経由して、札幌まで戻り一泊、翌日の午後に千歳から飛行機に乗るという、五泊六日の旅である。旅の前には、九州の方に襲来していた台風の影響で、暴風雨までいかなくても雨の続くことを心配していたが、幸いなことに、知床五湖のトレッキングや釧路川のカヌー下りなど、ここぞというときには晴天に恵まれた。圧巻は途中に立ち寄った摩周湖で、霧で何も見えないことを覚悟していたにもかかわらず、ちょうど展望台に着くタイミングできれいに晴れ渡り、摩周ブルーと呼ばれるその湖面の色が鮮やかに目に飛び込んできた。たしかに美しい。

 ところで北海道、なかでも知床と言えば、ヒグマが連想されることだろう。しかしこれも幸いなことに出くわさずにすんだ。車の窓越しに距離をおいて見ることができればむしろラッキーなのでは、と思わないでもなかったけれど、それは野生のヒグマの恐怖をじっさいに味わったことがないからだろう。知床五湖ではガイド付きのツアーに参加したが、散策路の前方で熊の目撃情報がでればツアーは即座に中止し、急いで引き返すことになっているという話だった。他方、エゾジカの方は増えすぎて問題になっているとは聞いていたが、じっさいに道東を旅行中には頻繁に見かけた。でもこの時期に出会うのはもっぱら子連れのメスで、おとなの雄ジカは山で別行動をとっているらしく、私たちが目にしたのは知床で草原を跳びはねながら森の中に入っていくところを見た一頭だけだった(しかし、その大きさには驚かされた。およそ奈良公園の鹿の比ではない)。野生動物つながりでいえば、タンチョウのつがいを何組か、釧路湿原で目にすることができたことは予期していない喜びだった。というのも、恥ずかしいことだが私はタンチョウというのは冬季にのみ北海道に飛来する渡り鳥だと思い込んでいたのである。なので最初に見かけたときは、タンチョウによく似たきれいな鳥がいると騒いでしまった。

 さて、こうしてあたかも旅行記のように書き始めているが、じつはこの小文の目的は旅の記録を文章に残したいというのとは少しちがうところにある。もちろん北海道に行かなければこれから書こうとしていることに想いがいくことはなかっただろうという意味では、旅の記録と言えば言えなくはないのだけれど。旅の最終日に、私たちは白老町にあるウポポイを訪れた。「民族共生象徴空間」というのが正式名称であるらしいが、同地に以前からあったアイヌ民族博物館を発展継承する形で2020年に新たに開設された国立施設群だと理解している。そこには国立アイヌ博物館以外に、湖を囲むようなかたちで体験交流ホールや体験学習館、工房、さらには伝統的集落(コタン)を再現した建物などがならんでいる(今回はそこまで足を伸ばせなかったが慰霊施設も併設されているらしい)。それらの建物ではウポポイ職員によるユーカラの実演なども行われていた。博物館の基本展示室はきわめて充実していて、円形の大きな部屋に工夫をこらして配置された展示物や説明も見やすい。

 「和人」とアイヌとの交通の歴史が、中世から明治維新による近代国民国家形成過程を経て現代にいたるまで、どれほど収奪と抑圧の道をたどってきたか、そしてその過程がアジア大陸を中心とした世界史とどのようなつながりをもっていたか、それを語るのは、言うまでもなく私の任ではない。ウポポイの見学を終えての帰りの飛行機の中ではいろいろなことを考えたが、そのときに記憶の中から這い出してきたある短編小説のことがいまも気になり続けている。深沢七郎の「和人のユーカラ」である。今回書きたいのは、この小説についてである。

「和人のユーカラ」は、雑誌「海」の1980年12月号に掲載され、ほぼ同時期に刊行された単行本『みちのくの人形たち』に収録された。深沢は1987年8月18日に73歳で亡くなるが、この『みちのくの人形たち』は、その衝撃的な表題作をはじめとして、短編作家としての深沢の凄みが全篇遺憾なく発揮されている、晩年の最高傑作と言ってよいだろう。なお、この短編集には北海道とかかわる作品が二編収められていて、「和人のユーカラ」はそのうちの一編である。(もう一篇は「いろひめの水」)

