韓国・定林寺五重塔の逓減率

図1 定林寺五重塔と石山修武  撮影:中谷礼仁

大地・かたち・共同体

 大地を舞台に人々は社会集団を形成してきた。しかしそこに必ずかたちが介在する。大地の灼熱を避けるための足裏のサンダルから始まり、衣服、さらに住居、建築、そして都市に至るまで、人間と大地の間には必ず何らかのかたちがある。人間は大地と、かたちを介してのみつながっている。この関係を「大地・かたち・共同体」と総称しよう1*1この考え方は、2013年に行ったユーラシアプレート境界各地における居住様式の研究の際に生まれたもので、Buildinghoodと表現した。Livelihood(人々の生活)を成立させる空間化された大地のことである。参照:中谷『動く大地 住まいのかたち プレート境界を旅する』岩波書店、2017。そのかたちの最たるものが建築空間である。

 彼ら彼女らは、ときには厳しい自然環境のもとで、より多く、より生きながらえるために、大地を一枚一枚持ち上げるようにして空間(あきま)を作った。人々はそれによって、はじめて自らに適した生活環境や社会組織を手に入れられたのである。ただし空間を作り出すためには、土、石、木など、その土地々々が生み出す素材にみあった建て方が必要であり、それがいくつかの建築造形の型を生み出した。この十年来、そのような見方で世界各地の建築文化を見て回ってきた。2023年夏、建築家石山修武らとともに古代朝鮮にいわれ深い場所をめぐって韓国をレンタカーで旅した。その経験は、日本人という国籍を持った私にとって、はじめなければと思っていた東アジアの枠組みについて考えはじめる契機にもなった。建築のかたちから始め、それを媒介して現れる、東アジアの大地と共同体(人間)の姿についてこれからいくばくか検討をしてみたい。

図2 アクロポリスの丘から見たアテネ市街  撮影:中谷礼仁

 まず、建築は大地の色を引きずる。以前、アクロポリスの丘に立った時に、その眼下をおおい尽くす夕焼けのアテネの市街は、そのどこもかしこもが、パルテノンと同じ大理石の色に輝いていた(図2)。街を作り出す建築の外皮には、しっくい材から石板まで、多くの大地が素材として引き剥がされ用いられることになるからだ。そこには、作り手一人一人の趣味などではどうすることもできない、建築と大地との強い関係が自ずと現れていた。

 その関係に気づいた眼からは、韓国の街の色は実は日本国内によく似ていた。街にハングル表記がなければなかなか見分けがつかないのではないか。その共通の印象の色は、ややつめたく陰気な灰色である。特に曇天の時に、その色が現れてくる。

 おそらくその印象の始まりは、自分の先祖が眠る墓石の灰色の御影石にあったと思う。御影石は、地下のマグマが低音でゆっくりと固結する火山性深成岩である花崗岩を切り出した商品だ。花崗岩は、主調となる石英、白い斜長石、時に赤みを帯びるカリ長石、黒い雲母などの結晶で構成され、その総体としての代表色は白けた灰色である(磨くほどに色の深みは増していく)。そして戦後日本で建設された夥しいビルも同じ石で外壁が貼られた。さらに他の素材でもその色にみあった塗料、金属の仕上げが選択された。その意味ではアテネと同じく、灰色もまた大地からの色なのだ。日本と韓国の街の色が似ているのは、その大地に相応の類似があるからである。

図3 扶餘(プヨ)および韓国の主要都市

かたち-定林寺五重塔の逓減率

 韓国東南岸の釜山港から始まった旅は、中央山地を越え、なだらかな傾斜が続く西岸へ向かった。到着した扶餘(プヨ、図3参照)は、主要河川であり韓国西岸に流れ込む錦江に沿って所在する、忠清南道の中心都市であった。そこは7世紀後半、三国時代の百済が滅亡した時の最後の首都であった。百済は、日本の建築、特にその仏教建築発展の歴史にとっては決定的に重要な存在である。なぜなら6世紀の中盤に百済から日本への仏教伝来が始まったと記録されているからであり、その布教の環境を整えるための専門の工人が百済から渡来してきたことが日本書紀に記されている。そして彼らの中にいた建築工匠人の設計技術がその後の日本建築の質を大きく決定することになった。

 冬十一月庚午朔百濟國王付還使大別王等獻經論若干卷律師禪師比丘尼呪禁師造佛工造寺工六人遂安置於難波大別王寺 日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀 

 韓国の歴史的空間を旅するにあたり、先人によって読み下された日本書紀をようやく通読してその記述の大もとをみいだした。さらに当時の国史であった同文献には、予想よりもはるかに多くの朝鮮半島との交渉史が綴られていたこともようやく知った。

