「からだ」で書かれた物語――濱口竜介『他なる映画と』書評

1

 『他なる映画と』と題された2冊の本には、濱口竜介が2009年から2024年までの15年の間に書いた、映画についての「文章」が収められている。「1」には、様々な機会になされた10回分の講座がまとめられているが、よくある「講演採録」ではなくて、事前の「読み上げ原稿」に修正や補足を加えてあらためて「文章化」されたものだという。他方で、「2」の方には、書き下ろしも含む33本の論考が収められている。いずれも「批評」と呼ぶにふさわしいクリティカルな論考であるが、濱口自身はそれらを「批評」と呼ぶことを差し控えている。だから本書に収められているのは、いわゆる講演採録でも映画批評でもない、映画をめぐる「文章」ということになるだろう。2冊が単に「1」と「2」と題されていることも、そうした事態を指し示しているのではないか。アンドレ・バザンについての文章で、トリュフォーがバザンを評して用いた「映画の書き手」という表現が引用されているが(2巻230頁)、それはそのまま濱口自身にも当てはまるように思える。「映画そのものを書き取ろうとした人」。

 では、ここに収められた文章はどういう「文章」なのだろうか。それは、濱口竜介の「からだ」を通して「書き取」られた映画の記述である。あるいは、濱口の「からだ」で書かれた物語と言ってもいいかもしれない。連続講座「他なる映画と」の第3回「映画の、演技と演出について」の冒頭で、濱口は自身の試みを次のように説明している。「いくつかの点として存在している情況証拠を取り上げて、私自身の撮影現場での経験・記憶、言ってみれば「からだ」全部を使いながら、どのような演出があったかを推理していく」こと(1巻135頁)。本書で繰り返し強調されるように、カメラは「機械的な無関心」でもって現実を記録する装置である。だから映画は撮影現場の記録として、作り手の仕事、演出の痕跡をとどめている。それらの痕跡や他の資料を手がかりにしながら、濱口は「私自身のからだのありよう」を拠り所としつつ、古典的な作家から同時代の作家まで様々な映画作家たちの演出、仕事の「核心」を描き出していくのである。濱口の文章のなかで、まるで実際にそこに立ち会っていたかのように、撮影の現場が立ち上がってくる瞬間はとてもスリリングだ(黒沢清『CURE』(1997)の分析、「『東京物語』の原節子」、小森はるか論などなど)。とはいえ、いかに精緻に分析されても、それらはあくまで「ある種のフィクション」(1巻8頁)であるだろう。そう、「からだ」で書かれた物語。千葉雅也の表現を借りて、映画の「リバースエンジニアリング」(『文學界』2024年9月号)とも呼ぶべき手つきは、多かれ少なかれ、本書に収められたすべての文章に通底している1それは、かつてフランスの映画批評家アラン・ベルガラが提唱した「映画における創造行為の分析」というアプローチを理想的なかたちで実現するものであるように思う。アラン・ベルガラ『六〇年代ゴダール――神話と現場』奥村昭夫訳、筑摩書房、2012年

 そもそも制作の現場――撮影であれ編集であれ――において映画作家は自身の「からだ」を拠り所とせざるをえない。「ゴダールの編集原理としてあるのは何より彼自身のからだである」(1巻54頁)。だとすれば、自身の「からだ」を頼りにしながら想像力を働かせることは、作家や作品の「生産原理」の「核心」(2巻368頁)へと迫る王道だと言えるだろう。そうしたアプローチゆえ、他の映画作家について語ることは、往々にして、というか必然的に濱口の「自分語り」にもなる。本書には、「偶然を捉えること」や「偶然と想像」など、自身の創作について語った文章も含まれているが(そこに、「『ハッピーアワー』の方法」(濱口ほか『カメラの前で演じること』左右社、2015年)も加えるべきだろう)、そうした自身の「生産原理」を語る文章と他の映画作家の「生産原理」を語る文章は地続きだと言える。