物語の舞台となるのは、大雪山の麓で、時代は1960年代の初めに設定されている。語り手である「私」は、東京でサラリーマンをしているのだが、大雪山までやってきた理由を次のように語る。「こんど私が来たのは地元の有力者たちが計画する新しい自動車道路を作るため、また自然美の破壊を憂慮する反対の立場の人達のための調査団の一員となって来たのだった」。しかし、これはたんなる口実にすぎず、「私」の真の目的はまったく別の所にあった。それは「三年前のあの不思議な出来事—いや、不思議な秘密を探る」ことである。この「秘密」は「偶然に摑まえた幸運」とも呼ばれるが、それが本当に幸運であったかどうかを確かめるためにこそ、「私」は調査団に合流する日の一週間も前から、ひとり大雪山にやってきたのだった。つまり語り手とっては、これは二度目の来訪なのである。

「私」は三年前と同じ宿をとり、三年前と同じ部屋に泊まる。迎えてくれたのも、三年前と同じ女中さんである。部屋の窓からは、これもまた三年前と同じく、タンポポの花が「せまい庭一面に黄色い風呂敷をひろげた様に咲き乱れている」のが見える。「幽霊タンポポ」という言葉が「私」によって口にされ、それと同時に、三年前の不思議な出来事、「偶然に摑まえた幸運」なるものが何であったかが語り出される。

「幽霊タンポポ」、その言葉を教えてくれたのは、「私」が宿から散策に出て、道に迷ってしまったときに、霧の中から忽然と姿を現した「山男のようなアイヌの人」である。この男はまるで「復員軍人か終戦直後の引揚者のような服装」で、「彫の深い、太い眉毛」をもち、「私」から見れば「雲つくような大男」だったが、優しそうな表情をしていた。そして驚いたことに、田舎なまりの抜けない「私」よりも、ずっと東京の人のような日本語を話すのだった(それには理由があるのだが、いまはおく)。大男は道すがら、もし観光に来たのなら、おすすめの場所があると言い、「私」をそこまで案内してくれる。それは山に囲まれたなだらかな傾斜地で、草も木もなく、ひたすら黄色いタンポポだけが「ワイドスクリーン」のように拡がっている場所だった。男は北海道ではタンポポは「灰色になっても飛び散らないで、長く灰色の花になってそのまま咲いている」のだと言い、「私」にそれを「ボクたちは×××××と言っています。シャモの言葉で”幽霊”という意味です」と教える。

小説の核心をなすといえる部分はこのあとに来るのだが、その部分はすべて男と「私」との対話によって織りなされる。かつ、この対話は大部分、男がまず「ボクたちの言葉」と呼ぶ言葉で何か(小説中では、すべて「×××××、×××」という具合に一種の伏せ字で示される)を言っては、すぐに日本語で訳をつけ、それを聞いた「私」が質問をかえすという形で進行する。男は、小説の始まりでは、「アイヌの人」と断定されていた。しかし、ここにきて、この断定が男に出会ったときの「私」の思い込みにすぎなかったことがおぼろげに見えてくる。シャモという言葉を面と向かって使われたことに当惑した「私」が、男にむかって「あなたは、アイヌの方ですか?」と聞いても答えはなく、帰って来た言葉は、「内地の人のこともシャモといいます、アイヌのこともシャモといいます」でしかない。

そして男が、つぎつぎに繰り出す言葉は、前に置かれた「××××… 」を省いてしまえば、次のようなものだ。

「タモの木の
枝と、枝のあいだは
俺のものだ
と、言います」

「シャコタンの島は、
持って歩けないのさ
と、言います」

「ノボリベツの煙は
俺のものだ
と言います」

「俺らの
ジィさん
バァさんは
ニセコの山から降ってきた
と言います」

こうして積み重ねられてゆく「と言います」のあいだあいだに、「私」の抱く疑問と、男のしばしば謎を解決するのではなく、謎をさらに深めるだけの答えとが挟まってゆく。そして、それらがまるで歌のように聞こえるという「私」にたいして、自分が言った言葉はすべてユーカラだという。ユーカラとは、アイヌの人たちが自分たちの歴史を歌にしたものではなかったのかと、「私」は思う。この男が歌うユーカラのどこに歴史があるのだろう、ニセコの山から降ってきたのはなぜ祖父や祖母であって、はるか昔の先祖ではないのだろうか。私の疑問に答える男の言葉は、このとき一転して決然とした調子を帯びる。

