他(た)は存在するか――濱口竜介『他なる映画と』書評
本のタイトルは、脚本のようなものだ。
本について語る人は、何を語るにしても、まず、それが何という本か、声に出して相手に知らせなくてはいけない。どんなに黙読が当たり前になり、文章を声に出すことが少なくなっても、わたしたちはある本を話題にしようとするとき、必ず、タイトルを声に出して告げる。その声は、語り手がその本に対してどのように身構えているか、どのような距離を取ろうとしているかを、顕わにしてしまう。タイトルを告げるたびに、語り手と本との距離は変化し、ときには熱を帯び、ときには醒め、語りは更新されていく。
だからこそ、書き手は、タイトルを推敲しながら、自分でも口にしてみて、それがどんな風に声にされうるかを確かめることになる。
と、そこまで考えてから、改めて「他(た)なる映画と」と声にしてみると、これはかなり企みが深い。
「た」とわざわざルビが振られているのが目を惹く。「ほか」なら、居心地は悪いが、「ほかならぬ」ということばもあるから、わからなくもない。しかし「た」と「なり」は、通常の日本語では結びつかない。「たなるえいがと」と、いきなりすらすら口にしたなら、「たなる? 」と聞き返されることは間違いない。
なぜ「他(た)」という座りの悪いことばがあえて選ばれているのか。その理由については、まえがきに記されてはいる。もともとこれはレクチャーのタイトルで、ちょうどそのとき著者が読んでいた藤井仁子の文章中にあった(中村秀之の引用でもある)「他性」ということばに触発されて「他(た)」ということばが選ばれたのだという。しかしこの説明では、なぜわざわざ「他性なる」ではなく「他(た)なる」としたのかは示されていない。
思うに、「た」という単音のもたらす違和、すらすらと読めないこと、そこにルビが添えられるということ自体が、他性的で、ここではないよその可能性に満ちているのだ。ルビの存在は、そこに別の読み方の可能性があること、たとえば「ほかなる映画と」という読み方の可能性を、読む者に知らせる。ルビの存在は、呼ばれるべき音と呼ばれなかった音、起こることと起こらなかったこととを同時に示す。「た」と「ほか」。偶然と想像。
本書のタイトルを口にする人は、まず、「た」という音を発したあと、それを独立の語として響かせるべくほんの少し間を空け、次の「なる」の音調を変化させて前の「た」と切り離し、「た、なる」と、慎重に発音することになるだろう。そうやって「た」を特別に響かせてみると、今度はそのT音が、末尾の「と」とT音で呼応するように感じられる。「た」で始まり「と」で終わることで、ちょっとたたらを踏んでいるというか、口が転がる感じになる。「他(た)なる映画」でも成立しえたのではないか、とも思う。いや、むしろ、「と」がない方が収まりがよいし、他性としての映画の存在感が増すのではないか。
いや、あえて「と」が添えられているところに、このタイトルの妙味はある。「映画」という体言で完結させる代わりに「と」を付け加えることで、タイトルは外に開かれ、「他(た)なる映画」だけでは収まらない存在の気配を呼び込む。画面の中のまなざしが、画面外でまなざされているなにものかを想像させるのと同じように、「と」は、「他(た)なる映画」と関わろうとするものの存在、「他(た)なる映画」とともにあろうとするもう一つの他(た)なるものを想像させる。
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『他(た)なる映画と』は、はじめから最後まで、映画を作る人のことばで満ちている。そのことを痛感させられるのが、「1」の最初で語られる、ショット論である。
ショット、そしてカットということばは、紛らわしい。英語圏では、ショットとは通常、一つのカメラで撮影されたひと続きのアクションを撮影したフィルム断片のことを指す。編集によって短く切られた場合は、その編集後の断片をショットと呼び、フィルムを切ること、もしくは切れ目自体のことをカットと呼ぶ。
一方、日本では、カットということばがフィルムの断片自体を指すものとして用いられることが多かった。伊丹万作の随筆「カットの意味」(1941年)では、撮影時の条件、編集時の条件それぞれにおいて、一続きの映像を「カット」として扱おうと試みながら、その定義の難しさについて綴っている。双葉十三郎『映画入門』(1954年)では、「カット」のことを「場面を切って次の場面とつなげるごく普通の方法である」と紹介したすぐあとに「一画面すなわちショットのことをカットともいうし、切り除いてしまうこともカットしてしまうという」と付け足しており、日本語におけるショットとカットの区別が曖昧であることを早くから指摘している。