 ただし「生産原理」の把握は、決してそれを模倣するためになされるのではない。作家や作品の「原理」は、その作家の身体の固有性、「ただそのようにしか為すことのできない」という「変えがたさ」――濱口はそれを敢えて「欠陥」と呼んでいる――に基づいてのみ構築されうる(2巻365頁)。「生産原理」はそもそも模倣不可能なものである。映画において「真似ることのできる正解はどこにも」ない(1巻219頁)。確かに、濱口が採用する「本読み」の方法は、ジャン・ルノワールに由来している。しかし、濱口の「本読み」はルノワールのそれと同じではない。濱口の「からだ」にあわせてカスタマイズされた、濱口固有の「生産原理」である2これについては、以下の拙稿も参照されたい。角井誠「「演者のからだに固有のニュアンス」を聞く――濱口竜介と「本読み」の方法」、『ユリイカ』2018年9月号、234–243頁。。それは、ルノワールの「生産原理」を把握したうえで(1巻191–200頁で分析がなされる)、それを自身の「からだ」、「欠陥」に即して――試行錯誤しながら――カスタマイズすることではじめて可能となる。「有効な方法は常に、変えることのできない「原理」と、およそ変えがたい自身の「欠陥」を見定めることから生じる」のだ(2巻365頁)。

 身体を尊重すること。それは、他者との共同作業たる「演出」という営みにおいて最も重要な原則となる。それが指摘されるのが、ジョン・カサヴェテス『ハズバンズ』(1970)の「歌のコンテスト」シーンについての分析である。見る者を不快にさせかねないこのシーンは、濱口にとって、「演出というものの最も避けるべき可能性」と「演出の「核心」とも言うべきもの」が共存する決定的な場面をなしている(1巻206頁)。演出の「暴力性」を決して「他人事」とせず、演出の可能性を問う、その真摯な思索はぜひ実際に読んでもらいたい。ここで問われているのもやはり演出家の「からだ」の問題である。演出家は、俳優に接するうえで、自身の「からだ」に「率直」でなければならないと濱口は言う。「からだは、無意識は、自分の今のこの意識よりもより多くのことを知っている」(1巻219頁)のだから(別の箇所で、「身体が動くならば然るべく動くのがよく、動かないならば動くべきではない」(2巻251頁)とも書かれている)。俳優の「からだ」と自身の「からだ」を同時に尊重=肯定せねばならない。演出が人間どうしの関係である以上、「生産原理」をめぐる濱口の思索は――美学だけでなく――「倫理」の次元まで及ぶことになる。

2

 濱口の「からだ」を通して「書き取」られた映画の記述。驚かされるのは、その「書き取り」の精度である。かつてこれほどの精度で、一人の映画作家が自身や他の映画作家の制作について言語化したことがあっただろうか。

 分析の精度は、何よりもまず濱口自身の「からだ」の精度に由来する。映画を見る=聞く経験と、映画を作る経験を通じて涵養された「からだ」のもつ知覚の精度。たとえば、ルノワールの「本読み」についての分析は、上述のように、身をもって「本読み」を実践した経験に支えられているし、相米慎二論やブレッソン論での「あるかなきかの小さきもの」――知覚可能性と不可能性の際にある、身体や声の微細な動き――をめぐる繊細な記述は、撮影の現場で、自身の「注意力」を研ぎ澄ませて、俳優の身体と向き合った経験に裏打ちされたものだろう。

 他方で、濱口の記述が「からだ」をフル稼働させて感知しえたものを「書き取る」その類い希な「言語化」の能力に支えられていることも指摘しておかねばならない。「からだ」によって感知したものを言語に移し替えることは容易ではない。それが、ほとんど知覚不能なほどの「微小」、「極小」なものを相手にする場合は尚更だ。粗野な「言語化」はそれらを容易に損なう。その「微小」にふさわしい繊細さで掬い上げるには、どれほどの粘り強さが必要であることか。それでいて、濱口の文章は、明晰さ、読みやすさを決して失うことがないのだから驚きを禁じえない。とはいえ濱口竜介が、言葉のニュアンスに極めて敏感な脚本家であることを思えばそれもまた当然のことなのかもしれない。とりわけ小津作品をめぐって繰り広げられる語尾のニュアンスをめぐる分析がその証左だろう。