 扶餘には百済の古代建築の痕跡が残っている。戦乱の多かった朝鮮では建築の上部構造が残ることが少なかった。激戦の地となった扶餘では20世紀終盤から発掘も進み、2015年以来、いくつかの重要史跡が「百済歴史遺跡地区」として世界文化遺産に指定されている。

 そのうちの一つである定林寺趾(以降、定林寺)は扶餘の中心部に位置する代表的史跡である。発掘され明らかになったその伽藍は、日本では四天王寺に現れたような、子午線(南北線)上に一直線上に配置されている。そして石造の五重塔だけがその伽藍跡の中央に創建初期の姿のまま残っていた(図1)。その高さ8.3mの小塔であり、大韓民国国宝第9号に指定された。

図4 法隆寺伽藍  撮影:中谷礼仁

 この石造の五重塔は、百済を滅ぼした唐の武将による戦勝宣言が刻まれているというなんとも重い史的証拠なのでもあったが、自分の興味は、この塔に対峙してその姿全体と細部との関係をしっかりと観察することにあった。この塔に、百済から伝わった技術で建立されたとされる法隆寺五重塔の似姿を見出せるのか、それを自分の目で確かめたかったのだ。

 その発端は40年前の大学時代の授業に遡る。当時、建築史を講じていた教師・中川武(1944―)は、法隆寺を用いて私たち学生に古代建築の本質を説明した。彼いわく、建立当時の法隆寺はなによりもまず仏の住処であったのだから、その伽藍内(図4 法隆寺伽藍)に常人が入ることは許されなかった。豪族は中門から参拝したのであり、それ以外の階層は、はるか手前の南大門からしか参拝できなかった。ここからが重要である。それゆえ古代の仏教建築は遠くから眺められた姿にその存在価値があった。これは建築の姿に大きな特徴をもたらす。それは建築各部の関係を多少犠牲にしようとも、全体として印象強い形を重視する設計態度であったと彼は述べた。

図5 法隆寺五重塔  Wikimedia Commonsより
図6 法隆寺五重塔の肘木  Wikimedia Commonsより

 「法隆寺の五重塔は遠望したときにその力強い姿が発揮できるように、他の時代の塔には見られない強い逓減を持っている。つまり塔の上層に行くにしたがいその幅を激しくしぼり、それによって三角に近い安定した姿をしている。実はその実現のために、当時の匠たちは建築細部での合理的表現を犠牲にした。たとえば各層は柱間三つによって構成される三間柱間の壁なのに、最上の五層目だけは二間の柱間である。逓減が強すぎたためだ。また下から数えて四層目はかろうじてまだ三間柱間だけれども、その柱間の寸法は極度に狭くなった。そのため梁を、柱の上で両腕を広げるようにして支えている部材である肘木(ひじき)は、その柱間では収まらなくなってしまった。当時、百済からやってきた最高の技術者であった大工(おおいのたくみ)はこれをどう解決したか。それは隣り合う肘木同士を一体化して強引に納めたのだ(図6 法隆寺五重塔の肘木)。下層から上層への強い逓減によって四層目でついに隣接肘木が融合してしまっている。

 今まで全く気づかなかったが、その通りだった。法隆寺五重塔は、その全体の形を優先したがために、むしろ意図的に細部を矛盾させた表現を用いているのだった。私は、このとき生まれて初めて五重塔をしっかりと見たのだった。

 「日本建築の世界は、古代建築の持つこのような全体と部分の矛盾から始まった。後年になるほど日本建築を作り出した工人たちの組織と彼らによる美学は建築細部を熟成させていった。必然的に部材相互の比例関係や構成秩序が整備されていく。それによって緻密さは格段に増したが、法隆寺のような一体的力強さは変質した。それが日本建築の最後の姿、つまり絢爛豪華な細部を誇る江戸・近世建築の特徴となっている。」

 授業の数分間に日本建築史の根幹が現れた。日本建築は全体と細部との矛盾を抱えて展開した。全体は統治者によってもたらされ、それを構成する各部は多数の職種、無名の民衆たちによって成熟する。調和ではなく、両者の拮抗が各時代の名作を作る。さらに建築の姿は、先の参拝の制限と同時に必要とされた遠望的安定のように、社会からの要求を具体的に反映する。そして完成された建築や伽藍配置こそが、鑑賞者たちにその共同体像を明瞭に照り返すのだ。それまで日本建築をどのように理解すればよいかわからなかった身にとって、この説明は革命的だった。今になって思えばそれはヘーゲル・マルクス史観からの強い影響にあったが、練りに練られた解説であったことは間違いない。以来、法隆寺五重塔は、私の中で古代、つまり歴史的思考をうみだす矛盾の原点となっていた。