「ボクたちはジィさん、バァさん、三代以前のことはなにもわからないのです。そういうことは必要ないのです」
「あの、さっきのユーカラ以外は、なにもわからないのです、シャモは、何十代とか以前のことも真剣に考えていますね、ボクたちは、どこからきたとか、なぜこの世に姿を現わしているのか、だから、なぜ生まれてきたのか、なぜ、生きているのか、そういうことは必要のないことです、もし知っても、仕方がないことです。シャモに、みんな、盗られてしまったからです」

シャモにみんな盗られてしまった? 男はシャモにもユーカラがあるでしょうと言う。そして、「シャモのユーカラは怖いですよ、気味が悪いですね」と付け加える。「私」には男がなんのことを言っているのかが分からない。だが、答えはほどなく与えられる。

「シャモは、ワァワァと両手を揃って上げるでしょう、あれが」という。なんのことだろうと私は首をかしげた。
「バンザイ、とか言って、揃って、両手を」と言うのだ。
「ハテナ」と私は思った。
「あれはユーカラですか?」と言った。いや、そうではない筈なのだが、
「ユーカラです、あれは、シャモの歴史を、一つの発声にまとめたものです」

男が気味が悪いというのは、それだけではない。シャモが行う葬式も、そこで唱えられる経文ももの凄く無気味だという。彼によればシャモが死者を弔う仕方は、「死んだ人を持ち歩いている」に等しい。それが証拠に、死体を焼いて骨にしてからも壺に入れて飾ったりする。「恐ろしいことをしますね」と、男はいう。そして経文は、彼にとっては「人の生きるとか、死ぬとかを物語っているユーカラ」であり、「死の約束を諦めさせる呪文」であり、「死の歴史を意味づけるための歌」にほかならない。自分がくりだす言葉に「私」が不快感を覚えはじめたことに気づいた男は、そこで話を切り上げ、「私」を広い道まで案内して、そこで別れる。

それから三年を経て「私」はもう一度この場所に帰ってくる。今や当時不愉快を感じたことなど忘れ、逢いたくてたまらなくなってしまったあの男にもう一度逢うために。そして謎めいていて理解できなかったがゆえに、結局は聞き流してしまった彼の言葉の意味を今度はなんとしても知るために。

この男がじっさいにアイヌでなかったことは、宿の近くに住む、生粋とされるアイヌ人からの話として、シャモという言葉の語源とともに、小説の終わり近くで明かされる。

男はアイヌよりもさらに先住の人々の末裔だというのである。

アイヌの先祖と、あの大男の先祖では、「戦争しても、我々の先祖にはかなわなかった」というような話をアイヌの人たちは話している。仲が悪い種族というより今でも仇敵のように思われているらしい。

もともと、シャモというのは、あの大男の先住者たちの発音だったそうである。「シーシーモー」とか「シーシーマー」という発音で、蛇の、マムシのことだという。それに、マムシの発音のなかには「糞へび」という意味を含んでいるという。〔…〕追われた先住者たちは、自分たちを追ったアイヌや日本人を、「糞へび」と呼んだという。

男を捜しあぐねて、三年前にも話をきいたアイヌの家族をふたたび訪ねることを思いついた「私」は、その人たちからここ二、三年は、その男の姿は見ない、もっと「涼しいところ」に行っているのではないかと聞かされ、男との再会をあきらめ、バスを乗り継いで札幌に向かうことに決める。そして、海岸線を走るバスの窓から、見つけられなかった大男の姿を幻視するのである。小説はこの幻影を表現する次のような言葉で閉じられる。これは、この「幽霊」のような男との遭遇が「私」にもたらした、「私」だけのユーカラだというべきだろう。

あの男か
それとも父親か
病み衰えた大男は
すこしずつ
海へ入っている
ぼーっと
はるかの光景を
私の眼は
ぼーっと見ている
大男は
すこしずつ
海へ沈んでいる

 「アイヌよりも先住の人々」として、深沢はどんな民族のことを考えていたのだろうか。オホーツク人だろうか、アイヌの先祖たちと戦ったというのなら、オホーツク人の末裔としての、サハリン(樺太)に残るニヴフ(ギリヤーク)だろうか、それともトナカイと暮らすウィルタ(オロッコ)だろうか。しかし、そうした詮索はおそらくただ一つの結論にたどり着くことはないだろうし、この小説の理解にとって重要なことでもないだろう。「楢山節考」で引かれる楢山節が、多くの人が思わずそう信じたような実在の民謡ではなく、深沢によるまったくの創作であったように、先住の民としての大男が「私」に語るユーカラも深沢の想像力によって生み出された虚構であると考えてまちがいないだろう。「和人のユーカラ」は「楢山節考」が「考」であるのと同じ意味において、「ユーカラ考」なのであり、それはもっとも深沢的な小説のかたち、もっとも深沢の得意とする小説のかたちなのだ。