 精緻な「からだ」の知性と「書き取り」の力の緊密な協働。それが、濱口の文章に類い希な正確さと精度、そして面白さを与えている。土本典昭『海とお月さまたち』(1980)に登場する漁師の身振りを記述した「理想的な映像」と題された小文は、それ自体、映画についての「理想的」な書き取りともいうべきものだ。

 映画の「書き取り」の一つの到達点をなすのが、2巻のおよそ3分の1(!)を占める、ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』(松浦寿輝訳、筑摩書房、1987年)についての論考「ある覚書についての覚書」だろう。『シネマトグラフ覚書』は、ブレッソンが自身の経験に基づきながらその「生産原理」を綴った稀有な書物だが、ここで濱口が試みるのは、ブレッソンの言葉を「神秘的」な箴言としてではなく、「制作現場における「唯物的な」実践者」の言葉として徹底的に読み解くことだ。ブレッソンにおいて「神秘的」な物言いに留まっているものを、より精緻に言語化しようとする恐るべき試み。

 その白眉をなすのが、『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962)におけるフロランス・ドゥレの「目線」と「口角」をめぐる分析である。ブレッソンは、プロの俳優ではなく、「モデル」と呼ばれる素人を起用し、「仕草」と「セリフ」を何度も反復練習させた。そうして「自動」化された身ぶりと声のうちに、モデルの「内面」、「魂」が露呈される。そうブレッソンは考えたのだ。しかし、そうした物言いは「神秘的」なものに留まっていて、制作の「具体」を教えてくれはしない。そこで濱口は、『ジャンヌ・ダルク裁判』におけるドゥレの「仕草」の分析に移る。ドゥレ扮するジャンヌは、審問官たちを相手にひるむことなく受け答えをしていく。そのさい、ドゥレは、セリフにあわせて規則的な「目線の上げ下げ」を行う。しかし、その規則に乱れが生じ、ドゥレの顔に「ほとんど視認できないぐらいの口角の上がり」(2巻279頁)、「微笑と呼ぶことさえ躊躇されるような「笑みらしきもの」」(2巻280頁)が浮かぶという。濱口はこの「口角の上がり」を「あるかなきかの「笑み」」(2巻283頁)と呼んでいるが、「あるかなきか」は、2巻の巻頭の相米慎二論のタイトルでもある。10年の時間によって隔てられた二つの論考が響き合う。ともかく、この微小な運動こそが、モデルの「内面」を露呈させる「窓」であるとされる。こうした微細な運動を注視することではじめて「シネマトグラフの映画においてモデルに生起している事態にアクセスするための一つの「パス」」が得られ、「自分と彼女の間に通路が開かれた」ような思いをしたのだという(2巻289頁)

 こうして濱口は、『シネマトグラフ覚書』の思索を映画の具体へと接地させてみせる。正直、最初は、半信半疑で読んでいた。本当に口角が上がっているのか。これは濱口の妄想なのではないか。しかし濱口は、「初見時は気のせいのようにも思われたが、何度も見てみれば「口角は上がっている」と間違いなく言えるようになる」と請け合う(2巻279頁)。「だったらきっとあるはずだ」と濱口の言葉を信じてもう一度見てみる。最初に「口角の上がり」が指摘される箇所――(f)と番号が振られた箇所――は少しわかりにくい。が、その後の部分は口角が上がっている気がする。そうしてくり返し見るうちに、濱口のテクストなしで、「あ、ここは上がっている」とわかるようになる。そのとき自分もまた「パス」を得たような思いがした。ここに至って気づく。この本は、読者の知覚を作り替えてしまう本なのだと。濱口の言葉を信じて、読者もまた「注視」を実践すれば、読者もまた「あるかなきか」の微小なものを「あらしめる」ことができる。ところで、そうした事態は、フィクションに、物語に似ていないだろうか。