蓮實重彦は、『ショットとは何か』(講談社、2022年)という聞き書き形式の書を著したが、冒頭で編集者から出された「蓮實さんはショットという言葉を正確にはどのような意味で使われているのでしょうか?」という問いに対しては直接答えず、常に具体例を語ることによってショットを論じ続ける。これは明らかに意図的なふるまいであり、あとがきにも、「「ショット」については、いつか語らねばならぬと考えていました。しかし、それを理論的な言説に仕上げることだけはしまいとも思っていた」とある。
以上のように、ショットが何を指すかは、語り手によってさまざまなのだが、だからこそ、それをどう語るかは、語り手の映画に対するひとつの態度を表すことになりうる。
では、濱口竜介はショットをどのように語っているだろうか。「映画の、ショットについて」という講義録の中で語られるその用法は明快である。「撮影行為においてカメラの回し始めから終わりまでを写したフィルムのことを「ショット」と呼びます」。そして興味深いのは、この「ショット」ということばは、撮影行為に対してのみ使われており、「編集においては、このショットにハサミを入れて分割されたフィルム=カットが最小単位となります」と、「カット」ということばを編集後の単位として用いていることだ。ショットとカットということばの、この明快な使い分けは極めて興味深い。というのも、ショットということばを、撮影行為を表すための特別なことばとして用いられているからである。明らかに、撮影現場に居合わせる人のことば遣いだ。
わたしはたちはしばしば映画の受容者として、最終的に編集済みの作品を鑑賞することに徹しようとする。しかし濱口のショット論は、作品のカットから、撮影におけるショットを想像し、そこにどのようなできごとがあり得たかを考え抜くことに注力している。たとえば写された画面からレンズの種類を特定し、そこからさらにはカメラと俳優との距離を推し量り、カメラとカメラマンの存在が、撮られる側のふるまいや息づかいにどのような緊張をもたらすかというところまで想像を巡らす。断片的なカットからなる作品に残された手がかりをもとに、ショットという現場のできごとを想像する術を教えてくれる。それは、作り手ならではの想像力であると同時に、カメラの過剰なまでの記録性を前に何かを見逃し、それでもカットという断片から断片へと移るあわいにカメラに写っていない幾多のできごとを想像しようとする、鑑賞者の想像力とも連なっている。
タイトルの「他(た)」の音に表れているように、濱口による映画論の(そして映画の)特徴は、俳優の演技、とりわけ声の微細な音の変化に対する、鋭い感性である。そして声の訪(おとな)い方もまた、ただ声の音に執着するだけではなく、声が生み出された現場を想像する態度に支えられている。この態度によって、わたしたちは『近松物語』の「茂兵衛」が「もへー」と声にされることへの驚きを、原節子の否定と拒絶の凄まじさを知り、『ハズバンズ』の歌唱場面で執拗に繰り返される否定がもたらす力へと導かれる。徹底して撮影の場における力を想像しようとするその振る舞いは、俳優として撮られる側に立とうとするカサヴェテスを思い起こさせる。ここでもまた、カットからショットを想像する著者の態度は力を発揮している。
こうした声の描写の白眉は、『麦秋』での杉村春子の呼吸と身ぶりを捉える「アンパン」論だろう。脚本の「ああ嬉しい!」が「まあ嬉しい!」にすり替わったことを見逃すことなく、そこに、杉村のただならぬ吸気を呼び込み、彼女の演技への賭けを明らかにするその論は、まさに息が詰まるような迫力に満ちている。
濱口の文章には、しばしば映画を観ながら「寝る」こと、何かを「見逃す」ことが記される。カメラの過剰なまでの記録性を前に、わたしたちは、あまりにも多くのことを見逃しながら、なおかつ、映画「と」ともにあることができる。「他(た)」を観ながら、かつ、ショットを想像し、ショットを生み出し続ける、もう一つの「他(た)」の営為の豊かさを、二冊の『他(た)なる映画と』は鮮やかに示している。
(2024年10月9日掲載)
濱口竜介『他なる映画と』全2冊、2024年7月、インスクリプトより刊行https://inscript.co.jp/b1/978-4-86784-006-1
角井誠「「からだ」で書かれた物語――濱口竜介『他なる映画と』書評」
https://inscript.co.jp/contents/20241009-2