 深沢は「風流夢譚」事件のあと1962年に行われた大江健三郎との対談1*1「思想のない小説論議」『深沢七郎の滅亡対談』ちくま文庫、1993年」で、「なぁーんにも思想のない小説を書きたいなあ」と口にしている。こうした願望を口にするということは、小説にはかならず思想が含まれることを深沢がつよく意識しているということだ。もちろん、ここでいう思想とは、出来合いのイデオロギー、組み立てられた主義のようなものではない。思想のない小説とは、恋をしていても、そこから好きとかきらいとかをぜんぶ取りさってしまったような小説だ、それがどんなものになるかを見てみたいと深沢はいう。だとすれば、彼の小説につねに付き添っている思想とは、なんらかの剥き出しのもの、裸形のもの、つまり、彼のいう「思想のなさ」と紙一重のものであるにちがいない。

 大男のユーカラは、私たちがなにを持つ(所有する)ことができ、なにを持つ(所有する)ことができないかを語る。私たちが持つことができるもの、それは「タモの木の枝と枝とのあいだ」、すなわち、ソラ(空)であり、クウ(空)である。「ノボリベツの煙」、すなわち、つかむことのできないもの、実体のないもの、消えていくものである。私たちが持つことができないもの、それは「シャコタンの島」であり、「太平洋の水」「島のまわりの海」である。すなわち、国家が領土とよび、領海と呼ぶものである。

 大男のユーカラはまた、私たちが持つ必要がないもの、もう一歩踏み込んで言えば、持ってはならないものについても語る。持ってはならないもの、それは、仮構された連続性としての歴史であり、私たちの死を、それゆえにまた、死を消失点とする私たちの生を、強制的に意味づけようとする「呪文」としての、「呪い」としての言葉である。

 「俺たちのジィさん、バァさんはニセコの山から降ってきた」(「ニセコの山に」ではない)は、もし神話だとすれば、ヤマト王権の神話としての天孫降臨神話とは徹頭徹尾真逆の神話である。前者が自分たちの支配の永続性を保証する連続性を導入するための神話であるのにたいして、後者はそうした永続性を切り刻むための、言い換えれば、偽の連続性を繰り返し切断するための神話である。

「ボクたちは、三代以前の先祖の顔は知らないのです。ジィさん、バァさんの顔しか知らないのです。だから、それ以前のことは知らなくてもいいのです。その、ジィさん、バァさんも、山から降ってきたのです。ただ、それだけ知っていればいいのです」

 「私」は、そう語る男が、「なんとなく、しんみりと、さびしげな様子になってきた」ことに気づく。無理もない、それは「追われたもの」のユーカラなのだから。それは自分たちの歴史をたった一つの発声に込めたと形容されるバンザイ(万歳)とは未来永劫無縁である。「和人」としての深沢が自らの身をどちらにおこうとしているのかは、誰の目にも明らかだろう。短編「和人のユーカラ」は、長編『笛吹川』や『甲州子守歌』を貫ぬいている深沢の独特の歴史意識の根底を、彼の死生観とともにこのうえなく明瞭に示している作品であるように思われる。

*1 「思想のない小説論議」『深沢七郎の滅亡対談』ちくま文庫、1993年

山田広昭(Hiroaki Yamada)

フランス文学、思想。東京大学名誉教授。大阪府生れ。著書に、『現代言語論』(共著、1990年)、『三点確保─ロマン主義とナショナリズム』(2001年。以上、新曜社)『可能なるアナキズム─マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト、2020年)など。
最近の論考に、「全般経済学と純粋アナーキー原理」(『はじまりのバタイユ』所収、法政大学出版局、2023年4月)、「希望の原理としての反復強迫」(『群像』2023年2月号)、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、あるいはセイタカアワダチソウと葛の間を歩む者──「絶対小説家」大江健三郎を悼む」(『ユリイカ』2023年7月臨増 総特集=大江健三郎)などがある。
訳書に、『ヴァレリー集成IV:精神の〈哲学〉』(編訳、筑摩書房、2011年)他。