3

 『他なる映画と』には、フィクションをめぐる考察が散りばめられている。現在、どうすればフィクションは可能か。この問いは、とりわけ初期の論考で明確に提起されている。ジョナサン・デミ『レイチェルの結婚』(2009)論、ロマンチック・コメディ論「映画におけるISAウィルス問題に関する研究報告」(ともに2009)、「ロメールと「死」にまつわる7章」(2010)はいずれも「フィクションの力」を主題としているし、相米論の「あるかなきか」でも映画への「信」が問われている。これらの文章が、『PASSION』(2008)、『永遠に君を愛す』(2009)など初期のフィクション作品と同時期のものであることを考えると、それが当時の濱口にとっての課題であったと考えられる(震災の年に書かれた相米論は、「あるかなきかの小さきもの」という別の問題系を含んでいる)。『不気味なものの肌に触れる』(2013)から『ハッピーアワー』(2015)に至る時期に行われた「作劇」をめぐる連続講座「改心を撮る」、「復讐を描く」、「運命をつくる」でも、「信じがたいもの」を描くにはどうすればよいかが問題となっている。

 現代においてフィクションは困難である。撮影所全盛の時代には、「ジャンル」が確固として存在し、「こういう物語ではこういうことが起こりうる」という「約束」が観客に共有されていた(1巻329頁および2巻40頁)。しかし今やそうした「共同幻想」は失われてしまっている。だから「因果の連鎖」に収まらない「信じがたい」こと――偶然、奇跡、不意の改心、出し抜けな愛情――を描くことは、観客の「信」を損ない(「そんなバカな」)、映画そのものを崩壊させるリスクをもつ。それでも「信じがたいもの」を選び、「フィクションの力」に賭けること。そうした選択をなす監督たちを濱口は留保なしに擁護する(それは濱口自身の選択でもある)。それによって映画は、容易に了解可能な作りものであることをやめて、観客にとっての他者、いわば「他なるもの」として立ち現れることになるからだ。映画は、個人を越えた「この世界のありよう」の表現となりうる(1巻302頁)。

 だが、そうしたことが可能であるためには、「信じがたいもの」をそれでも「信じる」という観客の意志が必要となる。現代の映画において、観客は「映画のフィクションの成立を支える絶対要件」、「ほとんど作者と同等に映画に力を与える」存在となる(2巻39–40頁)。ジャンルという「信」の体制が失われた時代において、映画は観客の「信」なしには存在しえない。フィクションを撮るためには、何よりもまず観客がともに「作り手」となるように映画を作らねばならないのである3一連の「信」をめぐる議論は、ジル・ドゥルーズが『シネマ』の第2巻において論じた「現代映画」における「信頼」の問題と通じるように思われる。ドゥルーズは、人間と世界のつながりが失われてしまった現代において、映画は、人間を「この世界」へと結びつける「絆」をこそ撮影しなくてはならないとした。「世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である」(ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006年、240頁)。ドゥルーズの名前は言及されていないが、濱口の映画論は、そうした課題に対して実践的に応えるものだと言えるだろう。

 その後、フィクションをめぐる問題は正面から問われなくなる。しかし、2023年に書かれた「物語りについて」というテクストで、私たちは再び類似した議論がくり返されるのに遭遇する。ただし、『うたうひと』(2013)に出演した民話研究者の小野和子をめぐるこのテクストで論じられるのは、もはや映画の語りではなく、民話、というか「物語り」一般についてである。エンターテイメントやメディアが発達した現在、民話への関心は「希薄化」している。しかし民話は「聞き手側の関心」なしには成立しえない。「聞き手が語りに対して十分な関心を注ぐことによって、物語世界が「結界」のように語り手と聞き手を包むことになる。逆に関心なきところにこの「場」は立ち現れない」(2巻246頁)。民話はしばしば、因果の連鎖に収まらない「不条理」を含んでいる。その「不条理」は物語の背後にある「現実」と不可分のものだ。それを手放してしまうと物語はその存在理由を失う。語り手は「覚悟」とともに自らの物語を語る。そして聞き手に「その不条理をなお信じ、物語の世界をあらしめる」よう誘う(2巻247頁)。聞き手は、その「覚悟に見合う切実な関心」を寄せることが求められるのだ。こうした議論は、濱口の思索と実践の根幹をなしているように思う。出来事を「因果の連鎖」に押し込み「情報」に変えてしまうメディアやエンターテイメント――いわゆる「「面白い」映画」(2巻191頁)も含まれる――に抗して、反時代的ともえる「物語り」の可能性に賭けること4こうした「物語り」についての議論は、ヴァルター・ベンヤミンの「物語作者」論を想起させるところがある。ベンヤミンは、「経験の相場」が低下し「情報」がもてはやされる「近代」という時代にあって、「経験」を語り継ぐ「物語」がもつ意義を論じた。ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」三宅晶子訳、『ベンヤミン・コレクション2』浅井健次郎編訳、ちくま学芸文庫、1996年、283–334頁。。そうした挑戦は、『寝ても覚めても』(2018)や『偶然と想像』(2021)、『悪は存在しない』(2023)で語られる「信じがたい」物語たちに思いを馳せれば明らかだ。