 さて定林寺には博物館が併設されていた。その展示では定林寺五重塔の実測から分析された、その各部の整った比例関係が説明されていた(図7)。実はこの復元の作者は米田美代治という日本人である。1933年来、当時の朝鮮総督府下で朝鮮建築の研究を推し進めた人物だった。彼もまたすでに、定林寺五重塔に法隆寺五重塔の面影を認め、その共通性を見出そうとしたのだった。結論として米田はそれらに共通する強い逓減率を強調したのだが、彼の分析はあくまでも全体から細部に至る調和的な比例を見出そうとしていたので、当然ながらその分析に、全体と部分の拮抗や矛盾は結果的には隠蔽された2*2

参考:米田美代治「扶餘・百済五層石塔の意匠計画」『朝鮮上代建築の研究』秋田屋1944

 体重をかけて塔を凝視した。石山はちょうど塔を挟んだ反対側で、画板に貼られた白紙と旅行時専用のスケッチ筆で格闘している。私のほうは米田が検討を割愛した塔の細部に着目した。塔の各層の主要な屋根は左、中、右の三つの部材によって構成されていた。この石塔もまた強い逓減を持ち、上層に向かうにつれ急速にその幅をしぼる。その調整は、屋根にとって最も大事な端部や軒の出に深く関係する左右端の部材はいじらずに、もっぱら中の部材長を調整することによって行われていた。二層目は一層目のおよそ3/4、三層目は2/3、四層目は1/2とその存在をせばめていき、そして最上の五層目でその部材自体が消滅した(図8)。その屋根材の下の、法隆寺五重塔では肘木位置に相当する石材もまた、三層目まで三分割であったものの、四層目は二材で構成され、五層目は単一材へと構成数を変えていくことを確認した。つまり石塔の細部は全体との秩序を保持したまま作られているわけではなく、やはり両者間の矛盾を宿していた。

 あらかじめ述べておくが、そもそも素材の異なる塔の共通性を安易に主張したり、定林寺と法隆寺の塔の間に影響関係があることを立証したと主張するほどナイーブではない。しかしながら定林寺五重塔にも、法隆寺のそれと全く同様の、全体と部分の矛盾とその調停作業が内在していたことは指摘してよい。全体性の先行を細部の矛盾で解決しようとした工人の問題意識が両者に等しく刻まれていた。そして両者のかたちから照り返されるのは、いずれも強い一権力を頂点とする当時の共同体の姿である(図1)。

 私は、元百済の都である扶餘にかろうじて残った遺跡に、日本における仏教建築の原型との共通性を見出した。しかしこの共通点の発見が、いささかの知的検討の上にかろうじて納得したに過ぎなかったことを、次の訪問先で思い知ることになる。(つづく)

図7 米田美代治による復元比例図
図8 定林寺五重塔についての中谷分析スケッチ

 

 

[1] この考え方は、2013年に行ったユーラシアプレート境界各地における居住様式の研究の際に生まれたもので、Buildinghoodと表現した。Livelihood(人々の生活)を成立させる空間化された大地のことである。参照:中谷『動く大地 住まいのかたち プレート境界を旅する』岩波書店2017

[2] 参考:米田「扶餘・百済五層石塔の意匠計画」『朝鮮上代建築の研究』秋田屋1944

中谷礼仁(Nakatani, Norihito)

1965年、東京生れ。建築史。早稲田大学創造理工学部建築学科教授。都市の先行形態の研究、今和次郎が訪れた民家を再訪しその変容を記録する活動を経て、現在長期持続集落研究・千年村プロジェクトを展開・継続中。2013年にはユーラシアプレートの境界上の居住・文明調査でアジア、地中海、アフリカ各地を巡歴。建築設計も手がける。2019年より生環境構築史をテーマに、編集同人松田法子・青井哲人らと学際的Webzineを展開。近年は、松村秀一らと解築学(解体からはじまる循環型建築学)を提唱。
[著訳書]
『実況・近代建築史講義』(インスクリプト、2020)『実況・比較西洋建築史講義』(インスクリプト、2020)、『未来のコミューン─家、家族、共存のかたち』(インスクリプト、2019。2020年日本建築学会著作賞受賞)、『動く大地、住まいのかたち─プレート境界を旅する』(岩波書店、2017。2018年日本建築学会著作賞受賞)、『今和次郎「日本の民家」再訪』(瀝青会名義、平凡社、2012。2013年日本生活学会今和次郎賞、同年第一回日本建築学会著作賞受賞)、『セヴェラルネス+ ─事物連鎖と都市・建築・人間』(鹿島出版会、2011)、『近世建築論集』(アセテート、2004)、『幕末・明治期規矩術の展開過程の研究』(早稲田大学博士論文、私家版、1998)、『国学・明治・建築家─近代「日本国」建築の系譜をめぐって』(波乗社、1993)、ジョージ・クブラー『時のかたち─事物の歴史をめぐって』(共訳、SD選書、鹿島出版会、2018)他。