 ある時期以降、フィクションの問題が後景に退くとしたら、それは濱口の関心が、作劇や語りよりも、身体に生じる「あるかなきかの小さきもの」や「些細な偶然」(1巻253頁)を捉えることに向かうからだろう。そのとき、フィクションよりも映画の「記録性」、「ドキュメンタリー」の力が前景化してくる。より正確に言うと、「記録性」と「断片性」(それが物語性の契機となる)、「ドキュメンタリーとしての映画の力」と「フィクションとしての映画の力」を「同時に最大化する」ことという――なんとも欲張りな(!)――課題が浮上してくる(1巻39頁、43頁、128頁)。そこで求められるのも、「あるかなきか」のものを信じ「あらしめる」作り手と観客双方の「信」であることに変わりはない。「関心」や「信」なきところに映画は立ち現れない(濱口がくり返し映画館の重要性を説くのは、映画館こそが「信」が可能となる「最良の環境」であるからだ)。「覚悟」や「信」という言葉は、どこか精神論めいていて、胡散臭く聞こえるかもしれない。しかし本書において濱口がなし遂げたのは、「信」が可能となるための条件、方法を徹底して言語化、「脱神秘化」し、さらには、身をもってそれをパフォームすることであった。そう、「信じること」は、「容易」ではないかもしれないが「必ずしも特別な技術」(2巻27頁)ではないのだ。

(2024年10月9日掲載)

濱口竜介『他なる映画と』全2冊、2024年7月、インスクリプトより刊行https://inscript.co.jp/b1/978-4-86784-006-1

細馬宏通「他(た)は存在するか――濱口竜介『他なる映画と』書評」https://inscript.co.jp/contents/20241008

*1……それは、かつてフランスの映画批評家アラン・ベルガラが提唱した「映画における創造行為の分析」というアプローチを理想的なかたちで実現するものであるように思う。アラン・ベルガラ『六〇年代ゴダール――神話と現場』奥村昭夫訳、筑摩書房、2012年。

*2……これについては、以下の拙稿も参照されたい。角井誠「「演者のからだに固有のニュアンス」を聞く――濱口竜介と「本読み」の方法」、『ユリイカ』2018年9月号、234–243頁。

*3……一連の「信」をめぐる議論は、ジル・ドゥルーズが『シネマ』の第2巻において論じた「現代映画」における「信頼」の問題と通じるように思われる。ドゥルーズは、人間と世界のつながりが失われてしまった現代において、映画は、人間を「この世界」へと結びつける「絆」をこそ撮影しなくてはならないとした。「世界への信頼を取り戻すこと、それこそが現代映画の力である」(ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一ほか訳、法政大学出版局、2006年、240頁)。ドゥルーズの名前は言及されていないが、濱口の映画論は、そうした課題に対して実践的に応えるものだと言えるだろう。

*4……こうした「物語り」についての議論は、ヴァルター・ベンヤミンの「物語作者」論を想起させるところがある。ベンヤミンは、「経験の相場」が低下し「情報」がもてはやされる「近代」という時代にあって、「経験」を語り継ぐ「物語」がもつ意義を論じた。ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」三宅晶子訳、『ベンヤミン・コレクション2』浅井健次郎編訳、ちくま学芸文庫、1996年、283–334頁*